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『神様、だ』
刹那、脳裏に閃いたのはそんな言葉。
蒼銀の輝きが描く、月輪。
尖鋭な軌跡が『命』を狩りとる瞬間を、この目で見ていた。
煌々と輝く、この黄金瞳で。
手負いの肢体はすでに己の意思では動かず、迫る顎を見つめるしかできない。
くやしい くやしい くやしい
涙が流れる。
噛み砕くための顎、開き。
迫る牙は、ほんの数日前に父母を襲ったモノのひとつ。
そんなモノに一矢報いることもできない、弱い自分が情けなくて。
母の仇を追いかけることもできない矮小な自分に怒りすら覚えて。
くやしさで臓腑が捩れて、いっそ吐きそうだ。
「でも」と、今際の際に幼子は決意する。
絶対に、最後まで瞳は閉じない。
せめて、最後まで視線だけは逸らさない。
『死』が訪れるその瞬間でさえ、この眼で敵意を叩きつけてやろう。
涙あふれる黄金の双眸に力をこめて、キッと睨みつけた。
自身を噛み砕くための顎が、大きく開かれる様を。
(……死んでも、絶対ゆるさない!)
――その瞬間、風が動いた。
肉を裂き、骨を断つ鈍い音。それは自身の身体が上げた音ではなくて。
地面に転がる首。そう、斬り落とされたのは怨敵の首。
開いた顎そのままの、幾重にも連なる牙が見える頭部が転がる。
ころころ、ころころ。
意味のないモノへと変容して。
「……な、に?」
何が起こったのか?
すぐには理解できず、転がる首を呆然と見ていた自分にかかる声は冬の寒気そのもの。
「おまえの命運は繋がれた」
問う声に視線を持ちあげれば、ぶつかるのは蒼穹の如き輝きを放つ双眸。
触れたら切れる繊月のような、印象の。
「幼子よ。窮地に陥ろうと諦めぬ、不屈の魂を持つ者よ。長らえたその命、おまえはどう使う?」
青白い光を放つ月を背負い、静かな声で問うその人に。
幼き者は答えた。
「……つよく、なる。うんと、強くなって……父さまと母さまのカタキをとる。……絶対、とる」
それは掠れ、ヒューヒューと聞き取りづらいが芯の通った声だった。血のにじむような決意の宿る声音だった。
だから。
「そうか。ならば共に来い」
美しくも孤高の月を思わせる声がふと、ゆるみ。
ついで彼は手を差し伸べた。
闇夜にあってすら紅く染まった小さな身体に。
『妖怪』
人知を越えた不可思議な存在。その力は往々にして人を軽く凌駕するため、人間は彼らを恐れ忌避する。対して妖怪の方は自身が害されない限り、人間自体にさほど興味はない。
だからこそ、このカルルク大陸では、相いれない存在が混在しようとも、それなりの秩序が保たれていた。
そう、あくまでそれは『それなり』の。
妖怪と人間の諍いはしばしば種族間の抗争に発展し、血を血で洗う凄惨な事態を引き起こすが、時として両者の間には闘争以上の悲劇が生まれることもあった。
悲劇の名を『異類婚姻』という。
異なる種族間での婚姻は自然に抗う歪なモノ。だからこそ人も妖怪も本能的にそれを忌避し、唾棄すべきものと捉える。
――けれど本能に抗っても落ちるのが恋、ならば。
禁忌を犯す恐怖も、本能の発する鳴りやまない警告も、他者からの白眼視も、とめどなく湧き上がる不安も、なにもかも。
なにもかも飲みこんで寄りそう者たちも決して皆無ではなかった。
そして、悲劇の真髄は万難を排した後に来る。
相いれない存在同士の異類婚姻。その最たる悲劇は、子を成してしまうことにあった。
異類婚姻とはそもそも歪で不自然な事象。ゆえに両者の間に子が生まれることはない。
滅多なことでは。
しかし稀に、そうごく稀に子を成した場合、母子を待ちうけているのは波濤のように押し寄せる苦痛と死への恐怖だけ。
母体が人間なら、宿した力の大きさに命を食われ、大概が出産まで保たない。
そして母体が妖怪である場合、異質な子の存在に身体は拒絶反応を起こし、絶え間ない苦痛の末にゆるやかな死へと向かう。
そして、そうまでして生まれ落ちた子は、絶えず妖怪に命を狙われ続けるのだ。
どちらつかずの半端モノ。けれど異種族間の血が混じり合うが故に強大なチカラ溢れるモノ。
だからこそ生粋の妖怪たちは混血の子らを狙う。その肉を食らうことで力を取り入れ、癪に障る気配を消すために。
生ずることで己に関わる者たちに不幸を招く『混血』。禁忌の代償。
そのひどく希少な混血児のひとりである少女は、いま己が命を狙う妖怪―狒々(ひひ)―と対峙していた。
「ふっ!」
右手を一閃。鋼鉄すらも切り裂く爪が横薙ぎにエモノを狙う。
が、浅い。肉を抉る感触が足りない。致命傷にはなりえない。
軸足を左に、手首ひるがえして更に一閃。避けられた。デカイ図体に見合わぬ俊敏さが腹立たしい。
瞬時に反撃が来る。剛毛におおわれた野太い腕が頭上から迫る。
小さいからと舐めているのか、叩き潰す意図で振り下ろされる腕を睨んで、一瞬で集中力を引き上げる。
「爆ぜろ!」
喚声に、タイムラグなしで顕現するのは青い焔。爆発。轟音。爆風。
丸太のような剛腕が、青白い炎と共に砕け散った。
怯み、見せた一瞬の隙。これで決める!
「はっ!」
重心を落とし、右足に全体重をかけて踏み込む一歩。グッと強く肘を引けば、突きだす速度は番えた弓矢を放つが如く。
「ガ……ッ!?」
鋭い手刀が狒々の胴を貫通する。
さあ、仕上げ!
