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二回目の冬──2

二年目の冬──2


──いったい何でこんな事になっているのだろう。

 茶道にあるような器に入ったミルクティーを一口飲みながら、亮は少し混乱していた。

 泡だったミルクを入れた紅茶に、色とりどりのおもしろい角砂糖をふんだんに入れた甘々のミルクティーなはずなのに、その甘さはまるで感じられない。

 現状の理解が全く追いついていないため、味覚すら今の状況に追いついていないような感じだった。

 同人ショップでの失態と邂逅。

 そんなに時間が経っていないはずなのに、もぅかなり遠い出来事に思えてくる。

 面前に座り、同じような器に入ってる紅茶を、やや様になっている所作でズズズと飲みながら、澄ました表情で一息ついている主任を眺めつつ、亮は、どうしていいか分からない時間を持て余していた。

 この短時間に起こった出来事は、これまで起こったどのトラブルより濃密な時間なのかもしれない。むろん悪い意味で。

 社内関係で言えば上司の人と(俺バイトだけど)、同人ショップでぶつかって、その人の購入予定のエロ同人を、店内でぶちまけた。

 なんか、これ以上の失敗って有るのかなぁと思えるくらい凝縮された内容。ここまでくると、笑っていいんだか、笑っちゃいけないんだか、それすらも分からなくなるようなオチだったといえる。いや、笑えないんだけど、現実に起こっちゃった物だから笑わないと洒落にすらならない。そういう、どう転んでも理不尽な出来事。

 神は死んだ、と晩年ワケが分からなくなったドイツの狂人が宣ったが、死んじゃいねぇよと、勝手なことほざきやがったニーチェ先生(コンビニ店員ではない方)の野郎には小一時間ほど説教したい。こんなくだらないことをやってのける奴は神しかいないじゃないか。奴はふてぶてしく生きてやがるんだからソースねぇ妄言はチラシの裏にでも書いてろ。そうでなければ、俺の立場はない。そうじゃないかね?(混乱)

 気まずい時間はゆっくりと流れている。特殊相対性理論で言えば、個々人で各々流れている時間流は一定ではない。俺は長く感じても、相手はどうだか分からない。俺だけが馬鹿を見ているかもしれないと思うと、なんともなく馬鹿馬鹿しくもある。

 このいたたまれなさMAX。罰ゲームにしたって結構な難度じゃないか、これ。

 相手はどう思っているんだろう。

 ふと、亮は主任を眺めた。

 この場に誘ったのは主任からだった。

 あの場で固まっていた主任に拾った同人を押しつけて、その場から去ろうとしたとき、いつも通りの抑揚無い声で「三上君、ちょっと待っててもらえますか?」と言われ、ご丁寧に会計をすませるまで主任を待ち、そのまま店内を出ると、駅ビルの四階まで誘導された。

 昔はサブカル物やら日用品のデパートだったらしいが、今では小洒落たショッピングセンターに変わってしまった(らしい)駅ビルの四階は、これまた小洒落たデパートに合う喫茶店であった。

 外側の窓からは電気街口南側を一望でき、内側は総武線高尾方面のホームから丸見えという、変な作りだ。駅構内に有るような眺めだが、ホームからそこに行くにはややめんどくさいため、存在は知られているが意外と訪れる機会が無い。

「ここは昔からある喫茶店舗です。もっとも改装されたときテナントは変わってますが」とは主任の説明。K-BOOKsからここに来るまでの間は、ほとんど主任が話すだけで、亮はほとんど喋っていない。「はぁ」とか「えぇ」とか、仕事場とは逆になっている。

 席に通され、よく分からないまま注文をすませるが、ここでも会話らしい会話無い。店内は盛況で、午後八時過ぎであっても、OLやら会社帰りのサラリーマン、ちょいとなりの良いおば様連中が席を埋めていた。

 秋葉原という土地柄であっても、オタク然とした感じの客層が少ない店内は、ここが聖地アキハバラという事を忘れさせるに十分なところだ。

「変わっているでしょう。秋葉原のど真ん中といっていいところが、まるでアキハバラじゃない感じであるのは」

 使い捨てお手ふきで手を拭きながら、出されていた水を飲む。

 またもや「はぁ」と気のない返事をしつつ、相づちだけにとどまる亮の反応を受けても、表情一つ代えない主任は、ある意味で亮の今まで出会った人間の中では全く異質だった。よくよく考えれば、今まで同年代や亮より二回りも三回りも年の離れた初老以上の人間としか出会っていない。一回り位しか離れていないというような年齢差は、大学二年生にとっては今のところあまりお目にかかる機会のない存在である。

 正直、どういう風に接していいか分かっていない。

 職場ではパートのおばさんにしても二回りくらい離れてるし、男性社員も主任をのぞいてはベテラン運転手の初老のおやっさんしかおらず、どういうワケか三十代四十代の男性と出会う機会は無かった。その年代の男性は、年に一度会うか会わないかの親戚のおじさんくらいな物だ。

 あれこれと考えているウチに注文のセットが運ばれてきた。

 ティーセットといっても、ふつうのファミレスや喫茶店で出てくる様な物ではなく、ティーカップも茶道に出てくるような取っ手の付かない器で、いきなり出されてもどう扱っていいか分からない代物だった。

 チラチラと主任を眺めていると、慣れた手つきでミルクを入れてて角砂糖を入れていたので、それに習うように亮も続いた。ボーっとしていたせいか、気づかずに馬鹿みたく角砂糖を入れていたが、それすらも意識外であった。

 飲み方など所作にルールがあるわけではないが、主任がしているように真似て飲む。

 味なんか解りゃしない。

 どうすればいいのか、ほんとうに皆目見当が付かないでいた。

「まさか、こんなところで三上君に会うとは思っていませんでしたよ」

 一息ついた主任が、ようやく本題を切り出してきた様だった。

「まぁ、気まずいところを見せてしまったようで、混乱したでしょ」

 上司が同人誌買ってるところは、確かに気まずい。しかもエロ同人とか、あまり触れちゃいけない性癖のジャンルならなおさらだ。

「あっ・・・いぇ、その」

 どういえって言うんだ、この返し。

「しかし、三上君にもこういう趣味があったとは驚きです。そんな素振りは無かったですから」

 亮からすれば、主任の方こそそんな趣味を持っていたとは想像もできていなかった。亮のイメージでは、ガチガチのお堅い印象しかない主任であり、同人趣味とは無縁の存在であるという認識だ。そのイメージがあっさり破られたわけだが、破られ方が問題すぎる。

 プロセスをおいての破られ方ならまだ付いていけたが、今回のはほぼジェットコースター的な怒濤の勢いだったからそれもままならない。そりゃ混乱もする。

 世の中にはオタクと称する(される)存在は遙かに増えてきた。それこそ、銀河の星のようにポコポコと無尽蔵に生まれてくる。そうであるからこそ、意外に身近な人ですらオタクだったりもする。だが、それが公にはあまり出てこないのは、今の世情の流れであろう。

