二回目の冬──1
第一章 二回目の冬──1
戦って買う。
これが有明におけるシンプルな答えだ。
何かを手に入れるために、何かと戦わなければならない。そこには正義も悪もない。ただシンプルに手に入れるための闘争。その多々買いに打ち勝ってこそ、望む物が得られる。
それが闘人士の宿命だ。
ひとたび闘人士になれば、甘えは許されない。目的の物が手に入れられなくても、それは己の力量が足らなかった証拠。よりシンプルな弱肉強食の世界。弱かったから手に入れられなかったのだ。弱ければ、すべてを失う。
強くあれ。何者にも屈しない強さを手に入れよ。
それが闘人士の運命だ。
欲しい本あらば買え。迷うな。迷いが生じれば二度と手に入れることはできない。後悔など犬にでもくれてやれ。するくらいなら闘人士になどなるな。
自らの欲する物に背を向けるな。
己の理想に殉じろ。
それが闘人士の使命だ。
常に愛せ。たとえ誰も見向きもしない本にも愛情を示せ。
己の愛を同人に捧げよ。今は幼くとも、いずれ熟す時が来るその時まで。
同人が存在することに感謝しろ。同人の数がそのまま闘人士の命となるのだ。そうだ、命を育め。生み出す才能に敬意を払い、その同人を慈しむのだ。
それこそが、闘人士の生命である。
──全ての同人活動に愛と感謝を込めて、多々買え。
西暦20XX。
半世紀を過ぎてもなお同人類は、旧態依然の世界を残して存在している。日本消防会館会議室から端を発したコミケは今なお連綿と続く日本最大のイベントとしてその座に君臨し、日本はもとより、世界各国からもその参加者達は年々増え続け続々と集まってきている。
もはやアリアケはエルサレムやメッカに並ぶ聖地であり、その聖地の中で、参加者は出会い、育み、そして消えていった。
しかし、そんなコミケにも懸案とする不安要素はある。年を重ねるたびに加熱する徹夜組の存在には準備会も手を焼くしかなかった。注意喚起の無力さに頭を抱えざるを得ず、年々と増える命知らずの参加者に対して、根気よく対処するしか手だてがないのである。
いくら組織化され、マニュアル化された対処法が存在しても、それを上回るペースで増え続ける参加者数を捌ききるのは、限られたボランティアしかいない準備会にとっては、非常に困難な状況であった。
もはや三日間で100万規模の動員数を記録する、この巨大なマーケットを事故無く捌き続けるのは、ひとえに準備会の持つポテンシャルの高さであろうが、それを72時間維持し続ける体力は負荷以外の何者でもない。現に、コミケ終了後には幾多のボランティアが過労で倒れる事案が発生し、年々ボランティアの数が減ってきているのは由々しき事態である。
人員の確保もままならず、それが確実に年二回存在するために、一時、準備会の機能は飽和状態まで陥った。そんな中で起こるべくして起こったと言える西のビグザムショック、東のパーキングインパクトは、後にコミケの存続すら危ぶまれる二大悲劇と呼ばれ、その時はまさに存亡の危機であったといえる。だが、準備会は乗り切ることに成功した。その悲劇を乗り越えた功績は伝説の準備会代表の手腕によるものであったと、後世の参加者は口々に語り継ぐ。
危機的状況を乗り切った準備会だが、この負荷の連鎖がどこにあるのかを思案すると、やはり年々増える徹夜組の存在にぶち当たる事になった。一日の参加者中、約2割という数の徹夜組を何とかしないと人員の確保も維持もままならない。その夜中に割く人員は、実に準備会一日のボランティアの4割相当であるのだから、確かに死活問題である。
しかし、現状徹夜組を駆逐することは不可能であった。いくら呼びかけようとも、徹夜をする参加者の耳にはその呼びかけが届かないのだ。参加者の憎悪は、徹夜組一点に向けられることになる。
こうして形骸化しつつある徹夜禁止に歯止めがかけられなくなるということは、コミケ存続にも繋がりかねない最悪の事態すら起こりえる事案であった。
もはや限界、と事態を重く見た準備会の協議は幾度となく続く。
こうして、準備会は一つの決断を下したのである。
それが、闘人士制度の導入である。
闘人士に登録されれば徹夜は認められる。しかし、だからといって無制限に認められるものではない。
その資格を維持し続けるには幾多の制約が存在し、それを満たされなければ直ちに資格を失う。そして闘人士としての資格を失った場合、それは永遠に戻らないのだ。闘人士の資格を失った者は、ただの一般参加者になる。二度と返り咲くことは無い。
この制度の導入により、徹夜組の数は一定数で落ち着いた。そして把握する人数が解れば、準備会も制御しやすい。それは利点であっただろう。
導入当初は確かに混乱する場面も多々あったが、数年もすればシステム化され、その混乱も集束していく。こうして事態は改善されていったかに見えた。
だが、その特異的な扱いには、一般参加者には受け入れがたい部分も存在していたのは事実である。しばらくの間燻っていた感情はついに爆発し、選ばれた、いわば選民思想的な制度に対し反発する者は徐々に増えていった。
またエリート意識が、闘人士たちには存在してしまう結果も伴ってしまい、その対立は激化の一歩を辿る。
そしてそれはコミケ外で起こった。