集中。意識を集約して、言葉に力を乗せて。
「焼き尽くせ、焔!」
「ゴガアアアアアアアアアアアア!」
青色の炎に包まれた狒々が、地面の上をのたうち回る。
けれどそんなことでこの焔が消えるはずもない。
焔。青白い、それは妖狐の生み出す狐火。少女の意思のままに対象を焼き尽くし、滅ぼし尽くすまで消えないモノ。
現実の焔よりもはるかに高温のそれは、瞬きほどの間に敵を炭化させ、やがて一切の跡形を残さず狒々を消滅させた。
す、と一陣の風が吹き少女の豊かな髪、その金茶の毛先をさらりと揺らす。
肩口を少し越す長さの髪をかき上げて、少女は軽い吐息と共に緊張を解いた。
「ふう」
月夜に安堵の溜息を逃し、彼女は振り返る。
「マスター! どうでした、今の?」
なかなかの出来でしょう? そんな自信が透けて見える笑顔を浮かべて。
対する「マスター」と呼ばれた男は、表情ひとつ変えずに言い放った。
「最初の反応が遅い。踏み込みが甘い。反射速度は悪くないが、それに頼り過ぎて動作にムダが出ている。特に顕著なのが攻撃の切り返し時だ。一瞬だが隙ができていた。格下の相手ならともかく、格上相手なら三度は死んでいる」
直前まで行われていた戦闘の評価を率直に述べると、途端に眼前の少女はへにゃりと眉尻を下げた。
「マスターきびしい。今のは、けっこうイケてたと思ったのになぁ」
「慢心は身を滅ぼすぞ。精進しろ」
簡素な言葉で釘を刺した男は、少女から視線を外し背後へと振り返った。そこには簡易的にしつらえたかまどの上で、ふつふつと静かに沸騰する鍋がひとつ。そしてその周りにはすっかり飴色に焼けたシカ肉の串焼きがぐるりと林立していた。
鍋の中身を杓子でかきまぜ、汁をひと掬い。わずかに舌にのせて男は思案する。
「ふむ。少し塩気が足らんか」
そう、彼は調理の最中だった。
今日も野宿になると分かった時点で、いつも通りに作業を分担して。
狩りが得意な少女がシカを仕留めてきたのなら、自分がそれをさばき調理する。
今日はまだ年若いシカだったので、一部は塩と香草を揉みこんで串焼きに、残りは野草と共に汁物にしていたところだった。
そろそろ晩飯が完成する。そんな時分に――狩り先で目をつけられたのだろう――狒々の強襲により食事はお預けとなっていた次第である。
「わー! おいしそう! さっすがマスター!」
嬉々とした歓声をあげる少女の名をメイファと云う。弾むように歩く少女の肩先でクセのない金茶の髪がさらさらと揺れる。躍動感を秘めた琥珀の双眸と人懐こい笑顔が魅力的な少女である。
そして彼女がマスターと呼ぶ男の名はシン。こちらは黒髪に映える瑠璃色の双眸が印象的な美丈夫である。
青龍を父に持ち、母を人とする青年シンは――齢千年を越えた者を、青年と呼んで差し支えないのなら――過去に九尾の狐を母に、人間を父に生まれてきたメイファを助けた。
自分たち半妖の存在を許さない、生粋の妖怪たちから。
あれから十二年。
秘境と呼ばれる山奥での修練はひと段落ついた。となればそろそろ実践を踏まえた鍛練をさせる頃合いだろう。そう判断したシンがメイファを伴い山から降りた矢先のことだった。
向かう先はこの東方の地と西方を繋ぐ道、その要衝である街トルダン。
シンとしてはどの街でもよかったのだが、彼が山を降りるという噂を聞きつけた耳聡い人間が、「ぜひに」と彼らをトルダンへ誘致したからだ。
人の世でのシンの生業である「妖怪退治」を依頼するために。
そのトルダンに向かうため彼らは旅を続けており、今日も変わらない夜を過ごしているところだった。
肉の焼ける香ばしい匂いに誘われたメイファが、ピスピスと鼻を鳴らしながらたき火の前に座る。
それは見栄えよく成長した年頃の娘には似合わない、子供じみた仕草。
だが、この天真爛漫な少女には不思議と似合っていた。
シンはくつり、とかすかに喉を鳴らし、手元の鍋に塩をひとつまみ投入する。
「ふむ、そろそろ頃合いか」
彼の言葉を示すように串焼きにしたシカ肉は飴色に焼け、その身からしたたり落ちた脂が、パチパチと音をたてて火花を散らしている。
汁物もちょうどよく煮えているし、なにより食い意地の張ったメイファが、これ以上待てるとも思えない。
「よし、食べていいぞ」
シンの許可にメイファは満面の笑みを浮かべ、不可視のしっぽを振りながら串焼きの肉をつかみ取った。
「いただきまーす!」
がっつり。
そんな形容詞が浮かぶほど少女の食いっぷりは豪快だ。
中でも肉が大好物の彼女は、大ぶりに切った飴色の肉を文字通りがつがつと平らげていく。
それこそ火にくべた数だけ、ありったけ。
対してシンは肉にかぶりつく少女をよそに、汁物を椀に一杯のみ。あとは静かに酒杯を傾けるだけだった。
「マスター、これすっごく絶妙な塩加減! おいしー!」
「そうか。たんと食べろ」
「ふぁい!」
「……食べながら返事をするな」
行儀のわるい養い子にため息をひとつ。その間にもみるみる串焼きの肉は消えていく。
そのやたら人間くさい様子にシンはいつも少しだけ不思議な心持になる。
妖怪は元来『食』を必要としないモノ。それは半妖である自分たちにも当てはまる。糧とすべきは大地や大気に満ちる精気だけで、人間のように食事を取る必要などない。
しかしメイファは違った。拾った直後こそ強いショックが少女の食欲を消失させていたが、時の経過とともに彼女は食事を欲するようになった。
それこそ、ひなが親鳥に餌をねだるように。
(あれから十二年、か。道理で飯炊きの腕も上がるはずだ)
