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姉と妹と昔の話。

 それはとても暑い日。

 縁側で妹がスイカを食べていて、俺は何ということなくぼんやりとしている。

 薄くグラデーションのかかった水色の空とか、一部だけ黒ずんだ茶色い木の壁の一部とか、色々なものが妙に具体的に見える昼下がりだったと思う。

「お兄ちゃん出かけるの?」

 唐突に妹がそう言った。

 俺が疑問の目を投げかけると、妹がちらりと目を合わせて言った。

「服着替えたから」

 ……ちょっと前にな。と、俺は思った。

「いや、暑かったからだよ」

「ふぅん」

 それでいったん会話が止まる。

 風鈴が鳴る。

 心地よい風が吹いている。

「川に泳ぎに行くか」

 ふと俺はそう言った。妹はスイカ一口食べると、種を出してから「いいね」と言った。

 しかし、そこから動こうとする気配はない。

「……なぁ、どうしたんだ?」

 俺はついそう口を滑らせる。

 妹は俺の言葉を無視した。

「……ねえお兄ちゃん、山行かない?」

「は?……なんで?」

「登るんだよ」

「いや、だろうけども、それがなんでだよ」

「なんとなく……あ、涼しいじゃん?」

「いや、木陰は涼しいけど登るのは暑いだろ」

「我慢してよ」

「……だから、何故我慢してまで山」

「私のためだと思って」

 なんだそれ、と俺は言った。

 妹は唐突に立ち上がると、俺の言葉を無視して山登りの準備を始める。学校の長袖ジャージを引っ張り出してきて着込む。水筒を準備し、虫よけスプレーを箪笥から取り出す。

 俺も仕方なく準備をする。

「……ついてこなくてもいいんだけど」

 いや、なんでだよ。

「暇なんで、ついていかせてもらえないでしょうかね」

「嫌」

「……オネガイシマスヨ、ハハッ」

「仕方ないわね」

 こういう時は積極的敗北主義者になるのが正解である。

 互いの文句を適当にいなして、俺たちは出発した。

「どこに登るんだ」

「大岡山」

 ふむ。

 大岡山は町自体の位置が高いこともあって、登り始めたら山頂まで一時間とちょっとぐらいでたどり着くことができる。ピクニック気分で登るのにはちょうど良い山だ。

 ただ、山道まで炎天下の中二十分ほどの距離があった。……なんなら、そこが一番大変かもしれないぐらいだ。アスファルトの地面には蜃気楼が出ている。こんな山奥なのに……。

 だるだるとアスファルトを進む。

 道の途中で、妹が石か何かに蹴躓いて草むらによろけて膝をついた。起き上がらせると、くっつき虫が服にペタペタと(というかビッシリ)ついていた。

「バランス感覚の良いお前がこけるとは」

「……不吉!不吉よ!」

「不吉というか不注意だ……」

 俺と妹はとりあえず山道の入り口まで行って木陰に腰をおろした。妹は暑いのが苦手だ。運動は得意なのだが、陽射しに弱い。二十分でもぐったりしている。妹が水筒の水を飲んだりしている間に、俺は服に付いたくっつき虫を適当に取ってやった。

「全部とれた?」

 全部は無理だ、と俺は言った。

「どうせここから山道だし、いいだろ」

「全部取ってよ」

「なんでだよ」

「じゃ、命令するから」

「意味不明なんですけど……」

「なんとなくだけどいいじゃん!暇でしょ!取ってよ!」

 俺と妹の関係性が垣間見える暖かい光景である。

 むしむしと自分で取り始めたので、仕方なく俺も(確かに暇だったので)細かにくっつき虫を全部取った。

 それが終わると俺たちは山を登り始める。

 山の中は色々な生き物の気配に満ちていてざわめいている。

 虫にいちいちビクビクしなくなるのは、田舎暮らしの人間の利点だ。都会の人間は蜘蛛の巣を手で触れないという。

 どうしてか妹は山に登り始めてから一言もしゃべらなくなった。

 それにしても、と俺は考える。本当にどうして山なのだろうか。

 別に妹は山もそこから見る景色も大して好きでは無かったはずだ。俺だってそうだ。元々十分高い所で暮らしてるし、景色も満ち足りてるし。真夏の山にわざわざ登るなど、疲れるし虫も多いし生き物は活発だし大して良いことなど無い気がするのだが。