ある時、ネット内で闘人士と一般参加者の罵り合いの応酬が口火となり、サンシャインクリエイションを巻き込んだサンクリ大騒動を巻き起こす事となるのだ。
一応、すぐに事態の沈静化はしたものの、そのためにサンシャインクリエイションが数回の中止を余儀なくされるという、俗に言うサンシャイン事変が起り、いよいよ一般参加者と闘人士との間には埋めがたき溝が出来てしまった。
それ以降、闘人士は一般参加者からは畏怖の対象となり、そして蔑まされる存在となった。闘人士もそれは同じで、エリート意識の確立により一般参加者を軽んじる傾向が生まれた。まさに水と油の関係性が定着したといっていい。
こうして、徹夜組に対する一般参加者の憎悪が、そのまま闘人士達にへとシフトした形となったわけである。その連綿と根付いていた負のイデオロギーは全く変わらない構図のまま、現在に至る。
そして、闘人士制度が導入されて後、十年・・・
物語は始まる。
三上亮はコミケ歴1年のニュービーである。
大学1年の冬に初コミケデビュー。右も左も解らないまま、凍えながら最初のコミケ洗礼を受け、続く夏コミに参加するも、灼熱地獄の中で意識を朦朧としつつも何とかくぐり抜けた、まだすれていない新兵である。
だがこれまでの孤軍奮闘の甲斐も空しく、その参加における戦果自体はあまり芳しくなかった。
当然である。全くのノウハウも解らずに、一年目のニュービーが立ち回って多々買い出来るほどコミケは甘くない。
その現実を突きつけられた亮は、ひどく落胆した。普通の買い物という認識では、コミケでの買い物は出来ない。その初歩的な事さえ知らずに参加しては、思うような買い物など到底出来ないのは自明である。だが、コミケ未経験者にはそれが解らない。
ネットでいくら検索し、情報を仕入れ、特殊な買い物であると頭で解っていても、それが現場に来れば否応なく別次元の違うものという事が解る。ブースでの買い方一つをとっても、そこにたどり着く方法をとっても、当然のことだが初見殺しされるのがオチであるのだ。特に新人特有ともいえる、最初の同人買いに起こる謎の違和感。正真正銘の薄い本をライトノベルと同じ値段で購入するという高揚感と背徳感の入り交じったその違和感を普通の買い物レベルまで落とし込まなければ、数を買う必要のある多々買いの土俵には登れない。
要は経験値なのだ。場を踏み、違和感をぬぐい去らなければ、コミケで本は買えない。経験が少なければ、結果は伴わない。
経験者にとっては当たり前の事も、未経験者には未知の行動なのである。それを応用するためには、幾多の修羅場をくぐり抜けている経験が不可欠であった。
しかし二・三回の参加で、大半は壁にぶち当たる。その壁とは、コミケでの身の振り方であるといえる。
どういう攻略をすればいいのか、どうやって買ったらいいのか、何で欲しい本が買えないのか、その色々な、どうしていいか、が解らないまま、袋小路に初心者は迷い込んでしまう。
そうして、嫌なトラウマと共にコミケから遠ざかるのが大半だ。そのまま一般人に戻り、その忌まわしき記憶と共に、コミケは悪夢の出来事として一般人になった者たちがほかの一般人へと語り伝わっていく。これが、コミケは伏魔殿、という一般認識の発端である。
参加者としての分岐点。
亮は、いまそこに立っている。
昨年、爆発的にヒットしたブラウザーゲームにはまった亮は、そのままそのゲームタイトルにのめり込んだ。そこに出てくるキャラクターの絵師が同人作家であることを知り、その同人作家の本を探す様になる。これがコミケへの切っ掛けだった。
そのゲームをするまでは至極普通の青年であったため、オタクの世界が何であるのかはメディアで知る程度のものである。偏見報道により洗脳されていたため、最初はコソコソと隠れて楽しんでいたが、ゲーム自体はある程度の社会的ムーブとなっていることを認識すると、多少は隠すことを緩める。それでも気の合う同期生と、少しの話題にする位で、やはり深くまではのめり込んではいなかった。
それまでは、コンシュマータイトルの1コンテンツ的な認識で気軽にゲームを楽しむだけであったのだ。
だが、幾度目かのメンテナンスの後に追加されたある新キャラクターとの出会いが、亮の認識を変える。
一目惚れ、というのが二次元のキャラクターにまで通用すると言うことを、この時、彼は初めて理解したのであった。
それから後は、坂道を転がるボールの如く、ゴロゴロと転がっていった。速攻で出たキャラクターグッズを買い漁り、半年先の商品も予約する熱の入れよう。
それだけでは飽きたらず、ついにはそのキャラクターデザインの絵師の関連物にまで手を出す結果となった。
ネットなどで検索を駆使し、その絵師は、とあるサークルで同人誌を出しているということを突き止めた亮は、意を決してコミケへと足を踏み入れる。
だが、結果は散々なものであった。
そもそもその絵師のサークルは、非常に特殊な所であり、特定のブースを持たず、ゲリラ的な委託販売をする、極めて異常なサークル形態だった。またその参加頻度は不規則であり、ある意味、幻のサークルとまで言われていたのだ。中古市場でも滅多に出てこないその同人誌は、あきれるほどの値段が付くことも珍しくなく、ネットオークションでも出てくることはない。