食事を欲しがる幼子のために、生まれて初めて『食事』らしきものを作り与えたのは、彼にとってはほんの瞬きほど前のこと。勝手のわからぬ中で悪戦苦闘したそれを前にして、自分でも「食べ物を愚弄するとはこういうことか」と思った出来だった。けれどそんなわけのわからぬ代物を、幼かったメイファは残さず食べてくれた。
(ありがと)
かみしめるように。
(ごはん、おいしい)
ぽつりぽつりとこぼれる言葉に胸打たれて。
(……おかあさんのごはん、みたい)
次はもっとマシなものを。その次はもっと美味しいものを。
その一念で作り続けた十二年の歳月は、
「うわん! この汁物もおいしい~! あたしマスターのやさしい味、大好き!」
愛弟子の笑顔を引き出せるまでに今や成長していた。
喜色満面といった態のメイファを隣に、シンはうすい三日月の浮かんだ口唇で杯を傾ける。
懐かしい笑顔と今ある少女の笑顔を肴に。
やがて少女の胃袋にシカ一頭分の肉がきれいに消えたころ、満足げなため息が聞こえてきた。
「はう~、ご馳走さまでした。今日もおいしかったですぅ」
満ち足りた彼女はしばし満腹の幸せに浸り口をつぐみ、場に満ちるのは夜の静寂。
赤々と燃えるたき火の揺らぎと、ときおり爆ぜる薪の音。それにフクロウの声が風にのり遠く聞こえてくる。
夜のほどよい静けさはなんとも心地がよい。
そして今が心地よいからこそ、この先に待ち構えている現実がシンを憂鬱にさせる。
――――出来ればずっと、こんな生活を続けたかった。
酒杯に映る歪んだ顔は、無表情ながらにどこか苦みを帯びて。
内心の苦り。それを杯と共に飲み干して、シンは口を開いた。
「メイファ」
「はい、マスター?」
「明日にはトルダン地区に入る。人間をほとんど知らないおまえには、想像もつかない事象が数多とあるだろう。いやな思いも、悲しい思いもきっとする。それでも、人里に降りることで得るものも確かにある」
「はい」
静謐すぎる声に襟を正されたメイファは瞬時にゆるんだ顔を引き締め、シンの瞳を見つめ返した。
若さゆえか、それとも元々の気質か? 少女はこういう時、決して瞳をそらさない。きちんと相手の目をみて、その心に相対しようとする。
その真摯さは好ましいもの。けれどそれは人間や彼らの住む世界に慣れていない不安をシンに惹起させる。
いつでも真正面から相対しようとするなら、遠からずこの子は傷つくだろう。
(真っ直ぐなこの子が傷つき疲れ果て、歪まないと誰が保障してくれるのだ)
庇護欲が彼の決意を幾度も揺らがせた。けれど結果として彼らは山を下りた。
それは他ならぬメイファのためであったから。
十二年前に両親を殺された幼子は復讐を誓った。それを生きる糧とするほどに強く、つよく仇敵を追い求めてここまで成長した。
そんなメイファだったから、シンは懸念を押し殺しても自身の結界を布いた安全な場所から少女を出すことに決めたのだ。
なにせ人の世に下りれば妖怪の情報に困ることはない。妖怪に警戒心を抱く人間たちの情報網は侮れず精度も量も十分だ。
どの妖怪がどこに分布しているのか、彼らは自衛のために絶えずその動向を気にかけ、情報収集に努めているから、大きな都市ではいつも最新の情報が手に入る。
それに加え、山を降りれば妖怪と接触する機会が格段に増える。それもシンの狙いだった。
十二年間、手塩にかけ育てたメイファの強さは並の妖怪を遥かに凌ぐ。
そんな少女に必要なのは実戦だ。命を懸けたやり取りは、鍛錬で培った彼女の実力をさらに高め研ぎ澄ませてくれるだろう。
だから、外に出す。
心も身体も強くさせるために。
小さな身体に秘めた強い望みを叶えさせるために。
(だから、わたしが臆するわけにはいかん)
そよ風にも当てないで守ることは簡単だ。しかし閉じた世界にあるのは、死にも似た安寧だけ。そしてそれをメイファは、いや、自分も望みはしないから。
迷いを封じ込めるようにゆっくりと瞼を閉じて。
次に瞳を開けたシンは、真正面からメイファを見据えた。
「だからこそよく聞け、そして忘れるな、メイファ。人間も妖怪も私たちの寄る辺にはならない。だからこそ、自分の取るべき道は自分で決めなければならないのだ。いいな?」
「はい、マスター」
それは常日頃、彼が口にした言葉。戒め。
稀少な混血児である先達の言葉。だからメイファは改めて肝に銘じる。
明日、自分は人の生活圏に生まれて初めて足を踏み入れる。そこでどのような扱いを受けるのか、マスターの言葉しか知らない自分には想像もできないけど。
「大丈夫です、マスター。あたし、どんな目にあったって絶対へこたれない。両親の仇を取るまでは、絶対に。何があっても立ち止まらないって決めたんだから」
笑顔をひとつ。琥珀色の双眸に意思の力、漲らせて。
幼い弟子の宣誓を、シンはまぶしいものでも見るように、少し細めた瞳で見つめていた。
西と東をつなぐ長いながい通商路。
物資と人が行き来することから生まれた街は多い。そしてトルダンもまた、その要衝のひとつとして栄えた街である。
元々このトルダンは海抜が低く、また周囲を山脈に囲まれている盆地のため、非常に乾燥した砂漠気候である。年間雨量はないに等しく、昼夜の寒暖差が非常に大きい。
昼は熱砂のごとく過酷な暑さ、夜は砂漠の夜の如く凍える寒さといった、人間が住むにはいささか不便な土地である。が、しかし周囲を囲む山脈から引いた地下水路を街中に巡らせることで、オアシスとして成り立つ街であった。
そしてオアシスの街としての賑わいは中心にあるバザールに集約されている。
東の地でありながら、どこか異文化情緒を漂わせるバザールに。