 世間一般からの目は、確かにまだ厳しいが、それを上回るユーザーの増殖とサブカルチャーの一般化というイデオロギーは、いずれはオタクを目の敵にする自称良識派の知識人かぶれを駆逐していく。それだけ多様化し大衆化してきた根付くムーブメントであれば、もはや当然の成り行きと言えるのだ。

 だが、それだけでは事が収まらない。

 サブカルチャー論は、ある意味学術的な研究対象に成りつつあった。

 巷には、数多くのオタク論が出回り始めている。大学ですらそういった研究講義がいろいろと出始めている。一つの文化として捉え、それを研究対象として切り込まれている。

 別段悪くない試みだとは思うが、どうにもその手の話が要領を得ない。

 正直、小難しく考える必要性は無いといっていい。

 バックボーンとしての理論や研究は一部の人たちが細々と紡いでいって、探求する人が知っていればいいことだ。それを喧伝して表に出す必要など無い。知りたいと思う奴は勝手に調べるし理解しようと努力してくれる。それでいいじゃないか。

 それが当たり前のようにネットでも論議され、当然知って手当たり前的な状況になっているのが今だ。まったく、よく分からない流れだ。

 なんで趣味にインテリジェンスを求めるのか、亮には解らなかった。

 そういう風潮こそ、物事を複雑化し可能性の広がりを自ら狭めている様な物だと思う。

 物事を難しく考えることは、結果として物事の本質から遠ざかる。理論武装でガチガチに固めることは、物事の存在に一定の理由が生まれるのは確かだが、それは本質ではなくただの存在の証明なのだ。説明以外の何者でもなく、そこに本質というものは情報以外無い。

 感じる物こそが本質であり、自分の中に脈づく。説明を知ることも重要だが、やはり一番は自分で感じて理解することだ。

「いつからです?」

 突然話題を振られて亮は困惑した。「えっ?」と聞き返してしまったが、何がいつからか、聞き逃していた。ちょっと考え事をするとのめり込むタイプなだけに周りへの注意力が疎かになってしまうのは亮の悪い癖だ。

「・・・同人趣味ですよ。──今日昨日で思い立ったわけでは無いでしょう」

「あー、えーと・・・」

 口籠もる自分に情けなさを感じつつ、なんと答えていいか解らない。大学じゃもう少しハキハキしていると自負していたが、これではその自信も揺らぎかねない。だんだん自分が惨めになってきた感じで情けなくなってくる。

「同人趣味というのは、一朝一夕で思い立つ物ではない。必ずと言っていいほど初動時間を要するものです」

 亮の気持ちを知ってか知らずか、主任はおもむろにしゃべり始める。

「まず好みの絵を見つける。それから絵師の存在を知る。絵師の素性をネットで検索する。検索から得られる画像を収集する。あらかた収集し尽くすとその絵師のサークル活動に注目する。同人誌活動を発見する。本を探す──とらやメロンで通販に手を出す。この場合はショップに行くとかヤフオクで買うというのもありますが、同人誌にたどり着くまでには大体このプロセスを踏みます」

 指折りしながら、主任は仕事場からは想像も付かない饒舌さで話を続けた。

「昔に比べて、お絵かきサイトも増えているし、ツイッターやピクシブでもいろいろと画像が出回っていますから、お気に入りの絵師の画像を集める機会は事足りませんし、それで満足する人も多いです。中には特定の自分のサイトを持たない絵師もいますから、絵はよく見るのに同人活動をしているということを知らないユーザーも少なくはありません」

 まるで仕事の内容を教えるかのような丁寧な説明に、亮はただただ聞いているだけだった。

「たとえ同人誌の存在にたどり着いても、それをどう買うのかというのは最初のウチはよく分かりません。普通の本屋に行っても売ってる物ではありませんからね。そうすると、最初の突破口の候補は通販になります。だが、これは未成年だとなかなかに難しい。大体は支払いがクレカですから未成年は持ってません。こうなると店頭で買うしかありません」

 肝心のことが抜けている。

「そもそも、エロ同人は未成年は買えないでしょう?」

「──そうですね。ですが、別に同人誌すべてがエロ同人ではない。全年齢対象の同人誌だってあります」

 ちょっと気恥ずかしくなった。そういえばそうだ。同人誌=エロ同人と勝手に決めつけていた部分があったのは否めない。同人誌初心者の悪いイメージといえる。

「そもそも、コミケを例にしても成年指定同人の数は全体では4割しかありません。ひょっとしたらもう少し上かもしれませんが、本来、同人誌は全年齢対象のジャンルです。同好の士が誰でも自分の好みに合うものを買えるというのが同人誌の持つ姿ですから」

 それは正直初耳だった。成年指定だってそんなに少ない物なのか?とちょっと疑問。

「多くの参加者の悪い癖ですが、自分の回っているところで比率を判断する傾向が強い。エロいところしか回っていなければ全部エロ同人であると錯覚しがちです。島中を捜していない事がモロバレですよ。まぁ壁の大半はそっち系ですから、それも無理はないかもしれませんが・・・」

 壁とは、文字通り会場の壁に配置されるサークルのことだ。人が集まる人気サークルの事を総じて壁と指す場合が多い。逆に島中は会場内中央に配置されている島郡の事。ほかに偽壁やら内壁やらとあるらしいが、亮にはよく分かっていない。

「話がそれましたが、別にショップで買うのにエロも非エロも置いてる場所は同じところですから、必然と買ってしまう場合がある。昔は一般ジャンルと成年ジャンルはフロアなどで区別されていましたが、最近はあまり垣根が無くなってきたようです。まぁ、あれだけジャンルが多様化してサークル数も増えて扱う物が多くなったら、店舗としても限られたスペースでの区別確保は困難でしょう」

 一息ついてさらに続ける

「年確で成年系の水際阻止はしてはいますが、果たしてどこまで抑止力が働いているかは解りません。この辺は、規制の厳しくなったポイントである20数年前と比べてもたぶん変わってないでしょうね」

 なんとなく、亮は主任が今何歳だったかを思い出そうとしていた。話を聞いていると、ものすごいベテランに聞こえてくるが、そのベテランの領域が想像付かない。たしか、アラフォーであったと渕上さんが言っていたようだが、だとするとこの人の同人歴はいったい何年なんだろうと思う。なんか、計算が合っていないような・・・

「──いやいや、こういう事が言いたいわけではなく、結局のところ同人誌を買うというプロセスの話でしたよね。本題に戻りますと・・・」

 思い出したように脱線から話題を引き戻すよう主任は続けた。こういう話題の脱線はマニア会話の中では割とよくある。蘊蓄を兼ねた説明ならば尚更だ。Aの事を話していたつもりがいつの間にかDくらいまで飛んでいる。それなりにオタク歴積み重ねているんだから解っているぜ的な理解を示し、亮は再び主任の説明に傾聴する。