常にサークル名を変え、その同人誌は採算度外視、委託先も神出鬼没、そして現れれば必ずその区画は混乱するという曰く付きで、準備会でも要注意サークルではあったが、あまりに尻尾の掴めない謎のサークルであり持て余していた所である。
非常に神秘的なサークルであり、準備会にとっても驚異判定の高いサークルのため、“ふぁんとむ・めなす”と仮称されている。
よりにもよって、ベテランですら買い逃すこと過多なサークルに魅せられた新兵が、普通に買えるはずもなく、コミケ参加一年目の亮にとってはお話にもならない散々たるものであった。
中古ショップでも手が出せないのでは、もはや自力で手に入れるしかない。だが、会場に赴いても手に入れられる術がない。
この絶望感に、三上亮のコミケへの信念は折れる寸前まで来ていたのである。
そして何より、このサークルは闘人士にしか売ってくれないと言う、恐るべきハードルを備えていたのだ。
闘人士
亮は、その時まで闘人士という存在をよくわかってなかった。
しかし、今は違う。
知れば知るほど、その存在の異質さ、異常さがわかりつつあった。
コミケを体験すればわかる。その存在がどれほど常軌を逸した存在であるのかを。
そんな存在になれる訳がない。亮の率直な感想である。一般からの上がりたてから見れば、確かに殿上人のような存在だ。多少うまくサッカーができても、すればするほどプロ選手にはほど遠く感じられるという、アマチュアがひしひしと感じる焦燥感に似ている。最初っからなれないと思う錯覚は普通なら仕方のないハードルである。なまじ、ちょっと囓った程度であればなおさらだろう。
それを差し引いても、果たしてなれるか?
亮にはわからなかった。
「おーい・・・おいっ!」
はっとして亮は振り向いた。
目の前には、バイトの同僚であるおばさんが仁王立ちでいる。
恰幅のよい体格をした、そのものズバリなおばさんは腕を腰に当て、やれやれと言った表情で亮を見つめていた。たしか中学生になる息子さんがいると言っていたなと、どうでもいいことを思い出しながら、亮は「あっ、スンマセン」と返事をする。
「もぅ、三上君。最近どうしちゃったのよ。ぼーっとしてること多いよ」
「あ、はい。えーと、ホントすいません、渕上さん」
バイト中である。
仕事中にまで変なことを思い悩んでいる自分が、少し恥ずかしくなった。
「もー、なによ、彼女のことでも考えてたの?」
健全な中年女性のテンプレートなコミュニケーションと言わんばかりに、そのものズバリな会話だろう。
はい、彼女のことを考えてました。二次元の・・・
などとは口が裂けてもいえない。この年代の大人には、二次元の女子の存在などはなっから頭にないであろう。異性とは、肉体を伴うマテリアルな存在だけなのだ。二次元の女性が興味の対象です、などといえば、あきれられるか笑って流されるか、さもなくば不健全さに説教を食らうかのどれかしかない。
こういう場合は、二次元の女性をあたかも三次元にいるかの如く妄想し、脳内彼女を一時、現実世界に存在させる想像力が必要になる。
「えぇ、まぁ・・・」
妄想前提のことをまるで現実にいるかの如く繕い嘘をつく感じになるため、多少の罪悪感がある。だが、こうでもしないと話の辻褄が併せにくい。
多くの同士たちは、こうやって一般との乖離の中で積み重ねてきた脳内のあの娘が現実となって俺の嫁になるんだろうか、という考えがふと頭を過ぎり、そうかもしれない、と一つの悟りの境地に到達できた気分だ。
「彼女のこともいいけどね、いまは仕事中よ」
渕上さんに諭され、「スンマセン」としかいえない自分にもどかしく、亮は何となく自己嫌悪に陥る。
「これ、降りてきた注文票ね。冊数間違えちゃ駄目よ」
渡された注文票の束をぺらぺらとめくりながら内容を確認する。
「結構ありますね」
「夏のフェアっていうのはね、始まるときと終わった後が忙しいのよ。まぁ、終わった後の補充の方が種類ばらけてるから、今が忙しいかもね」
亮のバイトは、ある大手出版社の文庫を取り扱う倉庫の品出しだった。事務所から降りてきた書店ごとの注文票に記載されている種類の文庫を倉庫から出してまとめるまでが仕事である。
これがまた、慣れるまでが大変だった。
何しろ膨大な種類の文庫の中から、注文票通りの書籍と冊数をピックアップしていかなければならず、どこに何があるかを把握していることはもちろん、だだっ広い倉庫内を縦横無尽にかけずり回って集めなければならない訳だから、体力もいる。なかなかやり甲斐のある仕事であった。
もともと本というものが好きだった亮は、通っている大学近くでこのバイト先を見つけ駄目元で応募したら、以外とあっさり受かってしまった。未経験者ではあったが、仕事を一から教えてもらい、できる限りバイトに入っていると重宝がられた。同僚はほとんどが近所のパートのおばさんたちだが、家庭の事情で午前中しかでれないなどの不規則な穴を、午後出社の亮が埋める、という形が何となくかみ合っている事もあるだろう。去年の10月から始めてそろそろ一年。すでにここではベテラン的なポジションになりつつあった。
「まぁね、三上君が入ってきてくれて助かってるのよ、おばちゃんたちは。そろそろ年だから重いもの持つのも大変だし」
