二回目の冬──3
二回目の冬──3
闘人士に、俺はなる。
とは言った(事実とは多少脚色)ものの、亮にはどうすればよいのかは皆目検討が付かなかった。
ネットなどので、そこそこの説明やら心得というのはあるにはあるが、どれも要領を得ずピンとこない物ばかりだった。何となくぼやかしつつ、ほとんどがもう知ってる事しか説明されておらず、一様に、大体の締めは決まって『ルールを守って楽しく頒布物を手に入れよう』だ。
だから意味がわからん──亮の率直な意見だった。
どうすればいいのかとか、そもそもどういう事なのか、という肝心の部分はほとんど書かれていない。ウェブでの関連ページはある程度多いものの、その情報量としての密度で言えばほとんど無いに等しいから困った物だった。なにしろ、執筆者のほぼ全員が元闘人士であって、現役ではない。その事も手伝ってかどうかは知らないが、どうにも突っ込んだ記述という物がないとあっては、参考資料にもならない。ほとんどお為ごかしの実がない。中には「自己努力」だの、「時の運」だのといった、のっぴきならない精神論が当然のように解説されているが、それ以上の事については皆無である。
漠然としすぎていて全体像がつかめない。そんな感じだ。
なにより、現役闘人士のログはほとんど存在しない。グーグル八分にでもされてるのかと思えるくらいに検索に引っかからない上、闘人士と思われる人の発言は、この広大なネット界隈に一語として落ちていない。情報化社会のこの中で、ここまで徹底されている情報統制は存在しないだろう。であれば、誰も喋っていないということになる。
果たしてそれが可能なのか。
知れば知るほど、闘人士の闇が広がっていく感じがしてならなかった。
「そりゃ当然です。真剣勝負の場で自分の手の内を晒す馬鹿は居ないでしょう」
ばっさりと主任は切り捨てた。
「TCGでもそうですが、現役デッキのレシピの公開をしている人がほとんど居ないのと同じです。手の内がばれれば警戒されますし対策もたてられてしまいます、そもそも闘人士自体が人から好まれる存在では無いのですから、下手打って攻撃や炎上の的になるくらいなら、沈黙します」
亮の闘人士宣言からほど近い日曜。
どう調べても闘人士のことを勉強できなかった亮は、思い切って主任に相談した。それは折り込み済みだったらしく、快く主任は次の日曜を指定してレクチャーすると約束してくれて、それが本日。
またもや待ち合わせは秋葉原であり、それはまあ当然かもしれないが、上司と休日に秋葉原で待ち合わせというのは何となく違和感のあるものである。
待ち合わせとしては珍しく電気街口とは逆である昭和通り口で合流する約束で、亮自身は年上への礼儀から少し早めに約束の場所に着いたつもりではあったが、すでに主任の方が早く到着していたので、結果として主任を待たせてしまう事となった。時間は守ったつもりだが、それ以上先に年配に先手を打たれると、年下としては気持ち的にも困る。
仕事場とは違い、非常にラフな格好の主任を観るのは初めてだった。いつもは、作業着ジャンパーを羽織っているネクタイ姿か、でなければたまに外回りに出かけるときのスーツ姿しか観たこと無い亮にとって、ジーンズにブルゾン姿の主任を見るのは新鮮を通り越え、ややカルチャーショックな感じがする。
「遅くなってすいません」と声をかけるも、「私の方が早く来たのですから」と大人の対応をされ、そこからは主任に誘導され、秋葉原とは逆方向の岩本町方面へ連れて行かれる。
昭和通りに出て、そのまま神田方面へ南下し和泉橋を渡った。と、そこからは岩本町のオフィス地区になる。
休日の午前中ともあって人通りはまばらで、駅前からちょっと離れただけで普通の町並みに変わる秋葉原界隈の不思議だ。
和泉橋を渡ったすぐの角を曲がり、ほんと入ったすぐのところに一つの喫茶店があった。店先には、首輪代わりのリボンを付けた三毛猫が気持ちよさそうにゴロゴロしている。なんとも懐かしさのある風景だ。
ふと、主任が屈んで猫の頭をなでた。そういうこともする人なのか、とイメージし辛かった光景にちょっとカルチャーショックを受けつつ、人慣れしているのか三毛猫はゴロゴロと喉を鳴らしてうにゃーと一鳴きすると、すくっと立ち上がりふらふらと歩き出す。
「どうやら、せっかくの昼寝を邪魔したようですね。悪いことをしました」
そのまま、何事もなかったかのように主任は店の扉を開けて中に入る。少々あっけにとられていた亮も、すぐに気を取り直すと主任に続いて店へと入った。
そこはシックな感じの昭和レトロともいえる喫茶店だった。最近の喫茶店にはほど遠いノスタルジックな、これぞ喫茶店というべきイメージのテンプレート。正直、このご時世で東京のど真ん中とも言える場所に、こうも時間の止まった懐かしさを維持し続けている喫茶店があることに驚きを禁じ得なかった。下町といわれる亮の家がある亀戸でも、ここまでのノスタルジィを感じさせるような店舗はほとんど無い。
ほわーっと感心している内に、主任は二階へ。一階店内にもほかの客は居なかったが、どうやら主任は二階にこだわりがあるようだ。軽く階段を上がり二階へと着いていった亮だが、そこもレトロチックな、古い映画でしか見たこともない造りのフロアである。
階段横の奥の席に座る。ソファの座り心地は良好、とは言い難いがそれでも妙に落ち着く。
欄間というべきか、二階吹き抜け部分にはコーヒーミルや古めかしい瓶が並び、時の止まった鳩時計と現在の時を刻む壁時計が並んでいる様は、なにやら不思議な世界観を醸し出しているのが印象的だ。
古めかしいスピーカーからは小さい音量のジャズが流れ、一階からはカチャカチャと食器の音が聞こえる。
正直、喫茶店というのは最近のドトールかベローチェしか知らない亮にとっては、何もかもが初めて目の当たりにした世界であった。最近の漫画やアニメではまず出てこないお店の雰囲気といえる。
しばらくすると年配の女性が上がってきて、メニューとお水を出してくれた。それと、主任は灰皿を一枚もらい、テーブルに置く。どうやら常連らしく、主任の方はメニューを観ずケーキセットで紅茶を頼んでいる。あわててメニューを観るも、まだ昼前と言うこともありお腹もすかない時間帯だったため、亮も定番のケーキセットを注文し、何個かあるケーキメニューの中からチョコレートケーキを頼んでやっと一息ついた。
なんとなく、こういったテーブルオーダーの外食に慣れてないと勝手が分からない。初めての店であれば尚更である。ファミレスなら、たとえ初めての場所であろうとチェーン店であれば他店舗と勝手は同じだから何も考えないで注文できる。その統一規格に慣れてしまった世代は、なかなかこういった個人店舗に足が向かないところがあるのだ。好奇心がないわけではないが、なるべくスマートに事を運びたい気持ちが大きいと、勝手の分かるところを優先してしまい保守的になる。こういう内向的な部分は自分でも治したいとは思うが、その切っ掛けが踏ん切れないでいるのだ。