「同人誌の購入にまで至るプロセスというのは、先ほども言ったとおり一朝一夕では届きません。最低でも一ヶ月から、長いと半年ぐらいのスパンでやっとそこに到達します。売っているところを調べて売っている事が解るとか、お気に入りの絵師の新刊がそろそろ出るからとか、要は買うに足る切っ掛けが揃わないと手がでません。ほとんどの人は、それが登竜門となります」

 何となく解る気がする。広告観たよ、よしじゃ買うか、という商業誌的ノリでは、同人誌などまず買わない。そもそもそんな気軽に買えない。必ず準備期間があるというのは、確かに言われて納得できる。

「そういう、やっと門をくぐった人でも、いきなり中古ショップには顔を出しません。まずは、新刊を置いている委託店。とらとかメロン、だらけやメッセなどが最初でしょう。そこで買いそろえていって、委託店にも在庫がない既刊を探すために中古ショップにも顔を出すようになる。この流れは半年以上過ぎてからやっと到達します。中にはいきなり即売会から、という方もいるようですが、それほど多くありません」

 これもなるほど、とおもった。確かにいきなりは訪れないなと。一般でも、新刊が出ました、まず一番最初に行く書店はブックオフです、なんて人はいない。いるとすれば、慣れた人たちが最速読み売りの新古書在庫にアタリを付けてのことだろう。初心者ではまず考えつかない行動だ。

「故に、三上君は半年以上の同人誌歴を持った、すぶの素人ではない、という判断ができました。ただ、これ以上の経歴になると今のままでは解りません。職場でもそれらしい素振りも観ませんでしたから、そもそもそっちに興味あるのかすら気が付きませんでしたよ」

 この場に来て、やっと主任の表情が崩れた。亮は亮で、まだとまどいを隠しきれずも、主任の語る同人誌の話に若干の安堵を感じている。

 これまで全く解らず、ただ得体の知れない人と思っていた上司は、実は自分と同じ趣味を持ち合わせていたという事実に対し、ものすごい勢いでシンパシィを得られていた。

「あっ、えーと・・・主任が仰っていたとおり、もう半年以上経ってます。やっと一年くらい経ったか経たないかになりますかね。もっとも、同人買いデビューは去年の冬コミが一番最初ですから、いわゆる一部の珍しいタイプかもしれません」

「初買いがコミケ、ですか。・・・それはまぁ冒険者だなぁ」

 主任が初めて感心したみたいな表情で亮を眺めた。

「確かに、初同人買いがショップではなくコミケというのは多くはありませんが、実は少なくもない。ただコミケと即売会は、実状的には似て異なります」

「即売会っていうのは、えーと、オンリーとかの事ですか?」

「えぇ。まぁ厳密に言えば、コミケやレヴォだって即売会なんですが規模も巨大だしオンリーとかとは極めて毛色が違うので私はそう分けています。ですから、購入の選択肢という意味に置いては全く違うと思っています。コミケやレヴォ、サンクリは・・・まぁそうですね、概念的にはショップが果てしなく巨大になった期間限定店舗と捉えるといいでしょう」

 なるほどそういう考え方があるのか、とは亮も初めて知った。

「都産貿などで行われるオンリー系等を本当の即売会と捉えている人は少なくありません。特に1ジャンル特化イベントは、本当の意味で同好の士しか訪れませんから」

 そんなものなのか、というのが率直な印象だ。同人誌を売っているイベントはみんなコミケのカテゴリーに入る物とばかり思っていた。よくよく考えれば知らないことばかりだ。

「買い方や方法論には人それぞれがありますから、一概にカテゴリー分けはできません。今言っていることは大まかな分け方ですので、それを鵜呑みにしないように。で、ですが、去年辺りからですか。それならウチに入ってこられた頃ですかね」

「それよりは後です。いわゆる去年の冬コミ四日目からといった方が正確ですね。単純にバイトの理由は軍資金を集めるためというものでしたけど」

「なるほど、四日目のショップ買いですか。初めてなら苦労したでしょう」

 その通りだった。去年の冬コミの最終日は31日で、明けて元旦の一日からは冬コミ新刊がショップに並ぶ。元旦なんだから人がいないだろうと高をくくっていたのだが、現実は違っていた。平常よりも多く殺到する物らしく、その様相はコミケ会場と変わらず、会計をすませるだけでもアホみたいな時間を要さなければならない。同人買いには、盆も正月もないというのはどうやら当たり前の風潮らしいようだ。

「ひどかったですね。会計をすませるだけでも40分待ちとかでしたよ」

「あぁ、それくらいですか」

 ──そんな簡単に!とか思ったが、どうも目の前にいる人は、いろいろな修羅場をくぐってきているみたいで、なまじの事ではビクともしなそうだった。

「ショップなら、どんなに会計待ちをしようと確実に買えるだけまだマシです。コミケなんかは、一時間並ばされて目の前で完売なんて事は日常茶飯事ですから、失礼ですが、その程度では驚くに値しません」

 「はぁ」と気のない返事をして、亮としては一応自分の手持ちであるそこそこの武勇伝が一笑に伏される程度の物でしかなかったことであったのは、まこと忸怩たる思いであった。

「それでも、初心者にしてみればきつい洗礼ですよね。普通の買い物を想像していた人にとってはカルチャーショック以外の何者でもないはず。でもあれを店舗で経験したら同人買いの本質は見えてくると思います」

「・・・本質?」

「──普通じゃない買い物、ですよ」

 言わんとしていることが、飲み込めなかった。

「・・・基本的に、並んで買う。これをどう思います?」

 主任の質問に対し、うーんと唸ってから、「変ですかね?」と答える。質問を質問で返してしまった。

「質問に質問で返すんじゃない!、とまぁお約束の返しをしておいて、──変じゃないですかね?」

「いゃ、会計が滞ったら列は伸びちゃいますし、欲しい物が人気なら並んでも買わなくてはいけない。これは普通のことですよね」

「そうです。──でもその事ではなく、基本的に長時間並んでまで買うという買い物は世間一般の普通の買い物でしょうか?」

「・・・そういわれれば、普通じゃないとは思います。コンビニやスーパーで並ぶっていっても5分そこらでしょうし」

 確かに日用品や食品を買うときまで長時間並ぶなんて事はほとんど無い。

「並んでまで買うという行動は、まず特殊な状況です。いわゆるオイルショックの時や大震災後の物流停滞の時の買い物はどうでしょう。これも特殊な状況下の買い物と思いませんか?」

 そういえばそうかもしれないな、と亮は思う。

「基本はそれと同じで、あり得ない状況下での買い物なんです。一つの数量的にも時間的にも限られた物を大勢がこぞって入手したくなる。ともすれば入手するためには並んででも買わないといけない。本来はそんな状況下に違和感を覚えなくてはならないのに、さも当たり前の状況としてある。それが同人買いには特に当然の事のようになっている。変でしょ?」