渕上さんは、持ち前の明るさを全面に出したようにケタケタと笑った。
「今はオートメーターだっけ?こういう倉庫業も大きいところは自動でやってくれるみたいだけど」
「・・・いゃ、オートメーションですよ」
「あらそう、いやだわ。あははは。ごめんねぇ、おばさんだから横文字は苦手なのよ、ほんとに」
屈託ない様子は、非常に好感である。こういうところは、同世代の女性にはない安心感がある。
「んじゃ、ちゃっちゃっとやってきますね」
「うん、よろしく~」
渕上さんにつきあうとやや長話になりそうだったので、キリのいいところで区切って仕事に戻るのが鉄則、とべつのパートのおばさんに言われているので実行。
今は仕事中、よけいなことは考えない。
そう言い聞かせて亮は仕事に戻った。
「お疲れ様です」
亮が入っていったのは、この倉庫の事務所だった。
20畳はある部屋で、真ん中にはパソコンがそれぞれ置かれた仕事机が数台で島を形成し、入り口の手前に応接セットのソファとテーブル。窓側の奥に主任のデスクがある。壁側にはファイルやら書類が陳列されている本棚があり、典型的な事務所のレイアウトである。
いかにも事務所にあるという簡易の炊事場はパーテーションで区切られてはいるが、まぁだだ見え感はぬぐえない。
一応、午後5時が定時であるが、それが守られることはないのが日本の労働実情だ。この点、バイトは決まった時間に上がれるという優位があるが、いずれ会社に属したらそういう恩恵も失われるであろう。ふと奥に座っている主任をちらりと視線に納めながらなんとなく思った。
入室のお決まり文句の後、ディスプレイとにらめっこしながらカタカタとキーボードをタイピングする作業を止めず、気のない返事で「あぁ、お疲れ」と言ったきり、やはり作業の手を止めない主任は取っつきにくい人という印象しかない。
ほぼ一日中パソコンと向かい合っている姿しか見たことなく、常に机には処理する書類の束が積まれている。てきぱきとこなしているような印象だが、積み上がっている書類の量は一向に減る気配を見せず、本当に仕事をしているのかとちょっと疑いたくなる。
主任はかなり寡黙で、仕事中は社交辞令の言葉以外聞いたことがない人だった。
もぅ一年近く働いて、おばさん連中とか、ほかの社員さんとかは何かと話す機会があるし交流もできているが、主任に至っては「おはようございます」とか「お疲れ様です」とかの社交辞令以外ではコミュニケーション皆無だ。
「ぶっきらぼうだけど、悪い人じゃないのよ」というのは渕上さんの人物評だが、どうも取っつきにくく、いまいち好感が持てない。
機械的に仕事をこなしている感じがして、どうも人間味に薄い。典型的なサラリーマン、俗に言う社畜だなと、さして人生経験があるわけでもないのに、亮の一著前の観察眼がそう評価している。
ほかの社員さんは外回りなのか事務所にはおらず、今ここにいるのは亮と主任だけである。
これは結構きつい組み合わせだなと思い、とっとと上がるのが得策だとばかりにタイムカードをガッチャンコして、「それじゃ、お先に失礼します」と声をかけた。
「あぁ、お疲れ」と、さっきと同じ言葉を繰り返し、カタカタとタイピングする姿を尻目に、亮は表に出る。やっぱ苦手だわあの人、と自分にしか聞こえない小声で一息つくと、門を出て駅へと向かった。
職場から駅までの道のりは、徒歩15分。
工場と倉庫が建ち並ぶ工業区域で人もまばらだ。午後5時を過ぎれば所々から帰宅の徒につく大人たちが現れ、駅に向かう人やら自転車ですいっと抜けていく主婦の姿が見える。
トカーン、トカーンとまだどこからか何かを作っている重い音が聞こえてくるが、どこの工場が稼働しているのかは全く知らない。ゆったりとした喧噪というのはおかしい表現だが、あわただしくもなく、下町生まれの下町育ちの自分にとっては、昔から聞き慣れた町の音だった。
工場群を抜けると、大きな公園にぶつかり、このあたりから住宅街になる。そうなると人も増えてきて、子供の声が聞こえたりしてくる。わーわーきゃーきゃーと何がそんなにおもしろいのか分からないが、自分もああいう頃があったのだと思うと、ふと昔が遠くに感じられた。
子供の声が騒音だ、という主張が流行ったのは結構前だったが、改めて聞いても、あの声が騒音であるとはとても思えない。まぁ、確かに近くで聞かされればうるさいのも分からなくはないが、それでも不快な物ではないと思う。
何であの声に過敏に反応するんだろうな、とふと思うと、さっきみたく昔が遙か遠くに感じられるからなのかもしれない。もぅ二度と還ってこない過去を思い出すから、うるさいやめてくれと思う大人や老人がいるのかもしれないな、と偉そうに考えてみる。
なかなかに哲学的な答えだ、と自画自賛しながら公園を抜けた。
そしたら繁華街に入る。
ここまで来たら、さっきとは違う本当の喧噪に包まれた。
パチンコのよく分からない小うるさい音楽、人の声なのに入り乱れてもはや音波な音、車の音、申し訳程度にスピーカーから流れる商店街のBGM。
こういう音に包まれるのは、正直好きではない。雑然としすぎて、ただうるさく感じるだけである。
駅に着いたら定期で改札を抜け、東京方面へ。
日本で一番強そうな線にのって赤羽乗り換え。これまた日本で一番名の知れた電車に乗って、着いた先・・・