オーダーを受けた女性は丁寧に注文を受けてくれて下へと降りていく。オーダーの声がしたから聞こえただけで、その場は一瞬静まりかえった。秋葉原界隈の店内というのは喧噪が絶えないイメージなだけに、この粛々とした静寂は、亮にとって驚く状況だった。本当に秋葉原に居るのだろうかという感覚にすらなる。
初めてが多すぎてやや落ち着かない亮に「三上君」と主任が声をかけた。
「三上君は、たばこ大丈夫ですか?」
「へ?」
「いえ、たばこ吸ってもいいですかね」
そういえば、主任は喫煙家だったことを思い出す。たまに事務所外の喫煙スペースでたばこを吸っている姿を見かけていた。事務所は禁煙なのだ。
「どうぞ。僕はあまり気にしない方ですから」
世の中は嫌煙気運が高い。健康に悪いんだから吸わないに越したことはないのだろうが、それは吸ってない人間の意見。吸ってる人には吸いたい何かがあるんだろうから、それを無碍にするのも気が引ける。なんの一言もなく突然吸い出されれば頭にもくるが、断りの一言でもあればそれほど神経質でない亮からすれば許容するつもりなのだ。亮の両親も一応喫煙者でるから、亮自身もたばこの煙にはいささか慣れている。
「ありがとうございます。じゃ、遠慮無く・・・」
ポケットからたばこの箱を取り出すと一本とってオイルライターで火をつける。なにげに、あるロボットアニメの意匠がデザインされた赤いオイルライターは、さながら三倍の火力を有しているかの如く、なかなか大きな火付きでちょっとおもしろい。
ぷはーっと紫煙をはきながら、煙が亮の方向に行かないように気遣いつつ、主任は一服を堪能していた。
「この手の趣味を持つ人って、基本的に嫌煙家が多いと思ってましたが、主任は違うようですね」
亮の数少ない知り合いを思い返してみると、ほとんど全員たばこを吸わない。そればかりか、大半は嫌煙家であったと記憶している。
「まぁ、確かに少ないですね。サブカルチャーを趣味にしている人の大半は嫌煙家です。おかげで異端の中のさらに異端になってますよ」
と、笑いながら主任は答えた。
「そこそこの喫煙家なので、私としてはちょっと手放せません。おかげであまり人とも会わなくなりました。文字通り、煙たがられるのがオチですから」
なんか巧いこと言ってるなと思いつつ、亮も半愛想笑いで相づちする。
今のご時世、喫煙家の大半は肩身の狭い思いをしているのだろう。
一服すると、主任は持っていた鞄から一枚のクリアファイル(同人柄)を取り出した。どこのサークルのかは分からないが、おそらく頒布の時に付くおまけの類であろう。会場特典で付くのはうれしい反面、結構買っていると一回のコミケでそこそこの枚数が増えていくが、正直活用する場が無くて貯まる一方な代物だ。っか、リアルで使ってる人初めて見たと亮は思った。
そのクリアファイルから何枚か折り重なった書類を取り出し、亮に差し出す。
一面から結構びっしりと印字されているそれには、『闘人士について』と題名の付いた、いわばお手製の説明書である。Wordで作られたろうそれは、まるで会社のプレゼン用のようなちゃんとした書式で作られていて、なかなかに見やすい。
改めて主任がちゃんとした社会人なんだと感心しつつ、パラパラと目を通す。
闘人士の心得
闘人士のルール
闘人士の基本的な流れ
闘人士としての実践
箇条書きの中に事細かな注釈の入っているそれは、確かに亮が知りたかった事が書かれているものだった。
「これです、こういう事が知りたかったんです」
亮にとっては天佑とも言うべき攻略書である。闘人士として実践に出たときにどうすればいいか、そういうことが書かれている虎の巻だ。
「あくまで基本です。実際はその通りには行きませんが、知っていて損はない事を書いてみました。ただ、それは初心者にしては意外とハードルの高いことだとは思います」
しばらくして、注文の品がテーブルに届いた。
二人は黙ってオーダーの品物がテーブルに置かれるまでまって、女性が下へ降りていくまで待っていた。二人ともミルクティーで、砂糖を入れつつ、カチャカチャとスプーンでかき混ぜながら一息つく。
主任は軽く一口ミルクティーに口を付けてカップを戻すと、一番重要な話を始めた。
「ではまず、闘人士としての登録の流れをおさらいしてみますか」
主任の説明はこうだった。
闘人士は、まず登録制である。コミケが開催される月の二ヶ月前、夏コミなら6月、冬コミなら10月に登録申請期間が設けられる。これは新規でも今まで登録済みでも等しく同じで、この期間に闘人士としての登録申請をしなければその時の開催コミケでの闘人士資格を得られない。仮に今まで登録済みだった闘人士が登録しなかった場合は、その時点で闘人士の資格は剥奪される。
申し込みはwebで行われ、メールに登録証明が返信されて参加料を払う。支払いが完了して初めて登録完了となり闘人士資格が得られる。これが闘人士としての登録までの流れだ。基本的にはサークル参加のプロセスと変わらない。
「やはりお金が必要なんですね」
闘人士心得の書類に目を通しながら、亮はげっそりとした感じでつぶやいた。
自由に出来る金銭が限られてしまう学生にとっては、こういった些細な出費に対しても、やや懐疑的に観てしまう。
「登録料は、もともとは徹夜対策のために試験導入されたある手続きの名残なんです。それというのは一度、徹夜組から登録料を取ってみてはどうかという試みの元に行われた事から始まったんですよ」
「ひぇ、お金取られてまでわざわざ徹夜したくはないなぁ。それじゃ、徹夜する人も減ったんじゃないんですか?俺だったら行かないし」
「反発と反響は大きかったです。ですが、違う意味で失敗しました」
「失敗?」
「信じられないかもしれませんが、大義名分になっちゃったんですよ。金払えば徹夜できるっていう」
それはまさに予想外の答えだった。
「導入最初の時はそれでも通年よりは少なくなったワケですが、その次の徹夜組は二倍に膨れあがりました」
意味が分からなかった。お金を取られるならば普通は減るだろうと言うのが一般的な考え方だが、そうではないらしい。
「啓蒙的に、徹夜は駄目という精神論に訴える方が、実は効果的だったんです。個人の良心と良識に任せる方が、人は自制します。しかし、お金を払えばいいですよ、となると話は違ってきます」
それが、いわば免罪符なのだろう。お金さえ払えば権利が得られるという原理になれば、それまで気持ちで自制していた人間も自制しなくなる。結果として潜在的に自制していた層の人間のタガも外れて、雪崩式に崩れていくという事だ。
それまで精神的に成立していた物を簡単に壊せるのは金銭的価値観であると、何かの本で読んだことを亮は思い出した。
「この徹夜組のみかじめ料は大失敗に終わりました。大体、例年の徹夜組というのは最大といわれる三日目でも始発前までで東西併せて2万人いるかいないかくらいです。それが二倍以上膨れあがったわけですから、もはやコントロールは効きません」