「はぁ──なんとなく」

「これが普通じゃない買い物という証拠です」

「そいういことなら意味は分からなくはないですが、それが一体なんなのですか?」

 主任の言わんとしていることが本当に理解できてない。

「ですから、本質です。──並んでまで手に入れるという買い物は、世間一般の買い物ではない。その認識を持つことです」

 そういう論法で行くと、同人誌買いがやってはいけないようなことに聞こえてくる感じだ。

「それじゃ同人買いはいけないことなのですか?」

「いいえ、それは飛躍しすぎですよ。──普通じゃない買い物、つまり自分の好きなことに対する手段の取りようがどんな物であるかを意識しておくということです。情熱というか、そういった精神論での感覚ですね」

 氷の溶けた水をクッと一口含ませて亮を見るた。

「あり得ない買い物に対して、自分の情熱はどこまで許容できるかという一つの指標は持っておかないといけません。この許容が広ければ、大抵のことに対しては我慢というか、何事も受け入れられます」

 そうなのか?と完全な得心は得られない物の、まぁ何となくそのことについての認識は理解しつつある。しかし、それがどうつながるのか全く解らないでいる。

「自分にとって必要だから好きだから何があっても買える、という、普通じゃない買い物方法である事を認識する、と言うことは大切なのです。日用品のように、とりあえず生活に必要だから買うレベルにまで同人買いも落とし込むと、それはただの買い物になってしまいます。ベテランがよく陥る感覚ですが、並んで買うことにすら慣れれば慣れるほど、同人買いがただの買い物になります。一種の作業ですね。あとは・・・集めとけ的な義務感かなぁ」

 あぁ、それは何となく解る。ネットとかの評判で色々と取りだたされ、これを持ってないといけないみたいなスタンダートな印象になると、手に入れておくかという義務感で手に入れてしまおうという錯覚に似た感じ。そのことを言っているのかもしれない。

「主任は・・・そういうこともあるんですか?」

「──ありますね。多少は抜けてきましたが、まだそういうところはあると思います。流行廃りに踊らされる部分は否定できません。それはまぁ、人間ですから仕方ない部分かもしれません」

 少しの間、主任は沈黙した。何か思う所があるのだろう、視線が一瞬明後日の方向に向かい、何かを思い起こしていたようだが、すぐに視線を戻すと、いつもの表情に戻り話を続ける。

「三上君はコミケデビューがイコール同人買いのデビューともなった。そして、四日目でショップ買いも経験した。こうなると、同人買いは並んで買うのが当たり前の買い物として、普通の買い物になってしまう。実はこれが危険なんです」

 主任に言われるとおり、確かに同人誌を買う事は並ばないといけないみたいな部分が意識の中に根強くある。並んで手に入れた喜びが、それなりの達成感と快感になっていた部分もあるので買う事と並ぶ事が目的の部分に直結している様でもあった。

「並んで手に入れる事が当たり前になると、どれだけ並んで手に入れたかという事が重要になりステータスにすらなってしまいます。極端な話、長蛇の列のサークルに並んで同人誌を手に入れるのが目的にすらなってしまう。それが悪い事だとは言いませんが、それは非常に勿体ない事なのです」

「勿体ないとは?」

「より多くの同人と会える機会を、自ら失する様な物で、正直私からすれば残念なやり方に見えてしまいます」

 なるほど、一つの大手サークルに固執しすぎて待機時間のロスをすると、別の場所の同人誌は無くなってしまう。その並んで手に入れた本がそれだけの価値として自分にあれば納得も出来るだろうが、そこまでの情熱が無かったら、少々悔しい気持ちになるし、実は買えなかった方が自分の求めていた感じの本だったかもしれないなら尚更だろう。今までコミケなどで満足いかなかった理由はその辺にもあるかもしれない。

「ここで、普通じゃない買い物の認識が生きてきます。時間も限られて、ここでなければ手に入れられないという考えがあった場合、どれを優先させるかという判断基準が出来てきます。そうすると、より自分の欲しい物や求めている物が多く見つけられる様になるんです。引き際と攻め際が解ってきますから、もっと上手く立ち回れる。そこでようやくコミケ本来の楽しみ方を見つけられるワケです」

 納得がいった。

 当たり前の事だが、目から鱗であったと認めざるを得ない。コミケじゃ並んで当たり前の感覚で臨んでいたし、並んで買える物が全ていい物であると錯覚していた。とんだ権威主義に陥っていたのだ。確かに長蛇の列を形成する大手サークルの同人誌は質が高いし、中古でのプレミアム値も高い。だが、それだけで同人誌の価値を推し量るのはお門違いだ。

 自分の中の価値を形成できずに、ただ値段や評判という得体の知れない物に惑わされて本質を見失っていた。そんなんじゃ楽しめないし、だから一時的な満足感はあるにせよ、後々は何とも言えない空虚感だけが残る。

 人それぞれに価値観が違うだろうから、大手を買う事に満足する人もいれば、島中を巡り尽くす人もいる。企業主体の人だっている。それぞれが各々の価値観の元に満足感を得る手段は様々なのだ。

 それが解らない内は、いつまで経っても作業でしかない。ネットや雑誌に紹介されているハウトゥをなぞっているだけでは本当の楽しみ方などいつまで経っても見つけられるワケはない。だから後悔がいつまで経っても消えないのだ。

 同人誌を買うというスタンスを自分に見つけなくてはいけなかったのだ。

 あぁ畜生、俺は何をやっていた──内から何かが沸き上がってくる。それがなんなのかは今は解らない。だが、同人買いの認識に、今この瞬間何かが芽生えた事だけは確かだった。

 これまでにない気分の高揚を亮は感じていた。

 いわゆる火がついた状態。

 この勢いがどこまで続くのかなんて分からないし分かりたくもない。しかし、せっかく付いた火を消したくはない。だからやるぞ、と自分の中で固める。この情熱がかけがえのない物のように思えた。

「でも、どうしてそんな事を・・・」

 ふと、疑問になった。どうして主任は今までほとんど接点の無かった自分にこんな事を言ってくれたんだろう。その唐突さの意図がいまいち分からない。

 亮の疑問を察したのか、主任はおもむろに応えた。

「・・・こういう事は、あまり教えてくれません。人でも、ネットでも。──そもそもそこまで考えていないのかもしれません。・・・考える方がメルヘンかもしれませんね。でも、こういう事を知っておかないと同人買いに破綻が生じてきます。何でもかんでも買ってしまう感覚は、同人を楽しむ上である地点に来ると障害となってしまうところがありますから」