そこはアリアケに並ぶもう一つの聖地、アキバ。
いつから、秋葉原がオタクの聖地になったのか亮は知らない。伝聞では、2000年代からサブカルチャーの街としての認識を得たと伝えられているが、本当のところははっきりとしていない。一説には、国民的ゲームで知られるドラゴンクエストⅢの発売以降では、とも言われているが本当のところは分かっていないのだ。
電気街口の北側からUDX方面へ。神田明神通りを左にいって、大交差点をぬける。昔、痛ましい事件があった場所だが、今はその記憶も風化され、何事もなかったかのような様相となって人が行き交う秋葉原の大動脈の姿を取り戻している。
時間は午後六時過ぎ。人通りも未だピークで、多くの人間がアキバ界隈を賑わせていた。
亮と同じ学生然とした人もいれば、会社帰りの社会人もいる。家族連れや年季の入っていそうな初老の男性、この場には不釣り合いに思えるど派手な女性、海外からの観光客など、年代も性質も人種もバラバラな人たちが一堂に集まる不思議な光景だ。サブカルチャーの集合発信地域だった秋葉原も、いまや有数の観光街に様変わりし、日本が世界に誇る一つの名所となっている。
それでも、一皮むけばやはりサブカルの街。
至る所にアニメの広告が立ち並び、平然とアダルトゲームの広告が軒を連ねる。混沌と言えばそれまでだが、全年齢対象の街であるはずのそこは、まるで矛盾に満ちた不思議の国であるのだ。
この雑然とした世界は、今の世を体現させている。清濁混合、白と黒のハイブリットは、灰色という存在を否応なく教えてくれる場所なのである。
この世界は不思議の国だ。サブカルチャーの発信場所として今なお燦然と輝いている。世に与える影響力も高い。アキハバラという言葉は、すでに世界へと羽ばたいている。
もはや、日本だけの物ではなくなりつつあるのが現状だ。
オタクという特殊な人種が、その名前に反応する。否、オタク以外の、それこそ世間一般の人に至るまで、秋葉原はサブカルというムーブメントの中心として、アイ(I)を叫んでいる。一つの世界の中心なのである。
だがその考えこそ実にくだらない。偉い人がそういう風に考えて説明しても、それはあくまでインテリさんの理由付け。小難しく考えることはナンセンスなのだ。
アキバは、己の欲しい物を見つけるための場だ。それ以上の何者でもない。シンプルイズベスト。偉い人にはそれがわからんのです。
行きつけの同人誌販売店やら中古ショップを回って戦果はゼロ。あらかたはコミケや通販で買ったため、今は掘り出し物やチェック漏れを探す状態である。
去年の冬から夏にかけて、亮の欲するサークルは新刊を出していなかった。実に一年以上の空白ができている。ふつうのサークルなら、それだけの期間が空けばやや下火になる。同人業界も流行廃りはあるし、配布期間の停滞が長くなれば、ほかのサークルに取って代わられる。常に湧き出る同人誌の数は無尽蔵。追い続ける者にとっては、逐次変わる流行の追随を余儀なくされている。
だからこそサークルも取り憑かれたように年間3~4冊のペースで同人誌を排出するところが多い。受取手も制作者も、流行廃りのめまぐるしい実情の中で果てるともない激流に乗り続けなくては生き残れない。そして、いつしか安住の作品に出会い、盛り上がって、数年のウチに消えていくのが常である。
結局、同人業界も商業の一角として位置付いてしまったように思う。
それは違う、と同人作家は言うだろう。この思いはあくまで一般的、冷静に眺める者にとっての帰結だ。言い換えれば、現在進行形の現役買い手とは、観点が違うのであるから、意見の相違になるのは仕方がない。
下手な出版物より初版部数が多い同人誌は数多ある。亮はちょっと出版業界の末端に関わっているだけではあるが、その場末からでも見えてくる物もある。特に、今のバイト先は出版物の卸でみれば最前線の一角だ。えっ?この作家の初版部数ってこんなものなの?なんてカルチャーショックは鷹揚にして存在する。
そういう見聞から照らし合わせても、今の同人業界は日本に存在するもう一つの出版業界と言っていい。昔はアングラ的な物だったが、今は違う。
同好の士だけで形成されるコミューンだったものが世界規模まで大きくなれば、それはもう業界であるのだ。しかも、表現の自由があまり規制されないという意味でも、制作サイドから見れば敷居が低い。あーだこーだと言われることが少ないということは、とかく混沌としやすい部分も大きいが、それだけ自由度と多様性も秘めている。自分の趣味を遺憾なく発揮させ発散させられるということは、非常に魅力的だろう。我が出過ぎてしまうという部分もあるだろうが、要は、そこがどれだけ理解されるかであり、鷹揚にして許容されることの方が多いのだ。
一般の表現ものに物足りなさを感じてきた、というタイプの読者が同人に走るというのは、それほど珍しくはない。同人誌の持つ危うさやおもしろさは、プロセスを踏み続ける一般の表現とは異なり、行き着く先はフリーダムに近い。垣根が取っ払われたその無秩序とも言える物に嫌悪が出てしまえば確かにそれは同人というものには向かないかもしれないが、楽しめる者にとっては麻薬のような存在となる。