およそ4万人が真夜中の有明に居るとなれば、それはもう大問題になることだろう。
「みかじめ料制度は直ちに撤廃されましたが、その余波しばらく続きました。いわゆる徹夜の常駐が公然としてしまったからです。そうなればいくら個人の良心に働きかけても、もう押さえようがありません」
一度でも都合の良い事例が出来たら元には戻らない事と一緒なのだろう。たった一度の徹夜許容は、常態化を誘発させそれだけで取り返しの付かない事態を招いてしまったわけである。
「一つ、気になるんですが、正直徹夜のメリットって何なんですか?」
亮は、徹夜を体験したことがない。そもそもそういう風土が今はなくなっているからよけいに理解できない。そのため、コミケで徹夜というものがどういう物なのかあまりピンとこないのである。
「たぶん早く会場に入れるから並ぶんでしょうが・・・」と思いつく事を言ってみる。
「いえ、徹夜に関しては近代的にはメリットはほとんどありませんでしたよ。それと、早く会場に入れるというのも、正直、認識としては間違っています」
これも意外な答えで、亮は言葉に詰まった。メリットがないなら、なぜ徹夜組は徹夜をしていたのだろうという疑問がわく。
「晴海時代なら、それでも徹夜にメリットはありました。それこそ、早く入れるというのがその最大のメリットでしたから」
晴海という単語に亮はよく分からないという表情で主任を見つめた。地名だと言うことは分かるが、それが何のことだかは理解していなかった。
「晴海というのは、有明に近い所です。昔コミケが行われていたところで、今のビッグサイトの前身でもある見本市会場という大きな展示スペースを有していた場所でした。コミケ自体は、幕張メッセやTRCなども会場になったことはありますが、晴海は有明と並んでそこそこ期間が長く続いた会場なので、イメージ的には古いコミケを晴海、今を有明と分ける人も多いですね」
コミケ=ビッグサイトというイメージだったから、それ以外で行われていたということ事態が亮の想像の域を超える物である。
「昔、『おたくのビデオ』というアニメーションがありましたが、あれの会場が晴海です。ガメラ館やら新館一階というのは晴海で出来た名称です。ついでに言うと『機動警察パトレイバー』の原作では舞台は当時から見ると近未来なんですが作中の世界では晴海見本市会場はまだ現役という設定でしたから、その手の描写もあります」
パトレイバーは聞いたことがある(読んだこと観たこともない)し、おたくのビデオというのは初耳であるが、どちらも触れたことはない。こう聞いたのだから触れとくべきなのだろうかとやや悩む。
「話を戻すと、晴海時代の徹夜は、確かにメリットの方が多かったです。当時の準備会だと列形成やら列整理、その流通のノウハウがいまいちだったため、始発組でも入場には30分ほどかかりました。ボランティアも今ほど居なかったですので人員的にもキツキツだったと思います。また早朝組であっても、入るのに一時間近く有する事もあります。当時は、いちおうカタログなしの参加者は入場できず、カタログチェックを入場時にさせていました。もっとも、カタログを入場中に掲げさせて大人数が通過する時に確認するというやや杜撰な物でしたから、有名無実な物であったことは否めませんが、今でもその名残はワンフェスやサンクリには残っていますね」
サンクリは知っているがワンフェスはあまり知らない。たしか、フィギュアの販売をするイベントだったかな、と朧気に思い出す。
「まぁ、それだけとは言いませんが、入場時間の差がかなり激しかった晴海時代から初期有明時代までは、ある意味徹夜のメリットは大きかったと思います。潜在的に徹夜してでも並んで早く会場入りしたい、というイデオロギーは晴海時代から連綿と続く脅迫観念みたいな物だと思うんですよ。今でこそそんな状況を知るものは少ないでしょうが、その見えざる緊張感の呪いだけがあの待機列を今も縛り続けている──本当に消えることのない呪縛としか思えないですよ」
自嘲気味に笑う主任だが、正直言うと主任の言ってる事に何の共感も得られず、ただただ聞くしかなかった。ただ、昔は今より会場に入るのには時間が掛かるという事だけは解る。
「ですが、近年になれば、それも徐々に解消されていきました。列形成から列整理、列誘導にいたるまで、非常に最適化され、昔ほど時間的差は生まれにくくなっている。極端な話、その状態で徹夜をしても、始発組より10分先に入れる程度の差しか無くなったと言わざるを得ません」
亮は過去二回とも大体7時ぐらいに待機列に並ぶよう行っている。そこから待機列に並び、大体10時半過ぎに入場していた。三時間半も並んでいると馬鹿馬鹿しく思うものの、並ばないと入れないという先人達の言葉通りだと無理矢理納得している。
「結局、どれだけ徹夜しようと最終的にはサクチケ組にアドバンテージを取られるので、労力には見合わない部分が多い」
亮は、サクチケ組というのは聞いたことがあるが、それがいまいちよく分からない。
「サクチケ組って、なんですか?」
「サークルチケットを持つ人たちです。いわゆるサークル参加の人たちにのみ配られる入場券ですね。大体1サークルに3枚配布されますから、その日の参加サークル×3人が、すでに会場に居る計算になります」
そういうサークル事情は亮にとって全く知らない事柄である。買い専と呼ばれる一般参加者である亮にとっては、サークルがどのように参加しているのかという事については知識としてない。やっぱそういう事も知っておいた方がいいのかなぁと何となく思う。
「一日、大体1万2千サークルが居るといわれていますから、×3人で3万6千人。全員が出席しているとは限りませんが、それでも3万人超の参加者が、すでに待機列以外に会場にいることになります」
もはや、へーと相づちを打つくらいしか反応できなかった。そんな事まで考えた事もない、というのが亮の正直な感想なのだ。
「極端な話、ブースに残るのが最低一人としても、全体で3万人いれば2万人は手漉きになる。これが開場前行列を形成したとすれば、正直、この時点で一般参加の徹夜のアドバンテージはほとんど無いと言っていいでしょう。わざわざ徹夜して前日から並んでも、実はすでに見えざるところで2万人目の最後尾にいると考えると、哀れ以外の何者でもありません」
本当に知らなかったというのが亮の率直な意見だった。そういう事はあまりネットでも出てこない。初心者は、本当に知らない事ばかりだなと改めて思う。
「大体9時45分辺りから、トラックヤードにサークル待機列が出来ていたりするを見たことがありませんか?あれはサクチケ組の待機列です」
それも初めて知った。早い段階で多くの参加者が並んでいるなとは思っていたが、あれは闘人士たちの先頭列がすでに会場入りしていて誘導されている物とばかり思っていたのだ。そういう絡繰りがあったのかと、改めて理解した。
「それじゃ、なんで徹夜が無くならなかったんです?」