 その言葉に、今はまだ来ないだろうが、いずれその時が来る。そんな予感めいた期待と不安が沸き上がる。

「・・・すごく勉強になりました。そんなこと、考えたこともなかった」

 仕事で感心なんて一つもしなかったのに、同人買いで感銘を受けたとか、なんか間違っている様な気もするが、細かいことだから気にしないでおこう。

「冬も夏も、終わっても物足りなかったんです。でも、それって単に意識の違いだったんでしょう。買うことに慣れて、本来の意味を理解していなかった。ただ手に入れてるだけじゃ充実を得られるなんて出来ないって事が分かってませんでした」

 コミケでの向き合い方が自分の思い描いている物と違っていれば、それは確かに違和感しか無く、その違和感を抱えたまま続けていっただろう。そうすれば、いい印象など持てずじまいで自然消滅するのがオチである。

 それがわかったのは、本当の意味でよかったといえる事だ。

「何となく、見えた気がします」

 もう少しで、扉が開きそうな感覚。後少しの力があれば・・・

「俺・・・“ふぁんとむ・めなす”の本が欲しくてこの世界に入ったような物なんです」

「“ふぁんとむ・めなす”?!」

 主任の表情が一変した。

「──知って・・・無いわけありませんよね」

 表情が変わったため、なんかスイッチ押しちゃったか?と危惧する亮のビクつきを余所に、主任は深々と椅子に座り直した。

「まぁ、サークルの公式名称じゃないが、俗称がそのままサークルの通称になってるのは“ふぁんとむ・めなす”くらいですし、そこの絵師である“12もーる”は昔から描いているベテランですからね。知ってるも何も、ある程度の同人買いにとっては、そのサークルは避けて通れませんよ」

 誰かにというわけではない所在ないあきれたような顔で中空を眺めると、ふっと亮を眺める。

「“ふぁんとむ・めなす”は闘人士しか買えません。三上君は、闘人士なのですか?」

「──いいえ、まだです。登録は一回だけですから。正直、資格を保持し続ける自信が無くて、そこの踏ん切りがまだつかないんです」

 一度でも闘人士に登録すれば、資格剥奪後の再登録は不可能である以上、おいそれと切れる札ではない。

「それに──」

「それに?」

 亮は口籠もる。

「・・・最初の冬コミの時、闘人士関係で、ちょっと嫌なことがあって──」

 忘れもしない。それは去年の冬コミでの事だった。

 亮はその時、そこそこの大手を2列で並んでいていざ自分の番の時に、在庫が残り一冊となってしまったのだ。サークルの売り子の人が「後一冊なんで、すいませんが隣の人とジャンケンしてください」との提案が出されたものの、亮の隣の人間は闘人士で、その提案に応じず、あろう事か亮をさしおいて購入しようとした。さすがに同じように長時間待っていた亮からすればおもしろくないのでそれを阻止しようとしたが、その闘人士はくってかかるように亮を責め立て、気後れしてしまった亮は、結局その闘人士の勢いに屈してしまったのだった。

「普通に買うくらいの気概しかない一般が出しゃばるな」

 右も左も解らない素人だった亮には、その時の闘人士の捨て台詞と傍若無人な振る舞いに戸惑うしかなかった。闘人士になってりゃ偉いのかよ、とどこぞのニュータイプ的な台詞が思い出されるが、その場に屈するしかなかった自分が情けなく、そして理不尽なことに思える。その事が今も闘人士へのしこりとなって残っているのだ。

「──主任は、闘人士なんですか?」

「・・・えぇ、まぁ」

 亮のトラウマを聞いた主任は、少しバツの悪そうな顔で頭を振る。

「そういう闘人士もいるとは知っています。だから一般参加者との軋轢が後を絶たない」

「一部の人だけでしょうって事は解っているつもりです。だけど、最初の印象がそれだったんで、どうにもいいイメージがついてこない」

 当然だろうなとは思う。こういう事をされては蟠りが残るのは仕方がない。やった相手も素人相手に大人気ないとは思う反面、相手が素人だから出来てしまったのだろうという部分も分かってしまうのは、闘人士であるからかもしれない。

「それもあって、闘人士になる事がどうも自分の中で納得できない。闘人士にならなければ“ふぁんとむ・めなす”の同人誌は買えないのに、って分かって入るんですけど」

 そのまま、亮は黙り込んでしまった。

 この辺りの踏ん切りがつかないところも、過去二回の状況を不本意にしている要因なのだろう。

「中古では普通じゃ手の出せない値段ですし、自分がコミケに入ってからは新刊配布はないですが、もし今後あるなら、やはり闘人士にはならないといけないでしょうし。身の振り方が本当に分からないんです」

 それでもやめるという選択誌は、亮にはなかった。

 諦めつかないという後ろ向きな理由が大半だが、そこにしがみついている自分がいかに無様でもなぜか踏みとどまっている。

「──闘人士制度を、私は否定もしなければ肯定もしません。言い訳がましいかもしれませんが、闘人士にも不遇の時期はありましたから、どっちが良くてどっちが悪いという事を言えなくなりました」

 突然、主任は亮に向けて言った。

「ですが、闘人士になるのを薦めるかと言えば、薦めません。闘人士になるということは、本質的な同人誌の楽しみからはかけ離れているからです。ある意味、手に入れることが目的になっているという意味に置いては、さっき話したことと矛盾しますが、同人誌の楽しみを否定している部分が大きいのです。これはシステム的な問題ですが、闘人士として上に行けば行くほどそのハードルは高くなる。ほぼ終日、本を手に入れるために走り回ることになるから、ひたすら個人での多々買いとなり、コミュニケーションの場として存在しているはずのコミケの理念をも否定していることになる。闘人士制度は、あくまで非常の手段でした。制定した準備会としても、故米澤代表や初代原田代表が掲げていた理想を覆すことになりかねなかったワケですから苦渋の選択だったでしょうね」

 主任は、座り直して腕を組むと、しみじみと続ける

「本来、闘人士制度は、コミケ存続のためのは止む得ないという、対処療法でした。膨れあがる徹夜禁止も有名無実化となり歯止めがきかなくなっていた。ペナルティに関しても、あの人数を統括するのはほぼ不可能といえますから、そういった意味でも、闘人士という必要悪の存在を祭り上げることで再統制を謀った側面がある。目論見としては悪くなかったし、事実一定の効果を上げました」

 だからこその闘人士制度だったのだろう。

「しかし、やはり劇薬でもあったため、綻びは出てきました。一般参加者との軋轢が顕著で、その存在としての悪の定義は高まっています。必要悪すらも駆逐しようとする気運は大衆に存在しますから、許容の幅が狭くなったんでしょう。これは継続される物の宿命です。このような状況の中に身を投じようとする者がいるなら、出来る限り私はやめさせるよう説得するのが闘人士としての勤めではないかと思っています」

「・・・そうですか」

 闘人士だから闘人士になる事を薦めてくるかと思えば、主任はそうしない。あくまで中立の立場に居ての意見だった。

「それでも成りたい、というのであるなら、それ以上の引き留めはしません。その選択は、個人の問題です。自己責任というと言葉が悪いですが、自主性を重んじることもまたコミケの理念の中にある以上、間違った選択ではない」