作家の趣味をダイレクトに受け取れれば、この上ないシンパシィを得ることだってあるだろう。作り手に近く接せられるというのは商業誌にはない同人誌の強みであるのだ。
だが、同人が先か商業が先かは今の現状では曖昧なところがある。同人から這い上がる作家もいれば、商業誌から同人に下る作家もいる。ガス抜きという意味での逆輸入は昔からあるにはあるが、現状では商業誌デビューしてから同人に手を染めるという作家も存在し、その線引きはすでに形骸化していた。
プロの作家が、同人作家をリスペクトしているという不可思議な関係性まで存在するのだから、何がプロで何がアマなのかすら、概念的にも混沌としている。確かに、才能には貴賤など無く、どちらが上でどちらが下かなど愚の骨頂ではあるのだが、それでも一定の線引きというのは本来必要であるはずだった。
しかし、それは今の業界には通じない。
プロですら舌を巻く逸材が存在し、従来では表に出てこなかった才能が、コミケというシステムの中で日の目を見、ネットという情報社会の中で白日の下に晒け出てくる。
一昔前は、口伝のみで一部にのみ、その存在が知られていたというプロセスの壁は取り払われ、今や誰もが発信できるソーシャルネットワークで全体に広がりを見せる。情報の拡散は恐ろしいほどのスピードで広がり、一度ムーブメントになれば当たり前のように知れ渡るのだ。
コミケが巨大なイベントとして認知され、逸材がひしめく存在であると世に知れ渡れば、新しい物や同好の士を求める輩がこぞって集まるのは自明。
テレビやニュースで取りざたされたからコミケ人口が増えた訳ではない。一つの側面としてはあるだろうが、内容を知らずに人は集まらない。ネット情報の拡散とその存在の内容がより詳しくより広く知れ渡ったからこそ、コミックマーケットという存在に人が集まったのだ。
いまや、同人誌は一つの出版形態だった。
より自由度の高い表現の自由の場がコミックマーケットなのである。
しかし、その自由度の高さが流行廃りを加速度的に速めることにもなるのはやや皮肉的な流れといえるだろう。
同ジャンルを続けていくのはコミケではなかなかに難しい。結果、拘るあまり落ちぶれるサークルも少なくなく、最終的にはオンリーのみでしか見なくなるところもある。コミケだけでは客足が鈍る部分があるのだ。
買い手からすれば、コミケはある意味で総合ジャンルの博覧会なのである。それも、できうる限り流行の最先端を見つけるための場である。
サークルとしては、そういった参加者の増加にやりにくくなった部分もあるはずだ。出しても売れない状況ならば死活問題になりかねない。だからよろずが増える。夏と冬ではジャンルが違う、なんてサークルだって珍しくはないのだから。
コミケが巨大になればなるほど、その内包した矛盾は大きくなっていくだろう。
サークル参加者と一般参加者のその乖離は年々ズレてきている。そこが、近い未来コミケのぶつかる壁なのではないだろうか。
そういうことを亮はまだ知らない。
当然だろう。参加して一年そこらのニュービーがそこまで見えることはまずあり得ない。流行すら何が最先端なのかすら漠然と把握できていないのだから仕方がないといえる。
ただ、自分が欲しいと思っているサークルの新刊が一年近く出ていないというその事実だけが彼の落胆なのだ。
本来、そこまで出てこない同人誌というのは存在すら忘れられ、過去のサークルとなる。一年という空白と言うことは、同人業界的に見ればほぼ引退解散と同義の定義みたいなものだ。
ともすれば必然と人気の衰えとともに中古市場の同人は値を下げる。手放す者も多くなり、同人誌そのものが市場に出回ってくる物だが、しかし“ふぁんとむ・めなす”は違った。
希に存在するが、サークル解散後に値がつり上がり、また現存数の少ない物だけに市場にも出回らず、存在という事実だけが一人歩きした伝説の同人誌となる本も無くはない。
国民的猫型ロボットの最終回パロディ本みたいな、権利元からの回収によって市場から消え、現存数だけでのレアリティでそこそこの値段が付くように、伝説と化した同人誌のプレミア価格は存在しなくもないのである。
“ふぁんとむ・めなす”のそれはまさにそうなっていた。
ある程度の愛好家たちに知れ渡った知名度でありながら、部数自体が極端に少ない希少性は同人誌自体の価値を否応なく高める。このような現象は、半オフィシャル的な同人誌にこそ起こりえる現象であり、一般サークルでは極めて起こりにくいのだが、そういう意味でも“ふぁんとむ・めなす”は極めて希な同人サークルであり、その勢いは一年配布無しの現在でもなお衰えることがない。
よりにもよって、そんな同人誌に心を奪われたのはある意味の不幸である。
手に入れることが叶わない、手の届く気配がない同人誌に魅せられ、振り回される羽目になるとは、最初はそんなことを思いもしなかった亮だが、一年経った今ではひしひしと感じられる。
この一年で、ある程度の同人サークルには詳しくなったし、ショップに出回る同人誌などのチェックでどういった流れになっているのかは漠然と掴みつつある。
だが、それが活かせない。
そもそも、本命にはそのすべてが応用できないのだった。
難度として、レジェンド級の最高レアリティは課金だけではどうにもならない。