そこまでメリットが薄いのであれば、夏は暑さ、冬は寒さの中、一晩を耐える意味が分からない。本当に純粋な疑問である。早朝早めの到着で会場まで待つ時間も長いと思うのに、それこそ前日から待つ忍耐力は計り知れない物がある。そこまでの情熱は一体どこから来るのか、まるで理解できない。
「理由は様々ですし、詳しく統計が取られたことはありませんから想像の域をでてないかもしれませんが、半数は始発に間に合わないからだと思います。有明着の始発はJRで5時55分、ゆりかもめも大体6時ですが、この前後の時間帯に間に合わせられない人が徹夜をする傾向が強かった。立地的には神奈川や埼玉の東京都寄り、もしくは西東京側の区外、この辺りの中途半端な始発で間に合わない人が多いと思われます。この場合、千葉よりの人がやや有利なため、千葉県民の徹夜組はあまり見られません。佐倉や印旛の奥地とか木更津まで行くと話は違いますが、幕張辺りや千葉市民などは、意外と始発でやってきます。これ以外の始発時間的にせっぱ詰まった人が大体徹夜を敢行しているのです。それと地方から来て宿泊せずに待機列野宿で済ます人とかも居ますね。あとは、物見遊山でなし崩しに徹夜をしている層とかでしょうか。いわゆる準初心者の人たち。この辺も少なくありませんから、興味本位で徹夜しちゃった一番困った層でしょうけど・・・まぁ、結局徹夜の原理は色々な要素が絡み合っていますが、単純に始発で間に合わないから始発前に行動。つまり終電からなので徹夜する、という事になります」
なるほど、と思う。そう説明されれば、終電から並ぶというのは、ある意味で既定路線の選択なのだろう。
「これは、ひとえに近隣の安めの宿泊施設が少ない事が拍車をかけています。豊洲や木場などには、そもそもカプセルホテルの様な簡易宿泊施設がほとんどありません。それ以前にコミケのホスト区である江東区全般でも実は宿泊施設がかなり少ないのです。別に江東区が主導しているわけではないのでそれを求めるのはお門違いではありますが・・・こういう、近隣の宿泊できる施設の欠如が現地徹夜を誘発させる部分にもなっている」
それは分かる気がする。ラブホは、まぁそこそこあるにしても、それでもいざ気軽に泊まれるような安ホテルがあるかといえば、実は無い。JR沿線の亀戸でそれである。東西線沿線の門仲、木場、東陽町なんかはカプセルホテルはおろか、漫喫すら数が少ないのが現状である。本当の意味での簡易宿とも言うべきものが近場に無いわけではないが、それはそれ。やや泊まるのにはためらわれるのが若者の感覚だ。そう考えれば、最初っから有明に集まっていた方が何かと便利であることは否めない。
「晴海時代でも、やや似たような状況でしたね。ホテル浦島がほぼ満室になってしまうと、晴海グランドホテルもそこそこ埋まってしまい、そうなると近場の宿泊施設はほとんど無くなります。それでも森下や月島を利用する猛者も居ましたが、当時晴海は交通の便も悪く、バスか徒歩しか交通手段がなかったため、結局は近辺でたむろするしかなくなり、コミケ期間中はやや治安が悪くなりました。そこで当時、見本会場には何棟かの展示会場が軒を連ねていたのですが、その一つのC館を徹夜組の収容所として使うようになります。当時から徹夜組はゴミ扱いされてましたから、陰ではC館のことをごみ溜め場と呼ばれていたと言われています」
えらく濃い話になってきたな、と亮は軽く引いてきた。
「それでも当初はC館で徹夜組を収容できるまでは良かったのですが、90年代にはいるとそれでも溢れ始めてきました。一応、C館で2~3千くらいは収容していたと思いますがそれでは全く足りなくなり、徹夜組だけで半数は外の駐車場での待機列になります。灼熱の92年といわれる夏コミでは始発組ですらかなりの最後尾になったといわれていますね。ちなみにこの年は熱射病でバタバタと人が倒れるという悪夢のような夏コミでした」
やはり、こうなんて言うか、話がとんでもない方向へ行ってる気がして、亮は軽くめまいがしてきた。そもそも、90年代のコミケってなんだよ、というのが正直な話だ。亮が生まれる前からのコミケなんて言うのは想像も付かない事である。
「あのう、主任。ちょっとお聞きしたいことが・・・」
何でしょう、という表情で主任は亮を見つめる。
「主任はいつからコミケに参加されて居るんですか?」
「私ですか?・・・私の初コミケは86年の夏です。第一次晴海の最後の年になりますね」
一体何歳なんだよ、この人!!と突っ込みを入れたいのを押さえて亮は見開いた目で主任を見つめた。一気に、目の前の人が恐ろしい存在に思えてくる。今年から数えても最低でも30年以上はコミケに行っている計算になるが、だとしたら予想を上回る年齢であるはずだ。
ぶっちゃけ、亮が生まれる以前に、生んでくれた両親すら結婚してなかった時代からコミケにいる人って想像が付かないと言うか、ほとんど殿上人みたいな存在である。
「私は8歳からコミケに通っています。一桁年齢のコミケデビューは親御さんの随伴であれば珍しくはありませんが、自分の意志で通い始めたと言うことであれば最年少デビューには入れてもらえると思います」
年季がとんでもなかった。それも次元が違うレベルの話だ。一桁デビューなんて都市伝説の類かと思っていたが、そうではなく実際に存在していたのである。
「今では、現役で晴海時代を知っている人も少なくなりつつあります。それでも、居ないことはない。下手をすれば消防会館の一回目からいる長老格の人も数人はいますからね。まぁ、現役で本を買い続けているとなると、今ではさすがに数百人レベルの数えるほどしか居ないとは思いますが・・・」
実質30万以上の実働参加者の中での数百人など消費税よりも少ない数である。出会うと言うこと自体が非常に希少である状況で、なんとなしに出会ってしまったというのは、幸運なことなのか不運というべきか。ともかく、とんでもない人に出会ってしまったというのが、亮の率直な意見だ。
「そもそも、私が参加し始めた頃にコミケにいた人は、サークル参加にしろ一般参加にしろ、大多数の引退者を抜かせばどちらも大半は一次創作側に行っている人が多いと思います。私のようにドブ板参加者のままコミケに居続ける人は極めて少ないと言わざるを得ませんから、特殊な例といえるでしょう」
自嘲気味に主任は遠い目をする。
「ですが私としてはこのままでもいいと思ってます。なまじ創作側に関わると、いろいろと面倒ですし、そういう才能は私にはないうえ人間関係を作るにしてもうまくできないタイプですから挫折したりするのがオチです。であれば、名も知れぬ傍観者としてコミケを見続ける気楽な側に居たいと思っています」
それはそれで寂しいのではないかなぁとは思う反面、人それぞれの考え方なのであろうとも思うため、返答に窮する。たしか、コミケの理念の中には趣味を同じくする人との繋がりも重要なテーマであると詠っているはずだが、主任はその辺を踏まえた上で、その理念には向き合っていない様に思うのは考えすぎであろうか?