 どっちなんだよ、と思いつつも、すぐにその考え自体が無粋であったと気づく。自分なのだ。自分の意志で成るか成らないかを決めなくてはならない。そうでなければ意味はない。

 いままさにそれを主任が言ったじゃないか。

 亮は、自分の器量の狭さがほとほと嫌になった。結局他人に押してもらわなければ何も出来ないのでは、今までと同じような物だ。

 それを変えなくてはならないのだ。

 先ほど感じられた後少しの力は、自分の力なのだ。

「コミケに参加する者たちは、すべからく後悔のない時間になって欲しい。それが一番大切なのです」

 驚くほどの情熱が感じられた。たかが、同人誌の即売会なのに、そこに生き甲斐が存在するかのような世界観がある。世間一般からすればなんと馬鹿馬鹿しい事なのかもしれない。しかし、人の情熱をかき立てる物も存在しているのは確かだ。そういう情熱を見いだせるところが世の中にはどれだけあるんだろう。そう簡単に見つからない物が、ひょっとしたら、いま目の前にあるのではないだろうか。亮は少しだけ何かを見つけたような気がする。

 これまで漠然として靄のかかっていた視界は、かなり晴れてきている。

 もう少しだ。もう少しで──あと一歩の踏み込み。それをしなければならない。

 亮の意識は、着実に変わりつつあった。

「・・・三上君は、どこで“12もーる”を知ったんですか?」

 主任が、少し興味深く聞いてきた。

「同人買いに入った時期辺りは、あまり普通では知られてない絵師だったと思うのですが」

 今でこそ、史上最高値の同人誌という触れ込みで知れ渡ってはいるが、たしかに去年までは知る人ぞ知る的なカルト絵師だったという“12もーる”。そのためか、あまり詳細を知られていなく、どこも謎の絵師というだけで、それ以上の情報は出回っていない。

 「雑誌わーるどですよ」と、亮が言うと、主任もあぁという納得の返事が戻ってきた。

「なるほど。誌る(:汁)、か・・・軍艦や御城、刀剣が擬人化されてるんだから、雑誌が擬人化されてもおかしくはないですからね。各出版社も悪ノリしたらしいですし」

 それこそが、亮のハマったブラウザゲームだった。

 雑誌を擬人化すると聞こえはいいが、いわゆる商標登録されたバリバリの版権物だ。企画当初は実現不可能と言われていたが、折しも電子書籍の台頭で、どの出版社も印刷物の部数が落ち込んできている実状では、再び手にとってもらうという回帰機会を増やすためにもその広告媒体には多方面で力を入れざるを得なかった。そこで、雑誌わーるどの企画が再び燃焼し、各出版社が続々と名乗りを上げて参加した。

 もともと馴染みのある雑誌名であり、さらに身近に感じられるという事も手伝い、ゲームはリリース開始から徐々に人気を博し、今や知名度もそれなりに高くなってきている。四天王と呼ばれるジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオンの四誌が率先すれば、エースやガンガンなどもここぞとばかりに乗ってくる。

 ムーブメントになると、少女漫画雑誌や一般雑誌もコラボするようになり、日本で売られている雑誌の多くが集まってくるという状況ともなった。

 これまで、派生であまり知られてなかった雑誌名を知る機会ともなり、紙媒体の雑誌を手に取ろうとする機会も少しずつ増えてきていた。

 啓蒙広告としては、十分に成功したタイトルである。

「それの去年のアップデートで限定追加されたガロとCOMにハマったんです。あれのキャラクターデザインが“12もーる”です」

 一応、隠しキャラでは廃刊になった雑誌も出てきたりする粋な演出があり、最近ではまさかのガンプラ漫画の大御所がバンダイと共謀してボンボンの擬女化をしたキャラが追加され、あり得ないと話題になった。

「・・・そういえばそうですね。あれで知ったんですか」

「色々調べて、それで“ふぁんとむ・めなす”にたどり着いたんですが、後はご存じの通り。素人には手の出しづらいサークルにハマったというわけです」

 主任も苦笑する。“ふぁんとむ・めなす”は素人が手を出してはいけない類の物だ。

「時たま、ツイッターとかでイラストを出してくれますが、個人的に好きな絵柄だし、なによりのびのびと好きな物を好きに描いてくれてるところが本当に気に入ったというか、イラストが好きなんだなぁって感じられました。イラスト描くって事に情熱を感じる。素人の意見ですけど、ホントそういうのが感じられて好きなんですよ。見ていて楽しい」

 素直な感想だったが、その答えに主任はほぅと感心したようすだった。

「・・・そう、ですね。そうかもしれません」

 主任は改めて亮の方を見直すと、しみじみとつぶやいた。

「私は機会が少なかったので“ふぁんとむ・めなす”の事をよくは知りませんが、そういう感じを持てるのなら、改めて見てみましょう。また違う印象があるかもしれない」



 思わぬ主任との会話は、殊の外盛り上がった。

 帰る方向も一緒だったため、帰宅がらの道のりで闘人士の事を少なからず話してもらえた。

 実に有意義な時間だったといえる。こういう人が身近にいて、今まで全く知らなかったのが本当にもったいないという部分もあり、同時に人の縁とは分からぬものだという事を知った。今日の夕方まではもの凄い遠い人だと思っていた人が、実は身近な人だったという出会いは亮の気分を少しばかり軽くしてくれたのだ。

 同好の士を作る喜びとは、こういう事なのかもしれない。

 最寄り駅である亀戸で降りるとき、妙にテンションが高くなって何度も頭を下げてしまった。もっと聞きたいという部分があったが、さすがにこれ以上引き留めるのは失礼だ。

 時間は22時をとっくに回っている。主任にしたら明日だって仕事があるわけだから、気楽な学生のノリでは合わせられない。

 機会を見つけてまた話を聞こう。興味ある自分の知らない世界の話を聞くのがこんなに楽しい物であるとは知らなかった。

 ウキウキしながら明治通りをまっすぐ北上、蔵前橋通りを越えてさらに奥の住宅街にある自宅へ戻る。亮の自宅は、昔からそこにある一軒家だ。建物は古めだが、環境としては駅から離れているせいか静かな中にある。亀戸は下町であり、まだ高度成長期からの昔ながらな町並みが残っている場所だった。スカイツリー効果で、錦糸町や押上、曳舟辺りは町並みの近代化改修が進められているが、亀戸や平井の北側は、未だ新旧の建物が渾然一体となっている。

 大学生になってからは帰りが遅くなることもあるが、比較的自由な家風で、両親も口うるさくなく、ちゃんと成績さえ取っていれば文句の一つも言わない。家族仲も良好であるから、家庭内での悩みという物はほとんど無い。姉とはよく姉弟喧嘩をしたが、嫁に行ってからはそんなに会わなくなった。今は、両親と亮だけが自宅で暮らしている。