 何が目的なのだろう。

 三十分ほど歩いただろうか。山道を何か動物が横切っていった。何の動物か、サイズは中型犬ぐらいだったがはっきり姿を確認する前にすぐに逃げて行ってしまう。

「追いかけよう」

「は?」

 そこまでずっと無言だったので油断していた。何を思いついたか、妹が動物を急に追いかけ始める。

「あ、おい、待て!馬鹿!」

 山道で動物を追いかけようなどと正気ではない。基本的にああいう生き物はよほど腹を空かせていたり子連れでもなければ人に襲い掛かることは無いが、だからって人より性能が劣ってるというようなことは全くない。逃げ足は存分に早く、人間に追いつける速度ではない。

 というか、道を外れてこんなに走るなんて、それほど深くない山とはいえ、迷ったら何があるかわからないぞ。マジで一体うちの妹は何を目的にこの山に入ったんだよ。

 しかし、止めようにも――――この妹は何故だか三歳歳の差のある兄よりも非常に山道が得意なのである。俊敏で体が柔らかいからだろうか、ほとんど平地のスピードなんじゃないかと思う速度で走っている。

 追いつけない。

 かなり進んでしまってから、妹のスタミナが切れぜえぜえと立ち止まったあたりで、ようやく俺は追いついた。妹の頭にチョップを入れる。

「アホ……」

「何よ……」

 二人してなんとか息を整え、水を飲む。

 途中からもうとっくに動物なんか見えなくなっていただろうに。

「お前さぁ……」

「いいでしょ、私の山登りなんだから」

「いや、そもそも山登りっていうのはこんな、獣を追いかけることなんて……」

「ねえ、あれ」

 十分に休憩をとったわけでもないのに妹はそう言って、言ったや否やまた走り出す。

「おいおいおい!なんだよ!」

 しかもやはりそれなりな速度で。なんというか、俺がちょっと頑張らなければ追いつけない速度を保ち続けて。

「ふぁっきん……」

 走った。必死に走った。

 前を見ても、パッとは何を指して言ったのかわからない。

 結構な坂道をそれなりの距離走らされた。

 歩いた先にあったのは、赤い花をいっぱいに咲かせた一本の木だった。

 綺麗だ。

 ……きれいだが、何の脈絡のなくこんなものを追いかけ始めないでほしい。

「つ、疲れた……」

「うーん、綺麗だね」

「……ぐぬぅ……」

 突っ込む気力もないわ……。

「ねえ、耳を澄ましたらさ、川のせせらぎも聞こえてくるよ……。近くに川が流れてるのね」

 一瞬にして嫌な予感。

「行って見ようよ!川の水って、このあたりのなら飲めるのかな」

「だー!お前何しにこの山に来たんだよ!?やめろ!」

 妹が俺の言葉の途中ぐらいで歩き出す。

 俺はさすがに疲れてしばらく立ち止まっていた。川の方向は少し下り坂だ。妹の姿はすぐには隠れない。少し行ったところで、妹が振り向いた。

「ついてきてよ」

 オイオイ……。

 このツンデレ妹が……。

「……そっち行ったら、もう山頂にはいかないからな」

「……うん。わかった」

「しばらく休んで、下山するんだ」

「それでいいよ」

「じゃあなんで山登りなんだよ!」

 ふん、と妹が笑う。

「いいからついてくるの、お兄ちゃん!」

 あぁ全く何なんだよ!