亮の複雑な眼差しに気がついた主任は、頭を振った。
「まぁ、そんな私の哲学などどうでもよく、いわゆる徹夜などの事です。──結局、徹夜は駆逐できず、それどころか拍車をかけてしまったため、のっぴきならない状況にまで追い込まれてしまった。そうして出来た打開策が闘人士制度なのです」
無理矢理誤魔化した様に受け取れなくもないが、ここは話に乗っておこうと、亮も気持ちを切り替える。
「この制度は当初は様々な不備があり、開始当時の一発目なんかはそれこそ混沌でした。そもそも付け焼き刃的な制度でしかなかったのですから当然です。なんとか回を重ねる毎に不備を整備していき、形を整えていきました。この辺は準備会内にできた闘人士委員会の協議の賜物でしょう」
そこで、軽くミルクティーでのどを潤すと、再び話し続ける。
「一つ付け加えるなら、この闘人士制度は本当に異例中の異例、前にも言いましたが限定的対処療法の一環でしかなかった。そもそも準備会内に『委員会』という機関を創設するだけでも、本来はあり得ない事なのです」
「どういう事ですか?」
「準備会も、当初は『準備委員会』などの名称で呼ばれていましたが、それが権威主義的な印象を与えるといった理由で準備会に落ち着いた経緯があり、以後準備会の中で委員会と呼ばれる機関は存在しませんでした。一種の禁句的名称として敬遠されていたのだと思います。そうした歴史を持つ中で、闘人士制度をとりまとめる意味も兼ねての、自虐的名称として委員会という名が使われ、現在に至ったと聞いています。長い間守っていた信念を折り曲げたというのは、準備会としても不本意だったことでしょうし、現に闘人士委員会は準備会内でも異端の部署です。ですが、一般参加者主導で闘人士制度を続けられれば秩序が維持できません。そのための裁量機関が必要であり、それが闘人士委員会なのです」
過去からの懸案事項であった徹夜組から闘人士制度に至る経緯は、ネットでもあまり紹介されていない。そもそも当初から知っている者が少ないということもあるだろうが、闘人士という存在そのものが公然としたタブーであり、あまり触れたがらないのは、それが誰もが知りながら出来る限り関わりを持たない、持ちたくない事だったからである。
であれば、お茶を濁す程度のことしか広まらないのも納得がいく。理由が少しばかり分かったかもしれないと、亮は思った。
「そもそも、あれだけ徹夜禁止を唱えても、裏では公然と徹夜組の管理をしたか、わかりますか」
「いえ」
「ハッキリとは言えませんが、深夜の地域徘徊を押さえるためには、逆に一カ所にまとめておいた方がマシだからです。無秩序に徘徊されるよりは、目の届くところに置いた方がある程度の対処も迅速に出来るというのが理由です。同じ理由でペナルティなども導入されません。ペナルティ発生が分かれば、徹夜組はその時間帯まで近寄ってこないで近隣に分散してしまう恐れがありますから、結果としては確実に深夜の近隣に迷惑がかかり、最悪コミケ開催を維持できなくなる可能性が大きくなってしまうのです。それだけではないでしょうが、そういう大まかな理由から、徹夜は悪だが、それでも目をつむらないといけないという弱みが出来てしまった。これは正直どうしようもない悪循環の一環です」
肩を持つわけではないが、必要悪というのはこういう事なのだろう。当時の徹夜も、本気で潰しにかかれば潰せたのに、それをあえて濁し、結果として最後まで潰れなかったのには理由があったのだ。
「そういったコミケとしての弱みにつけ込んでいたのが徹夜組なのです。だからこそ、他のまっとうな一般参加者やサークル参加者から、蛇蝎の如く嫌われていた側面は否定できない」
よく言われる、これがコミケの闇なのかもしれない。亮にとっては、いきなり華やかなコミックマーケットというイベントが、なんだか得体の知れない物に感じられるようになり、何とも言えぬ不安感に襲われていた。
それまでのイメージを揺るがす様な情報である。なんか知っちゃいけないような物ではないだろうか、と。
「徹夜には徹夜の理由がないワケじゃない。だから情状酌量の余地はある。そういった主張も普通にありました。しかし、ルールを破っているのだから、そこに正当性はない。徹夜の危険性をまるで無視した暴論です。──結局、徹夜は最後の最後まで無くなりませんでした。正直、徹夜をする奴は何を言っても徹夜をしてしまう。それが結論です」
これは、闇なのだ。光があれば影がある。イベントという光が照らし出せば、徹夜という闇がどうしても生まれてしまう。この連鎖は何をしても止められない。止めようがないのかもしれない。
「だからこそ、徹夜を消せないのならばせめてトラブルが起きないように、迷惑をかけているんだという自覚の元、謙虚になるべきなのです。その抑制を準備会の負担だけにまかせず、個人個人の参加者が気をつけなければならない。幸い、大きな事件は起こりませんでしたが、その危険があるという自覚を持って行動することを心掛けていれば、よかったのですが・・・」
「もともと徹夜が禁止なんですから、する方が悪い」
「その通りです。が、いかんせんその理屈が通じないのが徹夜組なのです。だとすれば折り合いをつける所を模索すべきなのでしょう」
亮も主任も押し黙ってしまった。まさにこの論争は迷宮である。折しも、コミケ準備会が最初に作った同人誌「迷宮」の如く、いろいろな模索の迷宮がコミケには未だ続いている。皮肉にも、まさかここまで出口の見えない迷宮を孕み続けるとは、当時の命名したスタッフも想像していなかった事だろう。
「・・・話が変な方向に行っちゃいましたね」
少し冷めたミルクティーを啜りながら、亮はどうしていいか解らず、ただ愛想笑い的に一区切りした──つもりだったが。
「この理屈は、実は闘人士にも当てはまります」
思いもかけない繋がりに、亮はミルクティーを吹き出しそうになる。
「いわゆる徹夜組がそのままシフトしたのが闘人士ですから・・・」
この人の話には、ホント無駄がないなと亮は感心する。
「先ほども言ったとおり、闘人士制度の発想は徹夜組の対処から生まれたものです。ですから、徹夜組という概念がそのまま闘人士に被る部分が多い。なので闘人士の有り様は、昔の徹夜組と何ら変わりません。ですから──」
主任は、これ以上に無いくらいの真面目な表情で亮を見つめる。
「自分がコミケの中では異端であり、望まれてはいない者であるという自覚はしておいてください。そして、ルールにはちゃんと従い、自覚をもって行動する事を、絶対に忘れないでください」
その有無を言わせぬ迫力は、亮にとってすごい意志に受け取れた。
本当にこの人は、全てにおいて真面目に物事に取り組んでいる人なんだ、と亮は畏敬の念で主任を見つめ、「はい」と力強く答えた。こういう説得力がこの人にはあったのだ。