 もう少しで23時ともあってか、両親はすでに寝ているようでそっと入る。おそるおそる階段を上りながら、自分の部屋へ戻った。

 6畳の部屋には、勉強机とベット、本棚にタンスというシンプルな家具構成で、一畳分の押入もある。オタクライフをする上では、十分な基地といえるだろう。

 スマホを充電器に指し、机の上にあるPCをつける。スタンバイモードだからすぐに起動。ネットに繋ぐ。

 メール確認後は、ツイッターページへ。サブカル用のアカウントでログインする。夕方まではちょくちょく確認していたが、主任との会話でしばらくは見ていなかった。絵師フォローが多いためか、TLはズザーッと伸び、上へとゆっくりツイート確認。

 誌る関連の絵師以外にも、ほかの同人絵師もフォローしているため、保存イラストは殊の外多い。特に20時以降深夜までは、よく投下される時間帯なので豊作の日は非常に多くのイラストが出てくる。

 ウキウキした気分でイラスト保存しながらTLを眺めていると・・・


 “12もーる”のツイートが目に入った。


 今回はイラストがない。

 基本的には、コメントもほとんど無くてイラストだけの投下が多い“12もーる”のツイートだが、今回は違った。


『そろそろ新刊、と思っているのだが、さすがに今年の冬は間に合いそうもない。だから、来年の夏を目処に考えている。いい物が作りたくなってきた。気合い入れる』


 リツイートがすでに600を超えている。投稿されてから30分も経っていない。

 思わず声が出そうになったが夜中でそれはまずいから、小声で力を込めてガッツポーズ。とんでもない情報が飛び込んできて、亮の気分は一瞬のうちに有頂天になった。返信はかなりの数の『マジで?』とか『やったー』とかで埋まっている。中には『おいおい、闘人士が増えちゃうだろ。勘弁してくれよ』等の否定的な返信もある。悲喜交々の反応が、ツイートを埋め尽くしていた。

 うれしい反面、しかし、事態が急変したと言うことを悟らざるを得なかった。これは、容易成らざる事なのだ。亮はひしひしと変遷を感じる。今この加熱している状況で“ふぁんとむ・めなす”が同人誌を出すという表明を行えば、どのような事態になるかは容易に想像できるのだ。

 未曾有の混沌が起こるだろう。

 すでに闘人士資格を失っている者も多いだろうが、資格を有している者はいくらでもいるだろう。この告知が引き金になって、資格を手に入れようとする者が増えるのは確実だ。

 群雄割拠の時代が興る。そんな中をくぐり抜け、“ふぁんとむ・めなす”の本を手に入れることが、果たして出来るか?

 亮は、うれしさと不安で、選択を迫られていることを肌で感じた。

 そして一晩明け、“12もーる”の一言はかなりの波紋を広げていった。

 ν速でも取り上げられ、至る所の情報サイトでも『“ふぁんとむ・めなす”動く』の報は大々的に取りだたされている。すでにまとめサイトも出来上がっている状況だ。

 一年近くも後の話だというのに、その加熱はとどまることを知らない。それだけの話題性があると言うことの証左であるが、こうなるとうかうかしていられない。

 このまま指をくわえて見ているだけでは、後悔する。切実に感じる不安だ。亮は自分がどうすべきか、まだ決めあぐねている事に対し、やり場の無いいらだちが隠せいでいる。

 居ても経っても居られず、すぐに着替えると、鞄を持って下へと降りた。

 午前9時過ぎ。

 父親はとっくに仕事へ出かけ、母親もまた、出かける準備をしていた。

「あら、おはよう。今日は学校?」

 とまぁのんきな物だが、仕方がない。

 「・・・あぁうぅん」と変な返事をして、トースターにパンを入れる。

「お母さん、もう出るけど、戸締まりはちゃんとしてね。今日も遅いの?」

「えーと、・・・たぶん。だから晩ご飯はいいや」

 冷蔵庫から牛乳とバターを取り出してテーブルに置く。サラダ代わりのお漬け物とかはすでにテーブルに置いてありラップがかかっている。

 「わかったわ」と、母親の声が隣の部屋から聞こえてきた。

 チン、とトースターが鳴り、亮は慣れた手つきでパンを取り出す。

「それじゃあ、行ってくるから。火の元と戸締まりお願いね」

 玄関から聞こえる。もう移動したのか、慌ただしい。

「うん、気をつけて」

「それじゃ、いってきます」

 玄関の開く音とともに、母親は出て行った。しーんと静まりかえる家の中だが、いつもと変わらない風景なのに、なぜか気ばっかり焦っているようだ。

 もしゃもしゃとパンを食べ終わると、少し漬け物に手をつけ、牛乳を飲む。

 チッチッチッっと壁の時計の秒針を刻む音が聞こえる。やっぱり落ち着かない。

 食べ終わった食器を流しの盥につけて、牛乳をしまう。

 食器を洗って水切りに立てかけ、火の元の確認。異常なし。

 電気を消して、通り側の窓のカーテンを閉める。かなり薄暗くなった部屋を後にすると、玄関へ出て靴を履き、扉を開けた。

 外は澄み渡る晴天。夏も終わり後少しで10月だ。そろそろ肌寒くなる季節だが、今日は過ごしやすい気温で助かった。

 玄関の鍵を閉めて、通りへ。

 やや足早に歩くと、一直線に駅へむかう。

 いつもの光景。いつもの動作。──いつもと変わらないはずの日常なのに、気分は全く乗らない。この気の焦りをどうすれば押さえられるのか見当も付かない。

 もし闘人士になると決めても、そこからどうすればいいかわからない。

 手をこまねいて見ているだけでも、たぶん悔しくて後悔するに決まっている。

 いったいどうすればいいんだ。

 その答えが、全く見あたらないのだった。


 午後からの講義に出た亮だが、その内容は全く頭に入ってこなかった。

 3コマ目4コマ目と、ただ無駄に時間を浪費した感じで、それもやるせない。何人かの友人が「おい、どうした?」と聞いてきたが、漠然とある不安の事を話すわけにもいかず、ただ「今日は調子が悪いんだ」程度の理由で返す。今日はあまり人と話したくない気分だった。