南北に延びる大通りには赤い石で組まれた建物が林立し、その軒先を飾るのは緋色やターコイズブルーなどの色鮮やかなテント。
テントが作りだす木陰の下には、瑞々しい野菜や果物がところ狭しと並べられている。
また路地を一本折れれば、そこはまた違う様相をみせて。
そこでは調理器具や日用品、さらには衣類が売られていた。
およそ生活に必要な品々が取り揃えられた中央バザールは、確かにここが交易都市であることを知らしめていた。
「うわ、すごい! あれなんだろ? あう、人垣でいっぱいで見えない~!」
バザールに入った途端、好奇心を刺激するものが多々あるのだろう。メイファはすっかり舞い上がって、まるで初めて散歩に出た仔犬のようにはしゃいでいる。
そんな少女が迷子にならないのは、ひとえにシンが手を繋いでいるからに他ならない。
元気すぎる養い子の手を引き、ときに跳び出し防止のために胴を浚い、彼は少女を連れて目的地を目指していた。
強い日差しに負けないよう袖の長い色鮮やかな服を着る人々。その姿はまるで南国の花か熱帯魚のよう。そんな彼らが行き交うこのバザールで、腕とヘソをむき出しにした袖なし短衣姿、しかも肌にぴったりとフィットした袴のメイファは非常に目立っていた。
ちなみにシンは深い緑が美しい鉄色の長衣に袴を着ていたので、目立つことなく周囲に溶け込んでいる。
「あ、マスターあれ見て! なんか分かんないけど、すっごく美味しそう!」
目新しい物に囲まれたメイファが、シンの腕をひっぱる。が、しかし彼は無言で着ていた外套を脱ぐと、それでメイファをすっぽりと覆い隠した。
「マスター?」
「その格好はこの場にあっては人目を引く。目立たないようそれを羽織っておけ」
「うえ~、これ暑いからやだって言ったのに~」
ちなみにトルダンに入る前にも同じやりとりがあり、その時はメイファの強固な拒絶に退けられたシンであった。
「……いいから着ておけ」
ちらりと流した視線は周囲へ。怜悧なまなざしはどこか牽制の色を帯びている。
師匠のそんな表情を見てしまったメイファは言葉にならない文句を口内でつぶやきながらおとなしく外套を頭からかぶった。
とはいっても頭ふたつ分の身長差がある彼の外套は頭からかぶってもなお余裕で引きずってしまう長さだった。
「う~……歩きにくい」
踏んづけて転ばないよう腹の部分で外套をたくし上げ、左手で押さえる。
ぶかぶかのずるずる。かっこ悪くてやだなぁ……しかも暑いし。
なけなしの乙女心がちくりと痛む。
「ねぇマスター、やっぱりこれヤダなぁ。すごく動きづらいし、何より暑いんだもん」
暑さに滅法弱いメイファがぐずぐずと文句を言えば、
「しばし辛抱しろ。郷に入れば郷に従え、だ。」
にべもないシンの言葉に不満は遮られた。
「う~……」
唸るものの脱ぎ捨てることはしない。なぜなら、
(ま、仕方ないか。マスターの言ってること間違ってないし)
パタパタと手で顔を仰ぎながら、メイファは彼の後をついて歩いた。
少女だって気づいてはいたのだ。この街に入った時から突き刺さる視線の多さに、そして無数にさざめく噂話の類に。
本当にこういう時、妖狐由来の聴覚のよさはどうかと思ってしまう。ざわめく街頭にあっても人々の囁きを正確に拾ってしまうから。
それはたぶん、聞かない方がいい類の声まで。
(あの子見て。なんてはしたない格好なのかしら)
(旅人のようだけど、変な格好の子ね)
(頭が弱いのか、あの娘)
(あんなに肌を露出して娼婦の類か? にしては色気が足りねえなあ)
「……うるさいなぁ」
ぼつり、耳に入る雑音を否定して。意識から極力『声』を除外する。
そして少女はなるたけ無心を保ち、先導する青年の後に付き従った。
太陽が中天に上る頃、ふたりは目的地へと到着した。
バザールを抜け中央通りを進むと、開けた一角に出る。そこには遠くは中東の香り滲ませたドーム状の屋根を頂く中央塔と、それを四方から囲む尖塔の城があった。
「ここが依頼主の居住ですか?」
そう尋ねたのは、ここに来るまでに見たどの建物よりも、それが豪奢だったからだ。とても個人が住むような『家』には見えない。
そんな思いが声に滲む弟子の問いに、シンはほんの少し口角を歪め、答えた。
「どの街も、どこの国も変わらん。為政者という者は、得てして権力を誇示したがる生き物だからな」
「ふーん、そんなもんですか」
大した感慨もなく呟く娘に、人間の自己顕示欲は分からない。
その無垢さ、幼さは好ましいもの。ゆえにシンの口元にのぼる笑みは、先ほどと打って変わり、仄かな愛しさが滲んでいた。
そして彼は少女を伴い、門番に声をかける。
自分たちがこの街の首領に呼ばれてきた『妖怪退治』を生業にする者だと。
さすれば、ほどなく門は開かれ、シンとメイファは首領の元へと案内された。
花の透かし彫りが美しい回廊を抜けると、一面の赤い絨毯が来客を迎える。
幾何学的にも見えるつた模様のそれの続く先には、数人の男たち。
その中でも一際目を引くのはゆったりとした作りのソファに腰掛けた初老の男。贅肉でたるんだ身体が、いくぶんだらしない印象を醸し出していた。
「これは、これはシン先生。貴殿の御高名はかねがね承っておりますよ。妖怪退治でその右に出る者はいないと謳われるシン先生なら、この街を襲う怪異な事件などもはや解決したも同然ですな」
恰幅のよい男は、歯茎をむき出しにして上機嫌そうに笑う。
(ヤダな、品のない笑い方)
意識して無表情をつらぬかないと、眉間にシワが寄りそう。
メイファはシンの半歩後ろで、ふつふつと滲みだす嫌悪感と戦っていた。
(なんでかなぁ? なんでこんなに気分が悪くなるんだろ?)