 俺は妹についていく。

 川はほんの少し先にあった。

 流れはそれほど強くない。町に流れ込む大川の支流の一つなのだろう。

 妹が靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、川に足をつける。

「結局川かよ……」

 妹が川の流れを見つめ始める。水の中で指を動かし、その小さな揺らめきを見つめる。

 ようやく少し、時間が止まったようだった。

 俺は手を川につけた。それは冷たくてとても心地よかった。冷えた手を首元にもっていく。

 前を見ると、妹が同じようにしていた。ヘッドホンをつけるポーズの、手を首元にもっていったみたいなその姿勢で、川のど真ん中にぼーっと空を見上げて突っ立っているうちの妹。

 どうも、ここが本当に最終地点になったらしい。

 一体何を聞き取ろうとしているというのか……。

 ……あぁ、もう、全く。

「ねえ」

 妹が口を開く。

「なんだよ」

 俺はぶっきらぼうに返した。リュックサックから水筒を取り出し、水を飲む。

「水の流れに映る顔って、面白いよね」

「……はぁ?」

「ぐにゃぐにゃしてる。ぐにゃぐにゃしてるよ。飽きない。みんながそうじゃないだろうけど。でも、私はそうだな」

「最初から川にくるって言えよ、じゃあ……」

「そんなの来るまでわからないじゃない。お兄ちゃんは空とか家の壁の色とか、そういうもので満足できるのかもしれないけどさ、私は……ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんはその時隣にいる人についてどのぐらい考えてる?」

「なんだよそれ」

「なんかさ、人って人と一緒にいるときは、ほとんど反射的に動いてない?その人について思考を巡らせたり何かを思ったりする暇なんてなくてさ、そういうことをするのは大抵その人と一緒にいない時……いや、もしかしたら人が物事に接するときはすべからくそうなのかもしれないけど……いつも今という時については何も考えずに、終わってしまったりこれから始めるようなことばかり考えてる……」 

 俺は少し黙って妹の方を見ていた。

 何が言いたいのか、と、目で聞く。

 妹は一度咳払いした。

「……あれだよ。お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよね」

「……え?」

 ふと。

 唐突に。

「お父さんとお母さんだって別に、血ぃ繋がってないもん」

「……何だよ急に」

「いいじゃん。なんとなくだよ」

「まぁ、なんだ。お父さんとお母さんは、男と女だし。結婚してるからな」

「外国には同性婚だってあるじゃない」

「……お前はお姉ちゃんと結婚したいのか?」

「ううん。……でも、私はお姉ちゃんのこと、好きだよ」

 ほんとにほんとに、好きなんだよ、と、妹は言った。

 俺は少し黙った。それから、じゃ、別にそれでいいじゃないか、と言おうとした。それでいいじゃないか、それはもう、そういうことでいいじゃないか。別に何が変わるってわけでもない。変に何かを思う必要なんてない……。

 でも、黙った。

 代わりに言ってやった。

「お前はさ、ほんとにわかりにくい奴だよ」

「……なによ」

「いーや」

 きっとこれは。

 心の整理のために、ただ必要だった、時間なのだろう。

 妹が目を瞑っていた。

 川の音が響いている。木々がざわめき、鳥たちが鳴き、虫の羽音がしている。山の、匂いがした。

 一つの大きな流れのようになって、それが体の中に染み入る。

 姉の血が繋がっていないことを俺はずいぶん小さいころから知っていたのだけれど、妹は何故だか、それなりに大きくなる頃、はっきりとそのことを知らされるまで知らなかった。

 両親も姉も、タイミングを脱したのだろう。俺もあえて話すようなことではないと考えていたから。

 俺たちは確かに平然としてはいたけれど、それでもそれは、たぶん家族にとってそれなりに大きなことだったはずで。

 これは、妹が姉の話を初めて聞いた、その翌日の話。

 俺は俺たちが兄妹であることに、ほんの少しだけ感謝する。

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