 4コマ目の講義が終わったら、亮はそそくさと大学を後にする。

 あの学校の喧噪が煩わしく思われ、静かなところに行きたいという気分でふらふらと駅へ向かい、電車に乗って降りる。改札を出て、ふらふらと街並みを越えて歩いている。

 何かを考えなければいけないのに、何も考えていなかった。今何となく歩いている街並みは見知っているが、どこだか意識が解っていない。

 無数のどうしようという、得も言われぬ強迫概念。たかが趣味の事で、こんなにも悩むのは馬鹿馬鹿しいはずなのに、その事に真剣に取り組もうとしている。

 これは何なのだろう。漠然とした感情の答えが見つからないでいるのだ。

 こんなに一つの事に悩んだ事はない。進学でも、人間関係でも、行動でも。

 今までちゃんとこなしてきた。物事をすぱっと決めてきたハズなのに・・・

 気がついたら、バイト先の前に立っていた。

 門は閉まっている。人の気配はしない。スマホを出して時間を確認する。午後6時過ぎ。就業時間はとっくに終わっている。

 ふと、事務所の明かりは付いていた。まだ誰か残っている。

 ひょっとしたら、と併設されている通用門を潜り、事務所へ。

 そこには、まだ一人で残業をしている主任の姿があった。

 突然の来訪者に、ビクッとなった主任だが亮の姿を確認すると、少し緊張を解いて落ち着いた。

「びっくりしました。三上君ですか・・・」

「突然すみません」

「“ふぁんとむ・めなす”、なにやら活動するようですね」

 その事に、今度は亮の方がビクッとする。

 「・・・あ、あの──」という言葉にかぶせるように・・・

「あと一件の打ち込みで終わるので、2~3分待っていてください」

 すぐさま、カタカタとタイピングの音が始まる。ひどく焦った気持ちでいたが、どうしようもないと思うと、しょうがなく応接スペースのソファーに腰掛ける。

 ほんの数分の待ち時間なのに、亮にはその時間がひどく長いように感じられた。

 エンターキーを押す音の後、カチッカチッとマウスの音が聞こえる。またマウスの音。そこで、PCの終了の音が聞こえてきた。

「すいませんね、待たせて。でも事務が滞ると他の営業所にも迷惑がかかりますから・・・」

 自分の席を離れ、すぐにソファーに来るかと思いきや、応接スペースを抜けて炊事場へ。ガチャッと冷蔵庫の空く音がすると、主任は二つの缶コーヒーを持って、やっと亮に向き合う。

 「どうぞ」と差し出された缶コーヒーを受け取るも、手に持ったままで開けない。主任の方は、プシュッと開けると、チビチビと飲み出した。

 一息ついたからだろうか、主任はソファーに深々と座って、持っていた缶コーヒーをテーブルに置くと、柔和な笑みを浮かべて切り出した。

「迷っていますね、闘人士の事」

 何で解るんだろうと思うが、昨日からの流れで考えれば、よほど鈍感でもない限りは察しが付くだろう。主任だってそこまで朴念仁ではない。

「顔色を見ると、かなり悩んでいるのが解ります。急転直下と言うべき展開ですからね」

 まさにそれだ。

 話の展開が急すぎて、理解がまるで追いついていない。レポート提出の締め切りは当分先と思い込んでいて、実は明日だったと知らされた時の混乱に似ている。

「正直、今日辺り来るんじゃないかと思っていました」

 見透かされてるなぁと思いつつも、苦笑するしかなかった。

「しかし、私ではお役に立てないと思いますよ。昨日も言いましたが、私からは闘人士を薦める事はしません」

 それは、解っていた事だ。主任の闘人士としてのスタンスは昨日聞いている。懐疑的な所を持っているからこそ、他人には勧めない。

「解っています。正直、なんでここに来たのか、実は解らないんです」

 多少は背中を押してもらえるのではという期待もあったのかもしれない。だが、主任の一言にそれはないという確証が持てた。

「グジグジ悩んでるのはバカみたいですが、本当にどうすればいいのか解らないんです」

 もう何が何だか解らないまま、混乱に拍車が掛かるだけであった。

「何で悩んでいるのか解らないし、何に悩んでいるのかも解らない」

「本当に解らないんですか?」

 それは、意外な答えだった。

 水を差されたような、仕切り直しのような鶴の一声。

「何で悩んでいるのかと、何に悩んでいるのかは似ていますが違いますよ。三上君はどちらの悩みなんですか?それを考えてみてください」

 何で悩んでいるのだろう。それは闘人士になれるかどうかだ。

 何に悩んでいるのだろう。闘人士のイメージはあまり良くないから抵抗がある。

 確かに違う。自分はどっちに悩んでいるんだろうか。

 闘人士のイメージは、亮にとっては悪いイメージの方が強い。最初の冬コミの一件がそれだった。そのまま、闘人士の存在自体が、何か触れてはいけないようなものに感じられていたのだ。

 しかし、同時に憧れもしていた。思うようにコミケを駆け抜け、色々な本を買い続けている姿には、ある意味で畏敬と憧憬が感じられていた。そして、主任との出会い。

 こういう人も闘人士にはいるんだという思いが、その抵抗を和らげている。

 昨晩の主任との話を聞いていく内、自分の中で闘人士という存在が遠い物ではなく、伸ばせば身近に感じられる存在であるのだと、何となく解った。

 そして“ふぁんとむ・めなす”の活動宣言。──多分、これで決まったはずなのだ。

 それをぐじゃぐじゃとごっちゃに考えていた。

 そうだ。難しく考えるから解らなくなってたんだ。

 もっと単純に考えれば済む事だったんだ。何に悩むのではなく、何で悩んでいたかをもっと押し出していればよかった。そうすれば、答えなんてすぐに出てくる。今日一日の悩みは、本当に些細な物だった。こんなに悩む必要なんて全然無かったのだ。

 シンプルに考えれば良かっただけ。それを小難しく考えるからこうなった。

 遠回りをしていたが、近道なんてすぐそこにあったじゃないか。

「主任!」

 いきなり大きな声で亮が立ち上がったため、さすがにびっくりして「な・・・何です?」と答えるだけが精一杯の反応だった。

「解りました。何で悩んでいたのか。何に悩んでいたワケじゃなく、本当は何で悩んでいたのか」

 一気に気分が晴れた。そうだよ、こんな単純な事じゃないか。

「俺、闘人士になりたい。いや、なります。だから、・・・俺は闘人士になれますか」

 宣言だった。

「決めたのですか?」

「はい。俺は闘人士になります。闘人士になって、来るべき“ふぁんとむ・めなす”の本を手に入れます」

 主任は、少し押し黙って考える。

「卑怯に見えるかもしれませんが、やはり私は勧めません。ですが・・・」

 そういうしかないだろう。主任のスタンスなら。だが続く言葉に確証があったわけではなかったが、亮にはその言葉が分かっていた。

「自分で決めたのなら、闘人士になれます」

 亮はやっとスタートに立った。そんな気がする。

「人に勧められたり強制されず、自分自身の思いで闘人士の道を選んだのなら、それは立派に闘人士としての前提をクリアしていると思います。あとは、どうやって闘人士としての行動をするかだけです。もし、三上君が本気で取り組むのであるなら、及ばずながら協力しましょう」

 この上ない申し出だった。何という暁光。この巡り合わせは本当にツイている幸運だった。

「よろしくお願いします!」


 この日、一人の闘人士候補が誕生する──

 冬コミまであと三カ月。

 それが闘人士となるべくの時間が短いのか長いのか、亮にはまだわからない。

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