あの顔? それとも声? わからないけど、胸のうちがザラザラする。気持ち悪い。
「いやいや、本当にこのトルダンは運がいい。十年以上、世俗と関わりを断たれていたシン先生に連絡がついたのですから、これをついていると言わずしてなんと言いましょう」
この部屋に入って以来、一度も口を開かないシンとメイファを気にかけることもなく、男はひとり上機嫌で話し続ける。
しかし、ここに来てシンが口を開いた。
「勘違いしないでもらおう、ワン・ドン。今回の依頼を受けるのは私ではない。弟子のメイファだ」
紹介と共に彼は、メイファを自分の前へと押しだした。
「なんと? こんな細腕の娘が、妖怪退治なぞ出来るのか?」
侮蔑も露わに男の顔がゆがむ。
そして彼は無思慮な視線で、メイファを上から下まで舐めるように見回した。
値踏みするような視線に舐めまわされる嫌悪感は、筆舌に尽くしがたい。最悪だ。
ちょっとでも気を抜いたら、即座に耳としっぽが出てしまいそうなくらいに。
(うう~……でも、そんなヘマしたら、マスターに呆れられちゃうしなぁ)
それはイヤだと、その一心でメイファはここ一番の気力を振り絞り、嫌悪感を抑えながら笑顔をつくった。
「初めまして、ドン・ワン。マスター・シンの弟子でメイファと言います。この街の失踪事件は必ずあたしが解決しますので、どうぞお任せを」
笑顔、ちゃんと作れたと思う。なのに、なんで? なんでそんなに嫌そうな顔するの?
たるんだ男は渋面を作り、吐き捨てるように言う。
「女のおまえに何ができる。妖怪に食われるのがオチだ。寝覚めが悪い、帰れ」
「そんな! あたし、これでもマスターの元で十二年間修業を積んできました。体術も妖術もそんじょそこらの妖怪に遅れは取りません!」
慌てたメイファの一言。これに食いついたのはドン・ワンだった。
「妖術? 小娘、おまえは妖怪か?!」
「ちっ、違います! 半分だけど、ちゃんとした人間です!」
「半妖?! ならばキサマ汚らわしい混血か!」
ドン・ワンが叫んだ途端、室内の空気が一気に温度を失くした。
あからさまな嫌悪と拒絶のまなざしは、まるで汚物を見るようで。
ざわざわと場を落ち着かなくさせる。
ボソボソと小声で話すくせに、視線だけはメイファから離さず、まるで見張っているかのよう。
(……混血って分かった途端、態度が変わった。これが、混血児に対する世間の捉え方なんだ)
ひそひそと続く会話の応酬はすべて嫌忌に彩られ、肌に刺さる白眼視の圧力に思わず視線が床へと落ちる。
――――いたたまれない。
有形無形の圧力に、メイファが口唇をかみしめた、その時。
「ドン・ワンよ。私が今まで仕事に失敗したことがあったか?」
静かな、けれど一瞬でこの場を支配する、力溢れた声が響いた。
「――え?」
「なんですと?」
メイファとドン・ワンが、同時に声を漏らす。
けれどシンは意に返さないように淡々と問う。
「過去、私が妖怪退治に失敗したことがあったか、と聞いている」
軽く組んだ腕といい、片足に重心をかけた風情といい、シンはこの部屋に満ちる刺々しい気配をものともしない。
その泰然たる態度に、ざわついていたドン・ワンたちは飲まれ、オドオドと返答した。
「……い、いえ。シン先生に置かれましては、受けた仕事は絶対に成功させる方だと存じております」
いきなり何を言いだすのだ、この男は?
そんな気配が駄々漏れのドン・ワンに、シンは抑揚のない声で告げた。
「ならばその私が『弟子』と認めたこの娘になんの不満がある? 腕は確かだと私が保証しよう」
威風堂々。彼の姿はその一語に尽きる。
己の実力と実績を過不足なく知り、自分自身に絶対の自信を抱くからこそ醸し出せる風格。
それに触れた者たちはこうべを垂れるしかない。
しかしてシンは、言葉少なくしてこの場に座する者、すべての意思を支配した。
つまりは今回の仕事を、メイファに依頼せざるを得ない、といった形に。
「……メイファと言ったか? 妖怪退治の実績を持たぬおまえだが、シン先生に免じて、予定通り仕事を依頼するとしよう」
だが、と区切った言葉の後で、男は侮蔑も露わな視線でメイファを見据えた。
「ひとつ、報酬は出来高払い。つまり成功時にのみ支払う。ふたつ、街に物的損害を与えた時は、全額弁償してもらう。みっつ、混血のおまえを我が館に泊めるわけにはいかぬゆえ、外で宿を取れ。いいな?」
吐き捨てるような言葉を最後に、シンとメイファは統治者の館を出た。
依頼者の元を辞退したふたりは、今宵の宿を探すべく街の中心へと出掛けた。
流通の活発なこの街は、物資も人も多く流入する。だからこそ宿の類に困ることはない。
「部屋を借りたい。――いや、一部屋でいい。――ああ、そうだ」
案の定、ごく普遍的な作りの酒場を兼ねた宿屋の一室がすぐに取れた。
広場に面したこの部屋は窓を開けなくとも、行き交う人々が起こす喧噪にあふれている。
もうじき閉まるバザールの騒音はかなりのものだ。宵闇に追い立てられた人々が声高に売買の声を交わし、手早く商談をまとめていく。
そんな屋外の喧騒を隔てるためでもあろう、生地のしっかりした厚いカーテンを少し開ければ。
斜陽に照らされた眼下では、雑多な人々の群れが留まる事を知らず、足早に動いていた。