週に一・二度の聖地巡礼も、そろそろ限界に来ていた。顔見知りの中古ショップの店員からも、有益な情報はない。ある意味では積みの状態だった。
今日も戦果を得られずトボトボと中央通りをぬけ、電気街口南へと向かう。そこはゲーメストやラジオ会館の立ち並ぶ、秋葉原の顔とも言うべき区画だ。
大抵の物なら、わざわざ奥へ行く必要はない。その区画だけで事足りると言われるくらい充実している。レアものではない、世間一般で入手可能なサブカル物の在庫は豊富であるのだ。ほかの街では品薄でも、そこに行けばしばらくの間は保ち堪えている。
最後の砦と呼ぶにふさわしい場所であった。
今回は商業新刊などのチェックは省くため、ゲーメストには寄らずそのままラジオ会館へ。亮がアキバに訪れた頃には新しいラジオ会館は完成していたため、古いラジオ会館を知らない世代である。
未だ真新しい玄関口をぬけホールを横切り、建物中央のエスカレーターに乗った。
二人通るには狭く、一人だと変にスペースの空く、ものすごい中途半端な幅のエスカレーターだが、おかげで煩わしさ無くエスカレーター左側に止まっていられる。関西では右側だが関東だと左側。よく分からないルールの違いだが、関西の右側には右側になった理由があるということをテレビで観た気がする。阪急電鉄がどうしたこうした。
東京生まれの東京育ちの修学旅行以外では関東から出たこともない亮には、関西のことはまるで分からない。
比較的ゆっくりと上るエスカレーターを乗り継ぎ、4階へ。
K-Books新館。秋葉原の中で最も駅から近い中古同人ショップと言われる場所である。
午後七時過ぎ。時間はまだある。
まず軽くノベリティグッズを見回してお目当てのキャラの掘り出し物がないかを丹念にチェックする。あらかた調べてはいるので特に目新しい物はないはずだが、やはりネット検索にも引っかからない物というのはあったりするから、確認は怠らない。
──やはり無いか、と落胆しつつ中古同人コーナーへ。
フロアに立ち並ぶ本箱の中には、詰められたように同人誌が並んでいる。
文字通りの薄い本であるから背表紙などは無い。ジャンルやサークル毎、ひらがな順にインデックスがあり、それを頼りに探さなければならないため、ショップでの同人発掘というのはなかなかに時間の要する作業である。
亮はお目当てのジャンルを探すと、そこそこ慣れた手つきで引っ張り出す。大体、並び的には左端から新しく買い取りした同人誌を並ばせることが多いという。その豆知識に従ってさくさくと表紙を確認しては次に進む。
熟練になると、それこそ背表紙の色で同人誌の種類を判別できる手合いがいるというが、さすがに亮はそこまで至っていない。
小規模の手の込んでいるところでは、一応に同じ同人をまとめて並べてくれるところもあるが、一日も経てばバラバラになってしまうため、大型店などではほとんど放置されているのが常だ。
こういっては何だが、いつまでも売れ残る本というのはある。そのため表紙はおろか背表紙の色まで覚えてしまうと弾く作業も早くなる。さらに熟練の技になると、そういった同人誌をピックアップしてはまとめていっては右端に追いやる。たまにひとかたまりに同じ同人誌がまとまっているのはそういったベテランが整理しているからなのだ。
しばらく判別作業に没頭したが、やはりラインナップは変わらない。中堅規模だと本当にごく希にこういった棚に間違ってレアものがあったりするのだが、大手ではそんなことはまず起きない。徹底したジャンル管理者がそういったお宝を見逃すわけがないのだ。もしあるとすれば、短期間で知名度が上がったサークルの情報を逃した場合であるが、そんな事は数年に一度有るか無いかだから、狙えるような物ではない。
ついに本日も大きな戦果は得られなかった。さらに亮の落胆は大きくなってのしかかる。
残念な面持ちで棚を後にすると、その重い足取りで、同人誌のショーケースに足を運ぶ。
そこには、会場の定価の数倍、ヘタをすれば数十倍の値段の付けられた超人気サークルの本が所狭しと飾られている。むろん、その中に“ふぁんとむ・めなす”の既刊本も陳列されている。
いったい誰が買うんだと思えるような価格設定だが、陳列された同人誌は比較的入れ替わっていることから、売れているのだろうという事だけは分かる。
値段に代えられない価値が有ればお金を出すというのは、まぁ分からなくはないが、コピー誌に冗談みたいな値段が付いていてもなお売れるというのは並々ならぬ情熱が有ってのことだろう。そこまでの情熱を持って同人誌と向き合えるかと言えば、亮にはまだその覚悟がない。
それ以前に、亮の求める“ふぁんとむ・めなす”の同人誌はそれこそ破格ともいえる値段が付けられている。
五十万円(税抜き)
市場最高値、否──サブカルチャー同人誌に付いた値段としては日本最高額といっていい。
一時、その暴利な値段にネット民の話題は騒然となった。もともと、数万程度の値が付く“ふぁんとむ・めなす”の同人誌だが、とあるブラウザゲームの追加キャラデザ以降からさらに爆発的に人気が高まり、本がほとんど市場に出ないために希少性が増してしまった結果、ここまで加熱したと言っていいだろう。