やや一段落付いたためか、主任はソファに深々と座る。なにやら思うこともあるようで、一本たばこを出しておもむろに吸い始めた。
あまり気にしては居なかったが、なかなか様になる吸い方でちょっと格好いいなと好感が持てるしぐさだ。深くたばこを吸うと、主任は突然変なことを切り出した。
「本来、徹夜組を大半無くしたいのであれば一つ効果的な特効薬の方法があったんです」
今までの話からすれば、徹夜組の駆逐なんかは出来ない結論だったように思うが、そういうからには何らかの方法が存在したのではないか。ちょっと興味を引かれた。
「まぁ無理なんですけど、企業ブースを無くすことです。これで、半数以上というか、西館の徹夜組はほとんど居なくなるはずですよ」
たしかに無茶な事だと思う。むろん、主任も本気で言っているワケではないだろう。
だが、ある意味では特効薬といえなくもない。
「昔は、企業ブースなんて無かったんです。あっても、今でも存在する画材用品の出張スペースぐらいで、あそこまでスペースを割いては居ませんでした」
再び一服。銀の灰皿に灰を落とし、ふっと微笑する。
「まぁ、企業ブースがなければこうまでコミケも大きくはならなかったとは思いますが、企業ブースの存在はコミケの変遷を象徴とする事柄でしょう」
それ以降、主任は何も言わなくなった。
何か思うところもあるのだろうが、現在は企業ブースの存在はコミケの目玉の一つである。無くなることは今後もないだろう。それだけは素人の亮ですら分かる。
ちょっと重い雰囲気が立ちこめた。
「さて、闘人士の歴史も概念も何となく解ったとは思いますが、まず三上君が絶対に知っておかなければならない事はルールです」 と、主任は話題を切り替えレクチャーを開始する。先ほどの重い雰囲気は払拭された。それに、あぁこの感覚、バイトに入りたての頃にしてくれた仕事説明と同じだなと懐かしく思えて、ちょっと微笑ましかった。
基本はサークルから頒布された購入済みの同人誌に闘人士専用QRコードのシールを張ってもらい、それを表紙と一緒に写メ登録するとポイントを手に入れる事が出来、そのトータルポイントのランキングでその回の闘人士ランクが次回に反映される。
闘人士のランクは4階級ある。Sから始まりABC。どのランクも、全会場での買い物は可能であるものの、対応するランクの範囲以外ではQRコードのポイントはランクに反映されない。
Cランクは東館のみの範囲。
Bランクは東館と西館が範囲。
Aランク以上になると企業ブースまで範囲が広がる。そして、企業ブースに行く手段に当日は封鎖されている西館のあの天空エスカレーターを使用でき、ダイレクトに企業ブースに入る事が出来る。
そしてSランクでは、さらに企業ブース各所にある闘人士専用販売口を利用でき、そこは並ばずに企業ブースの品物を購入できるという、とんでもない特権が与えられる。
Cランクから漏れたDランクは、次回以降闘人士登録権利は剥奪され、二度と闘人士の登録は出来ない。ゆえにDランクは“デスランク”と呼ばれ、その回の半数以上は消えていくという熾烈さなのだ。
「ソーシャルゲームのランキングと似ています。ともかく、ポイントをためてランカーとしてC以上に残る事が今後へつながる第一条件です」
このポイント集めが、実は素人には難しいというのだ。
一つの同人誌登録は一人一回。同じ同人誌での登録は出来ないので、たとえ一つのサークルで冊数を買い占めても付くポイントは一回しかない。
その上、サークルによっても最初から所持しているQRコードのシールは、今までの頒布実績により反映されているため各サークルに千差万別の数しか割り当てられない。大手なら前回までの頒布実績から割り当てられる量はある程度多くされているが、初参加やこれまで頒布実績が芳しくない小サークルにはそれほど割り当てられないでいる。大体頒布数の一割ぐらいがそのサークルの持つポイントシールの枚数であるという。ただし上限は最大50枚と決まっているため、いくら恐ろしい数の頒布がある大手であっても大量に所持しているとは限らないところがミソである。
いわば、闘人士のポイントはリソースの奪い合いという側面があるのだ。
経験値が物を言う部分がかなりあるため、初心者には非常に厳しい所がある。故に初心者闘人士の生存率は毎回一割にも満たない狭き門であるといえる。
運が悪ければベテランでも落としてしまうという、非常にシビアな生存競争。それが闘人士制度である。
また、闘人士の特色にはもう一つある
闘人士は、当日“ジャケット”と呼ばれる物を装備しなければならない。よく、工事現場の警備員が付けている様なV型の蛍光塗料でピカピカしているアレに似ているものだ。階級毎に色が違い、SABCはそれぞれの色が設定されている。当日の新規はCランクに設定されているため、基本色は4色。
そしてここがキモなのだが、各階級には各会場用の通行証明カード、通称“パス”が発行され、そのジャケットに取り付けておくという仕組みである。そして、専用口から入場する。パスは最大で3枚。東123、456、西用である。企業に関してはパスはない。Bランク以上は3枚のパス、Cランクは2枚のパスがジャケットに取り付けられている。
このパスが重要で、ジャケットに装備されてない場合はその対応する会場には入れないのだ。仮にパスが無く入った場合、専用口からの入場でないとジャケット全体が点滅し続け、不正入場を知らせる。この場合は闘人士資格が一時的に失効され、闘人士用のQRコードなども入手できない。そして、このパスのみ奪い合うことが可能である。
闘人士は、闘人士用QRコードを手に入れ、相手のパスを奪って行動を制限させるという二つの戦術を駆使する戦いであるのだ。
なお、奪ったパスは所定の回収箱に破棄するか、自分自身が持って予備とするかは自由であり、一種のライフポイントと考えるとわかりやすい。効果は当日まで。その日にち以外は効果を失効するため、当日限りの物である。
「つまり、そのパスが無くなると会場には入れなくなるんですか?」
「会場には入れます。ですがゲートを通りませんからジャケットが点滅するため、闘人士としての資格が失効している状態になりますのでQRポイントは受け取れません」
どういう構造なんだろうか、とふと疑問に思ったのだが、その説明を求めるとまた懇切丁寧に説明してくれるだろう事が予想が付いて、出かかった疑問を喉の奥に押し込んだ。今の時点でも情報に食傷気味な部分があるのに、これ以上の情報は頭がパンクする。次の機会でいいやと、亮は考えるのをやめた。
「それと、パスが一枚も付いていないジャケットは、その時点で点滅します。一度点滅すると、ゲートやリセット場に行くまで予備のパスを張っても点滅しっぱなしですから気をつけなければなりません。パスは、最低でも一枚はジャケットに付けておかないといけないのです」