「……マスター」
その回遊魚のような様を見るともなしに見ながら、ぽつりと零れたのは幽かな声。
弱音の代わりに、ただ一言に思いを託して呼ぶ。するとゆるりと風が動き、背中に彼の体温を感じた。
「気にするな、とは言わん。だが我々への評価は概ねあれが普通だ。いちいち傷ついていたら身が持たんぞ」
そっけない言葉とはうらはらに、頭をなでる手つきはやさしい。
温かい掌が滑るたびに、悪意にささくれた心を宥めてくれるから。
「ちゃんと……がんばります、あたし。マスターの名前を傷つけないように」
深呼吸をひとつ。意識して感情を切り替えて、シンへと向き直った娘はそう言って笑った。
シンの好きな、強い意志を滲ませる琥珀色の瞳で。だから彼も薄い微笑をその口の端に浮かべた。
「ああ、励め。ただし私の為ではなく、己の成長のために、な」
「はい、マスター」
「とりあえず、少し早いが下に降りて夕食にするか。腹が膨れれば少しは気分もマシになろう」
「わっ、お店ごはん! ちゃんとしたお店でごはん食べるの、久しぶりですねっ! マスターの作るごはんもおいしいけど、お店のごはんも楽しみだなぁ!」
食に目がない少女は、シンの提案に目に見えて活気を取り戻す。
その無邪気な様に「今夜はなんでも好きなものを頼め」と続ければ、少女の歓声がひときわ大きく上がった。
階下に下りるとそこはもう夜のにぎわいを見せていた。
気の早い酔客が大声でわめき散らす間を、他の客の注文を頼む声が通る。
そんな怒声にも似た声の間を泳ぐのは給仕の人間。片手にめいっぱい酒を掴み、もう片手の盆の上には、タワーのように料理の乗った皿が積み重ねられている。
それらを持った店員はバランスゲームよろしく、機敏で柔軟な動きで各テーブルを回っては給仕し、あるいは新たな注文を取っている。
活気に満ちた夜の酒場。その一角、店の全てが見渡せる席に座ったメイファは、シンのお許し通りメニューの端から端まですべてを注文し店員の度肝を抜いた。
「お嬢ちゃん、そんなに頼んで大丈夫かい? うちはよそより量が多いよ?」
あまりの大量注文に中年女性が釘をさせば、
「あ、大丈夫です! こう見えて大食らいなんです、あたし。だから、安心してじゃんじゃん持ってきてください」
にこにこと至極ご機嫌なメイファが自信満々の笑みを浮かべた。
「そうかい? まあ、そこまで言うなら出すけどさ」
言っとくけどお残しは厳禁だからね、と釘をさしてから女性は厨房に戻った。
その一連のやり取りを見ていたシンの口からは、思案気なため息がひとつ。
雑踏に紛れたはずのそれを拾った少女は、きょとりと大きな瞳を瞬かせる。
「あれ、マスターどうしたんですか? もしかして疲れちゃいました?」
耳聡いのは妖狐由来のもの。
だったらせめてもう少し、そうほんの十分の一でもその聡さが他の感覚にも回れば。
そんなことを考えていたシンは、億劫そうに口を開いた。
「メイファ、確かに好きなものを頼めとは言ったが、あまり年頃の娘から逸脱した行為は慎め」
「え、いきなりなんですか? あたしなにか変なことしました?」
ああ、ダメだ。自覚がない。
年頃の乙女として、いや、それ以前に人間としてありえない。この分厚いメニューの端から端まで頼んだ挙句に、あれほどイイ笑顔で「大食らい」宣言するなど。
「……ひとつ、問おう。メイファ、おまえには年頃の娘の自覚はあるか?」
「え、なに言ってるんですかマスター? そんなのあるに決まってるじゃないですか! あたしだってもう十六ですよ、これで年頃の乙女と言わずになんて言うんですか!」
いや、年齢の事ではなく、とツッコミを入れる直前で、熱々の湯気に包まれた子ヤギの丸焼きが運ばれてきた。
「きゃーっ! 来た!」
途端に目を輝かせ、肉にくぎ付けになるメイファ。彼女の意識はいま子ヤギに集中し、直前のシンの言葉などはるか彼方だ。微塵も残らない。
「うれしー! 肉ぅ!」
ナイフを使うのももどかしいのか、膂力に任せて引きちぎり食べ始める弟子の姿に、シンは今宵二度目の溜息をついた。
――どうやら自分は、この子の育て方を間違ってしまったらしい。
今までは山奥、ないしは野宿ばかりだったから気にはならなかったが、これは意外と由々しき問題かもしれない。
そんな危機感を抱く理由。
それは次々と運ばれる、明らかに個人が頼む量ではない料理を、嬉々として平らげていくメイファ。
その見てくれは、かなりの美少女と称しても遜色はない。
なにせ母親が絶世の美女と謳われた金毛九尾だ。その娘であるメイファも、人間基準でいえばかなりの美貌を誇った。
人目を惹く美少女。そんな容姿をもつ娘が、大の男が数人がかりでも食べきれない量の食事を軽々と平らげ続ける姿は、奇異以外の何物でもなかった。
そして本人にその意識が皆無なのも問題に拍車をかける。
「おいしー! やっぱりお店のごはんは味付けが凝っていておいしい! 狩ったばかりのシカやウサギに塩振って焼くのもジューシーで好きですけど、手間暇かけたごはんは格別ですねえ!」
はぐはぐと豚と野菜の香味煮を平らげるメイファの笑顔は眩いばかりだ。
あんまりにも幸せそうな笑顔なので、小さいことはまあいいかとシンが思い始めたころ、数人の酔客らが彼らのテーブルに寄ってきた。