店側としても、いつ手にはいるか分からないような品物である以上、おいそれとは値段が付けられないため、いっそのこと馬鹿みたいな値段を付けようということになったとの経緯がある。アキバブログでその特集が組まれたとき、そういった詳しい経緯が掲載されためさらに話題を呼んだ(煽った)といえるだろう。
それにもう一つは、これを取り扱っているという事だけで、中古ショップのステータスにもなるのだ。他店舗が持っていないような物まで扱っているという出し抜き感は在庫の信用度を上げる。そして群がるかのように他の種類が集まってくる。玉石混合ではあるが、中には本当にお宝が混じっている場合がある。強力な店頭在庫というは、それだけで吸引力を持つものだ。客でも同人誌でも、である。
非常に巨大なルートを確保しディープな物まで手に入れると有名なまんだらけでさえ手に入れられなかったほどの一品であればこそ、その価値はさらに高まる。事実、当時のまんだらけ同人誌買い取りリーダーはかなり悔しがっていたという逸話まであるくらいだ。そこまで貴重であるなら見本品で売らないという事にすればいいだけなのかもしれないが、それでは話題になりにくい。
だからこその、この非常識な値段となった。
この目論見は功を制した。
史上最高値の同人誌という触れ込みは、オタクたちの琴線に触れた。それ故に一目見ようと足を運んでくれる。十分な宣伝効果だった。
値段が付いている以上、いつかは買われるかもしれないという期待感と好奇心がそれに拍車をかける。いつしか、その同人誌の在庫確認は聖地巡礼の一つの目玉として取りざたされるようになった。
しかし、そのムーブメントのあおりを直に食らったのは亮のような“ふぁんとむ・めなす”を欲するユーザーである。
加熱すればするほど、もはや手の届かない位置に行ってしまう。その流れが亮はもどかしかった。熱が冷めればふつうに戻るかもしれないが、それがいつになるのか、またそのいつまでに自分の熱は冷めてしまわないか。そう考えると、空しさが出てくる。
同人買いにはこんな言葉がある。
「買えない奴がわるい」と。
取り逃すのは情報収集が足りないからである。『こうどなじょうほうせん』はイベント前から始まっているのだ。それを制せずして本は手に入れられない。少なくともそういう認識を持っていないと同人誌の存在を認識し買い続けることはできないだろう。
もっとも、この一件に関しては亮にはそれが当てはまらない。情報戦以前に、時期的にもその土俵に上がれなかったのだから、どうしようもない。後発になればなるほど、難易度は飛躍的に上がってしまう、その典型だ。
こうなると、ユーザーは二者択一の選択に迫られる。
おとなしく違うサークルを追うか。
おとなしく諦めてやめるか。
大半は、違うサークルを追うようになる。これも一つのサークル離れの遠因でもある。
買えない物に固執し続けて停滞すれば同人業界からは取り残されるのだ。どこの業界でも同じだが同人業界も日新月歩。
そのめまぐるしい本流は速く厳しい。濁流に飲み込まれればひとたまりもないだろう。故に、針路転身は間違いではない。舵の切り方一つで進退が左右されることも十分にあるのだ。だから常にアンテナを張り続け、所々に浮かぶ島に寄港する。同人誌を探す者も、航海をする船乗りのようなものだ。
ショーケースに陳列されている“ふぁんとむ・めなす”の同人誌を眺めながら、亮はポツンと立ち尽くしていた。
何人かが、「これが噂の・・・」とか「さすがに売れないだろ」とかつぶやきながら往来している。誰もがこの同人誌の進退を気にしている様子だった。それだけ知名度は高くなったのだから、店側の仕掛けとしては大成功だろう。
はぁ、と大きなため息をついて、亮はショーケースから離れた。
どうやっても手が届きそうにないという焦燥感は、気勢を挫くには十分な現実だ。このやるせなさが、どうしようもない虚脱感に変わる。
とぼとぼと店内を歩き始めた時、ドンっと誰かにぶつかってしまった。
狭い通路での不注意だったための不覚だった。
「あっ」という相手の声にハッとして、亮は反射的に「すいません」と言ったものの、相手の持っていた商品がパサパサっと通路に落ちる。
数冊の、成年指定同人誌・・・通称エロ同人だ。
これは気まずいと思いつつも、慌ててかき集める。
そういう店内なのだから一般道でぶちまけるよりは遙かにマシなのだろうが、見も知らない人間とぶつかってエロ同人を落とすということ自体の気恥ずかしさに場所など関係ない。
亮はすぐさまかき集めると、俯き加減に拾った同人誌を差し出す。
顔を見られるよりは同人誌の好みを見られる方が遙かにマシであろうという判断だが、どっちもどっちといった所だろう。場合に寄ったらそっちの方が致命傷かもしれないが、そこまで思考が働かない。
「ほんと、すいませんでした」
亮の言葉が届いてるのか、俯き加減の体勢では相手の表情を推し量ることは出来ない。
しばらく、相手からの反応が無かった。
差し出した同人が寄る辺のないまま中空で停止する。
なんだこの絵図ら──などと思いながら、さすがに時間が経ちすぎているので不思議に思った亮はおそるおそる面を上げた。
相手は、固まっていた。
そして、その顔を見た時──
亮も固まった。
こんな所に居ようはずもない・・・バイト先のあの主任が、その相手だった。