「すごい技術ですね」
「準備会は人材の宝庫です。医者からなにから、様々な職種の人たちがボランティアで集まって来ます。その中には最先端の技術者もいるのですから、ホント何でも出来ますよ。いないのは政治家ぐらいですね」
なるほどそういうもんか、と亮は感心しつつ、驚くほどシステム化された闘人士のルールには感心する他なかった。正直、ここまでやるかというのが率直な意見も亮の中にはあるのだが、コミケという場自体が馬鹿馬鹿しい事まで真剣にやる場所であるのだからそれも一つの気風なのでは、という理解に至る。
コミケが自由の場であるのは疑いがない。だが、その自由を無秩序無制限に出来る所ではない。秩序の中で最大限の自由という礼儀をはき違えてはいけないのだ。
そのギリギリの折り合いが闘人士制度なのかもしれない。
ブルッと亮の中で身震いを感じた。
不安とか期待とか、そういう全ての物が一緒くたになった、今までに感じた事のない感覚。
ひょっとしてこれが武者震いという奴なのかもしれない。
いよいよとして、次のコミケが楽しみになってきた自分を自覚する。「オラわくわくすっぞ」と国民的人気の戦闘民族の台詞が思い出されるが、まさにそれ。こういう高揚感が早くも湧き出てくるとは思わなかった。まだ、闘人士登録すら済んでいないのに、すでに気持ちは闘人士になったつもりでいる。
「顔に出てますよ」
突然、主任に突っ込まれた。まるで見透かされたみたいでさすがに亮はあわてる。
「えっ?・・・なんですか」と、我ながら慌てふためく気持ちを無理矢理抑えて平常を装うが、どうにも主任にはすべてを見透かされているようで様にならない。
「闘人士に期待するのも悪くはないですが、実際はそれほど華やかでおもしろい物ではないです。どちらかというと、殺伐とした辛い物になるかもしれません・・・」
冷めたミルクティーを飲みながら、主任はきりっとした眼差しで亮を見据える。
「水を差すようですが、三上君の想像しているほど闘人士の内容は甘くありません。それだけは肝に銘じておいてください」
「はぁ」と気のない返事をしつつ、なぜ主任に自分の高揚感が分かったんだろうと思った。
顔に出てますよとは言われたが、そこまで露骨に表情に出た物だろうか?よくわからない。
「人は不安と希望の両方に直面したとき、笑います。自分では気が付かないとは思いますが、そういったとき、人は笑うんです。どうしてなのかは分かりませんが」
やれやれといった表情で、主任はため息をつく。
「考え込んで難しい顔になるよりは、まぁ三上君は闘人士としての資質はあるんじゃないでしょうかね」
そういうものなのかと亮は無理矢理納得した。
その後、主任との闘人士の話は小一時間ほど続いて、気が付けば午後一時近くの時間になっていた。思いの外、話し込んでいたようで(ほぼ一方的に主任の話を傾聴していただけだが)、亮にしてみればかなり有意義であった時間といえる。正直、大学の講義並みに質を持った情報量であり、その精査は今後の重要な指標となるだろう。
久しぶりに、濃い時間を過ごしたという充足感が、亮にはあった。
「この後は、どうするんですか」
店を出て秋葉原駅に向かう途中、主任が訊ねてきた。
「いえ、別に予定は・・・ちょっと同人ショップにでも寄ってみようかとは思っていましたが、今の時期だと新刊も出てないし、中古探しくらいかなぁ」
サンクリも始まる前だから、それこそこの時期には同人誌の委託新刊はほとんど出回らない。そうなると、夏コミの新刊がかなり出回り始める中古ショップを回った方が掘り出し物もみつかる可能性も高い。ハッキリ言えば、この時期は委託ショップで探すより中古ショップで探した方が、ある程度安く新刊を手に入れることが出来るといえる。もっとも、中古は絶対嫌だという人には向かない買い方であるが、よほどの注意書きが無い限りは、新古書の同人誌も委託ショップで買う物とほぼ大差はない。一つのテクニックである。
「どこの中古ショップですか」と主任に聞かれたので、何カ所かの行きつけの店舗名を伝えると、「ちょうどいい。途中まで一緒に行きましょう」と誘われる。
何がちょうどいいのだか分からなかったが、亮は主任と一緒に駅に行くとヨドバシカメラ横を抜け、大ガードをくぐって秋葉原の交差点へ向かう。
「ヨドバシが出来てから、この道もよく使われるようになりました」
道すがら、主任は懐かしそうにつぶやく。
「UDXも手伝って、このガード下をくぐる人は飛躍的に増えたと思います。それこそ昔は、今のヨドバシ側に行こうとする人は地元のサラリーマン位でしたし、あっちが開拓されるなんて、古いアキバ民からすれば想像もしてませんでした」
なんでも、あのヨドバシとかがある昭和通り口一帯は、むかし国鉄(と言われても最初はよく分からなかった)の特急などの一時停車場であり、オフィスの建ち並ぶ繁華街ではなかったという。それに、UDXも建つ前は駐車場だったりバスケットコートだったりと、商業施設ではない都心の空白地帯であったそうだ。
それをここ20年の間に都市整備され、今の秋葉原の姿になったと説明してくれた。だが、そんなことを言われても今の秋葉原の風景が見慣れた亮にとって、昔の姿を想像する事は出来ない。そもそも、ヨドバシのない秋葉原、UDXのない電気街口など、思いもよらない風景である。すべては、主任の思い出のなかの風景であり、亮には共有できない情景なのであった。
「きっと、分からないと思います。そういう秋葉原の姿は、もぅありません」
時代が変われば、様相など一変する。永くいた者だけが、その昔の姿と今の姿を見続けている事が出来たのだ。ここ一年くらいのアキバ歴しかないで亮には、その風景は過去の、それも想像も出来ない遠い昔の物でしかない。これが年の差なのだろう。
いつかは自分も他人とそういう年代の差が生まれてくるのだろう。その気持ちは、今の自分にはわからない。
「地元民ではないですが、こうまで様相が変わっていくと、自分の知っていた地域に思えなくなります。不思議な物ですよ」
ケタケタと笑いながら主任は言っていたが、その言葉はどこか悲しそうな音をしていた。
秋葉原の大交差点を渡り、住友不動産秋葉原ビルの横を通り、チチブ電機ビル横へ。昔は電気屋だったチチブ電機だが、今はクレーンゲームがひしめき合う謎の店舗して生き残っている不思議なお店である。
そしていわゆるおでん缶発祥といわれる自販機前までくると、そこには幾人もの人間が行き交う秋葉原のメインストリートに出る。
路地というには広いが、誰も正式名称は知らない一通の路。そこを上野方面に向かえば数々のサブカルチャーショップやPCパーツ店、飲食店が建ち並ぶ。通り自体も、昼間は滅多に車が抜けてこないこともあってほとんど歩行者天国に近いその通りは、言うなればアキバの裏のメインストリートとも言えるくらい、知られている通りなのである。