「よお、姉ちゃん。さっきから見てたけどよ、アンタいい食べっぷりだなあ」
「どうだい、俺たちと一緒に呑まねえか? 姉ちゃんの食べっぷりは見てて気持ちいいかんなあ」
「そうそう、あんたの食べっぷりを肴にしたら、きっと酒がウマくなるってもんよ」
「ふえ?」
豚足にかぶりついたまま相手にするな。
そう言いかけて、この場合、躾の問題じゃないかと思い直すシン。
酔漢の相手などさせるわけにはいかない。いくら養い子が色気より食い気全開でも、一応は年頃の少女だ。
「こっちこいよ。なんなら俺たちがご馳走するぜ、譲ちゃん」
やいのやいのと騒ぎ立てながらテーブルを取り囲む男たち。
その理性や思考はすでに酒に飲まれた後のようで、彼らは身目麗しい少女を侍らせたい欲望に突き動かされている。
対してシン以外の男性も、そもそも人間も知らないメイファには彼らの誘いの意味などさっぱりだ。
「へ?」
ひたすらきょとんとするメイファに焦れたのか、男のひとりがメイファの腕に手を伸ばす。
「ほら、あっち行こうぜ! こんなシケたツラした優男より、俺らのほうがメシだって楽しく食えるぜ」
「え、あの?」
「そうだよなあ。ほら、食いかけのままでいいからさ。皿、持ってやるよ」
「や、あたし、食事中だし」
「だいじょぶ、だいじょぶ。あ、ねーちゃん! この娘の料理あっちのテーブルに運んでくれよ」
「え、やだ、あの、やめてください。あたしマスターの傍がいいし」
妖怪相手なら一瞬で殺っているところだが、人間相手は勝手が掴めないのだろう。おろおろと視線をさまよわせ、次いで縋るように自分を見つめてくる弟子の姿に、シンはやれやれと軽く嘆息を漏らす。
動揺しすぎだ、未熟者。
そんな評価を下しながら、彼は動いた。
座ったまま足先だけで、メイファの腕を掴んだ男の足を後ろから前へと薙ぎ払う。
勢いよく宙に浮く酔漢の足。その後頭部が鈍い衝撃音を立てる前にはもう、シンの投げた椀と酒杯は残りの男たちの眉間を打ち抜いていた。
大した力を入れたようには見えなかったが、二人の男たちは瞬きする間もなく意識を打ち抜かれたのだから大した威力だ。
そして一瞬の出来事ののち、三人の男たちは地面に倒れ伏していた。
「う……わあ、はやっ!」
鮮やかなその手際に、なるほど人間の撃退法はこれでいいのか、と感心していたら、
「何をぼうっとしている座れ。まだ食事の途中だろう」
何事もないような表情をしたシンに窘められた。
「あっ、はい、マスター」
そのあまりに堂々とした態度に、一瞬店内がシンと静まり返ったことなど毛ほども気にせずに。
そして数拍の静寂を破って店内がどよめいた。歓声と指笛、口笛、嬌声が混じりあったざわめきで。
「ちょいと兄さん。アンタ強いじゃない! かっこいいよ、あのロクデナシ共を一瞬でやっちまうなんてさ」
隣の卓に着いていた妙齢の女性が席を立ち、賞賛の声もあらわに寄ってくる。
見ればなかなかに男好きのする肉感的な美女だった。少しきつめの顔立ちはシャープでありながらどこか蟲惑的で。豊満な胸元を誇るように開いた襟ぐりのドレスがよく映える。意思の強さを表すような濃い目の化粧とは対照的に、その身にまとう香りは男を惑わすように甘く濃厚だ。
夜の女。花街の女。
そんな雰囲気を醸し出す女は、シンの肩に腕を回すとその身にしなだれかかった。
「ねぇ、兄さん。その腕前を見込んで、ひとつ頼まれちゃくれないかい?」
「食事中だ。他をあたれ」
にべもない返答。けれど女は気にするそぶりもみせず、シンの隣の席をひくと勝手に座りこんだ。
「つれない男だねぇ。ま、でも、これくらいでヤニ下がる男は信用ならないから、ぜひともアンタに頼みたいね」
そして空になっていたシンの杯に新たな酒を注ぐ。それ自体に否応はないのか、そのまま杯に口をつけるシンの姿を見たメイファの額には縦ジワが三本発生する。
「むぅ~」
あからさまな敵対心を向けるが、女はメイファを歯牙にもかけないで、更にシンへと酒を勧めた。
「ね、兄さん。アンタ、うちの店で用心棒をしないかい? もちろん給金は弾むし、アンタが望むなら酒も女も提供するよ」
「どうだい?」と決断を迫る女は、先ほどの言葉に真実味を持たせるように、その豊満な胸をシンの腕へと押しつけた。
胸がたわみ、その形を変えるほど強く。
「ちょっと!」
やめて、いやだ!
眉を吊り上げたメイファが立ち上がる。
「あたしのマスターから離れて!」
二人の間に無理やり身体をねじ込む。引き剥がしたすき間に自分を押し込め、さっきまで女が掴んでいたシンの腕にしがみつく。
そしてキッと女を睨めば、ぽかんとした表情のあと、艶めいた女は苦笑した。
「なんだい、兄さん。あんた子連れなのかい」
「んなっ!?」
その瞬間、メイファは全身の毛を逆立てた。そりゃもう、ブワッと。
隠しているはずの尻尾が極太になるくらいに。
「だれが子供よっ!」
完全な臨戦態勢でガッと立ち上がったメイファ。
しかし。
「にゃっ?!」
後ろから伸ばされたシンに首根っこを引っ掴まれた。
「落ち着け、メイファ」
そのまま男の膝上に乗せられて、少女は自由を奪われる。
鋼鉄の如く鍛え上げられたシンの腕で羽交い締めも同然にされて。
「マスター!?」
なんで邪魔するの?
非難を込めて見上げても、彼は気にせず女へと告げた。
「用心棒は他を当たれ。見ての通り子連れなのでな」
「ちょっ、マスターまで!?」
しれっと断るシンの腕の中で、メイファはふがふがと抗議の声を上げるけれど効果はない。
彼は無言のまま、あやすようにメイファの頭をわしわしと撫でつけた。
その手は大きくて、あたたかい。触れているだけで安心する、メイファの大好きなシンの掌。
それに自分は滅法弱い。だから、ほら。
先ほどまで感じていたいらだちや反抗心、そういった尖った感情が萎えてゆくのが分かる。――分かってしまう。
「……マスター、ずるい」
敗北宣言にも似た一言をもらせば、男はまたひとつ、少女の頭を愛しげにくしゃりとかきまわした。
「――あら、まあ」
そんなふたりのやり取りを見せつけられた感のある女は、呆れたような呟きの後、くつくつと喉を鳴らしては笑った。
「ふふ……ずいぶんと大事に育ててるんだねえ、アンタ」
これじゃイロ仕掛けなんてムリじゃないか、と独りごちた女は、幾分表情を改めながらふたりに向き直る。
そして、場を仕切り直した。
「名も名乗らないで悪かったよ。アタシはカリンガ、このトルダンの花街を仕切ってる女さ。アンタたち、今日着いた流れのモンだろ? その腕を見込んでひとつ頼まれて欲しいんだよ」
(これだけ人も物も流入量が多い街で、なんでそんなことがわかるの?)
驚きに目を見張るメイファに、カリンガと名乗った女は猫のように瞳を細めて笑った。
「花街には色んな情報が集まる。表も裏も、大小様々なものがね。そこで頭なんてモン張ってんだ、この街の情報はすべてアタシの元に集まるのさ」
「へぇー」
「用心棒の件は断ったぞ」
純粋に感心するメイファをよそに、シンは取りつく島もなく話を畳む。
しかし、カリンガは諦めず食らいついた。
「アンタじゃないとダメなんだよ、兄さん。アンタ相当の手練れだろ? 分かるんだよ、これでも色んな人間を見てきたからね。アンタとお譲ちゃん、ふたりともちょいと独特の匂いがすんだよ。表の人間じゃない、かといって裏稼業の人間でもない不思議な匂いが」
「え?! あたし、臭い?!」
慌ててすんすんと鼻を鳴らす弟子は置いておいて、シンは無表情なままカリンガを見遣る。
「で、なんだ? 普通の人間に頼めないようなことを頼みたいのか、おまえは」
「そうそう、話が早いじゃないかアンタ。最近、花街を中心にこの街の人間が攫われる事件が多発しててね。どうもそれが妖怪がらみの事件らしいから、なかなか頼める相手がいないんだよ」
「なるほど」
確かにこの女の耳は良いようだ。
彼女の手にした情報は、この街の統治者であるドン・ワンが強い規制を引いている類のものだ。
それを掴んでいるということは、この女は街の生きた情報を手にしていることになる。
上の規制にも掛からず、自由に情報を手にできる女。――利用価値は充分にある。
そう判断したシンは、カリンガの話を聞く気になった。
「お前ほどの情報通なら道士のひとりやふたり探し出して依頼もできるだろうに、どうしてそれをやらない?」
「そんなのはとうの昔にやったさ。なんせ人が消える事件が起き始めたのは約半年前、花街から起こったからね。立て続けにうちの妓女たち、しかも売れっ子が消えたから、すぐに馴染みの仲介屋を通して道士を呼んでもらったんだよ」
でもダメだった、と女は苦い表情を晒した。
「その道士もそれなりの力を誇る男だったけど、戻ってはこなかった。報酬は後払いの契約だったから、探索の途中で命を落としたか、それともヤバい案件と踏んで逃げたのかは分からないけどさ」
だからといって手をこまねいて見ていたわけではない。
花街を預かる者として、そして何より自分の家族も同然の娘たちを守りたくて、取り戻したくてカリンガは八方手を尽くした。
新たな道士に捜索を依頼し、腕自慢の傭兵たちを街の要所に置き、花街を守ろうとした。
けれどそのどれもが功を奏さなかった。
「道士は帰らず、傭兵たちは食い殺され、妓女たちは消えた。バケモノの牙からは逃れられない」
組んだ両手の上にあごを乗せて。俯いた面差し、伏せた瞼に色濃い苦悩が見える。
そんなカリンガを見つめながら、シンは口を開いた。
「食い殺された、とは? 死体を見たのか?」
「そうさ。雇った傭兵は一晩のうちに残らず喉笛を噛みちぎられて殺されていた。人の密集する夜の花街で悲鳴ひとつ聞こえず、目撃者がひとりもいない状況でね」
だからカリンガは悟った。これは人の成せる業じゃない。妖怪だ。妓女を攫っていったのも、傭兵を殺したのも、道士が帰らないのも。
「もちろん街の長であるドン・ワンにも直訴したさ。でもあいつは何もしやしない。自分の私腹を肥やすことしか出来ないクズだからね。花街の人間が消えようと、なんら感じやしないのさ」
吐き棄てるように告げる言葉には苦渋がこもっている。
その重い感情は自分にも分かるような気がして、メイファは思わず頷いていた。
「メイファ」
そんな少女を窘める声がひとつ。大好きなマスターの声が少女を諌める。
「依頼主がどんな人間だろうと仕事を請け負った以上、裏切る真似はするな。そういうのは心の中に留めておけ。おまえの今後に繋がることだ」
「……はぁい」
叱られた。もちろん、自分のためを思って言ってくれているのは分かる。それでもやっぱりしょげてしまう気持ちは止められない。
しゅんと気落ちしたメイファをひと撫でしつつ、シンはカリンガに告げた。
「そのドン・ワンもとうとう重い腰を上げたようだぞ」
「え?」
「今日ドン・ワンから妖怪退治を依頼された。市民のみならずキャラバン隊や旅人にまで被害が及べば、さすがに奴も静観を決め込むことができないのだろう。禍根を断つ為に我らはこの街に招致されたのだ」
「ウソ?! え、本当に?!」
「嘘を言ってどうする。そういう事情ゆえに、おまえの依頼は受けられない」
だが、とシンは続ける。驚愕に目を見開いたカリンガへと。
「今回の依頼は弟子のメイファにとっては初仕事。そのため情報は多い方がよい。女、事件を解決したくば、持てる情報の全てを提供してもらおう」
無表情のまま大上段に構えた言葉を放つ男を前にして、カリンガは苦笑しながら頷いた。