「さすがに休日だけあって、人いっぱいっすね」
もの凄い混んでいるわけではないが、それでも人で埋まっていると表現しても差し障りのない通行量だ。この活気は、店舗閉店の20時くらいまでは続くから、たいした物だ。
「たしか、三上君は・・・」と言いながら同人誌中古ショップの店名を言った。確かに道すがらから考えても最初に向かおうと思っていたショップである。さすがに秋葉原を知り尽くしている感じで、主任はよく分かっている。
「それじゃ行きましょう」
何となく、何かありそうな口調で主任は歩き出した。
一歩遅れて、亮も歩き出したが、すぐにふと気が付いた。主任の歩く速度がさっきとは違うと分かるほど、速い速度になっている。こちらも、そのスピードに追いつこうと歩幅を増やす。
だが、数歩進むたびに、主任との距離は開き始めた。
人の波が押し寄せる。
刻一刻と変わる人の流れの中、主任の歩く速度は増していく。しかし、その流れの間隙を縫うように、主任は何の迷いもなく突き進んでいった。
誰にも当たらず、流れるように先へ先へと前進している。
亮は追いつこうと速度を上げるが、そのたびに変わっていく人の流れに翻弄され、思うようなスピードが出ない。
なぜだろう、主任は難なく進んでいるこの流れに、亮は乗れていないのだ。
また、目の前に人の壁が立ちふさがる。その都度速度を落とし、ぶつからないようにするので精一杯だ。
主任との距離はどんどん開いていき、ついには主任の姿が奥に消えていった。
同じようにスタートしたというのに、瞬く間に亮は遅れたのだ。置いて行かれたというより、この移動の差はどこから出来てしまったのだろう、と亮は気が付いた。
全く人の流れに乗れていなかった自分と、人の流れに乗って進んでいく主任を思い返し、そこから何かが感じられそうだった。その何かが、まだ説明できないが、 この差に主任は何かの意味を示したのではないかと思う。あまり意味のないことをしない人のことだからと、そういう人物評が亮の中で形成されているのだ。この数日で、主任を見る目は完全に変わった。
とんでもない人なんだと、今更ながらに理解していた。
考え過ぎなのかもしれないが、ひょっとしたらという思いで、亮はあわてて目的地に急いだ。思うように進めず、今まで知っていた光景が、全く違う物に見えてくる。
価値観の変遷が、こうもあっさりと訪れるとは亮は思ってもみなかった。だからなのか、本当に今目に映る秋葉原は、今まで観ていた物ととは別物に思えてくる気分だ。
単純と言われるかもしれないが、こう表現する以外に言葉がない。
速く歩いていたつもりだったが、逆に意識しすぎて遅くなった。
いつもより時間のかかった感じで目的のショップ前までたどり着けた。そこには、すでに主任の姿がある。
時間のかかった上に、なにやらすごく疲れた感じで、やや肩で息をしつつ主任の前に付くと、「どうでした?」と声をかけられた。
「速いですよ、主任は」
亮は主任を見据えて、息を整える。
「人混みの中で、速く移動するって意識するだけで、移動が困難になりませんでしたか?」
「その通りです。そのおかげで、いつも以上に時間がかかってしまいました」
何となく、主任の意図が言葉として分かってきた。なるほどと思う。
「ひょっとして、これってコミケ会場の・・・」と言って、主任を見つめる。
「えぇ。会場での移動方法の応用です」
やっぱりか、と思う。途中から、何となく予想できた事だった。というより、思い出したと言った方が正確か。
「こちらは、まだスペースもありますし、人の数もそこまで多くありませんが、そういうシミュレートとしては十分でしょう」
基本的に、人は通常自分の歩きやすい状況を無意識に探し、最も楽な移動ルートで歩行する。だから、大体において人混みの道を選ぶことは、そこを通らなければ行けないという制約がない限りは通らず、空いている方を歩こうとする。そのため、人混みの歩き方をあまり意識して進まないため慣れていないのだ。人混みの中を進むときは、通常よりかなり速度を落としゆっくりと進む。これが通勤ラッシュなどにもまれるサラリーマンだと、意外と混雑進行に慣れているためスムーズに歩行できる場合が多い。
たまに、駅などで器用に素早く進む人を見かけるが、やはりそういう人は人混みの中の移動に慣れている人なのだろう。
「人混みの中でも、最適化された移動が出来るのは闘人士の必須条件です。移動に手間取れば、それだけ本を買う機会を失ってしまいます」
そこまで考えたことはさすがにない。どれだけ闘人士という人種は同人買いに命をかけているのだろう。
「ですので、今後は出来る限り人混みの中でも思い通りに移動できるよう、慣れていってください。だだし・・・」と付け加えて「歩いている人の迷惑にならないよう、心がけてください。最初はゆっくりでいいです。慣れてくれば、ある程度の人壁の中でも普通よりは速く移動できるようになります」
慣れた結果が、あの主任の歩行術だったのだろう。あそこまでのレベルに到達するのはなかなか難しいかもしれないが、それでも人混みで巧く立ち回れるように慣れれば確かにストレスも減るかもしれない。
なるほどね、と亮は感心する。
「それと、もう一つ。万が一、人にぶつかったらちゃんと謝りましょう。たとえ他人の方からぶつかってきても、失礼、くらいのかけ声はした方がいいです。それで大半は丸く収まります。プライベートでもコミケでも」
それも一理あるな、と。無言でぶつかられれば頭にもくるが、一声かけられるだけでもねこっちも「いえいえ」と返せるし、何となく気分も晴れる。まぁたまに沸点低い人がマジギレしてくる場合もあるが、そんなことはそうそう無いから、そうなったときはそうなったときだ。
当たり前のことを主任は言っているのだろうが、それが身に染みてくるのは不思議な感覚だった。日常の些細なことがコミケの行動につながるのは考えたこともなかった。
やっぱ、慣れてる人は考え方が違う。そう実感する。
「あと3ヶ月しかありません。出来る限り、この移動方法は心がけてくださいね」
「分かりました。がんばります」
ふと、気になったことがある。
「ひょっとして、これ以外にも・・・」
なんだか嫌な予感がする。このままでは済まない感じの雰囲気があった。
「楽しみにしていてください。仕事に支障がないくらいには、他にもたたき込んであげますから」
ややサディスティックな微笑みとともに、主任は亮を見つめ、最後にニヤリと笑う。
「職場で出来る修行もありますよ」
なんだかとんでもないことになってきたな、亮は悪寒を覚え、天を仰いだ。
冬コミまであと三ヶ月。
ここから修行が始まる。