waarheid
きっかけは些細な出来事の筈だった。
夕暮れの教室でただ一人泣いている彼女の姿を見かけただけだった。
窓際の指定席に、泣きながら座っている彼女の姿。ただのクラスメートだが、たまに話す関係性である彼女の姿。
気になって放っておけなくて、歩み寄って大丈夫か、と聞いた。
最も大丈夫でない事は分かりきっていたが、儀式の様なものだろう。それでももう一度。大丈夫か。
と、彼女はかぶりを振ってから顔を上げた。涙が幾筋も伝っている頬を夕陽に輝かせながら大丈夫だよ、と呟く。
大丈夫じゃないだろ、と反論する僕に大丈夫だから、と尚も言ってきた。
素直になれよ、と叫ぶ僕に本当に大丈夫だよ、と笑いかけてきた。
その優しさは彼女のいい所だが、今は醜悪な物に見えて仕方が無い。
激しく苛立って、彼女の真横にある誰かの机を思いきり叩く。静かな教室に、爆発の様な音が響き渡った。
少女が驚きと恐怖が混じった視線でこちらを見てくる。音の所為か、僕の気迫の所為か。新たな涙が現れて、前からあった軌跡を辿る。
ため息をひとつ、零した。肩がゆっくりと下がって行く。
先ほどの行動とは裏腹な、静かな声を心がける。一体何があったんだ、話してみてくれないか、と静かに穏やかに。
彼女は一つ頷くと、しゃくり上げながらようやく語りだしてくれた。口を開いた理由が僕に対する恐怖心じゃなきゃいいけど。思いながら耳を傾ける。
親友であったはずの女子が急に冷たくなった事。
それと同時にグループ内の視線も冷ややかになった事。
理由不明の失くし物が増えた事。
この状況が数週間にわたり、耐えられなくなり泣いてしまった事。
そこまで言いきると、彼女は気まずそうに視線をそらした。窓の外、夕陽色に染まった校庭を見下ろす。
一方最後まで聞いた僕の内心は、煮えくりかえっていた。
酷い状況を彼女一人が抱え込んでいた事に対して、その状況を作りだした元親友に対して、そして――うかがい知れなかった自分自身に対して。
どうしたらいいのだろう、と脳内がフル回転する。目の前が一瞬暗転する程に回し続けた。
回しに回して至った結論。それを言う前に、彼女はぽつりとこう言った。
――いっその事、死んだら楽になるのかなと。
耳に届いて来た時、僕は酷く嬉しくなった。高揚した声で返す。
――僕も丁度そう思ってたんだ。
え、と不思議そうな声を上げて彼女が僕に目をやってくる。垂れ目がちな黒目が、涙で輝きを増して僕を見上げる。
何かが切れた音がした。
彼女へ手を伸ばして、肩を軽く叩く。僕の行動を全く予想していなかったのだろう、いとも簡単に床へ崩れ落ちた。古びた木目に広がる、彼女の長く柔らかな黒髪。溜まっていた涙が伝って髪へ零れ落ちた。
幾つもの机をなぎ倒すと、彼女が座っていた椅子を引っ張り出す。椅子の脚で宙ぶらりんになっていた白磁の様な両足が、床へ力なく着地した。
そのままの状態で馬乗りになる。真上から見る彼女の顔は、恐怖心で溢れていた。やめて、と桜色の唇が動くものの声は出てこない。
何で、と思った。小首を傾げて、問う。
――だって、君が死にたいと望んだんだろう?
彼女の口が否定的な言葉を形作ろうとする。それを見るより先に、彼女の首に手をかけた。
元々細い日焼け知らずの首は、小さい部類に入る僕の両手で簡単に包み込めた。親指を二本使って、キャラクターがやっている様を思いだしながら酸素の通り道を潰す。
かはっ、と短く息が漏れた。冷たい汗が、僕の手に伝わってくる。
辛そうな目で僕を見つめてくる。溢れた涎が彼女の口の端から垂れた。
透明な液体にまみれた彼女を見て、よかったじゃないか、と思う。
君が望む時に、死ぬ事が出来て。
思いが彼女にも伝わったのだろうか。彼女は僕の手首を掴むと、あろう事か爪を思い切り立ててきた。透明なマニキュアが塗られた爪が食いこんでくる。
痛かった。
下にある顔を睨みつけると、彼女は涎と涙で汚れた顔のままかぶりを振る。殺さないでくれ、と行動で示して来る。
彼女の足が抵抗して動き回った。履きなれた上履きによって机や椅子が散乱して行く。
見ながら、何でだよ、と思った。親指に力を込める。息が漏れた感覚があった。
死んだら楽になるのかな、って死を望んだのは君の方じゃないか。僕は、君の願いを叶えようとしているだけじゃないか。
――今更嫌がるなよ、言葉に責任を持てよ。
手全体に力を込め直す。同時に、彼女の爪の痛みも増した。非難気な視線が僕を貫く。
その目を見た瞬間、昔、読んだ小説に書いてあった台詞を思い出した。
『口に発した言葉はもう二度と取り返しがつかない』
スカートが大胆に捲れ上がって露わになった白い太腿は興味対象外だった。
興味があるのは、彼女の酷く辛そうなみじめな顔。
『空気中に言葉を発した時点で、その言葉は他人の意志にも共有される。それを他人がどう噛み砕き、どう飲み込むかは分からない』
非難に満ちた視線が僕を睨み続ける。爪を立てる力も増して行った。
負けじと睨み返し、手に力を込めていく。
『飲み込み、どう解釈したか。その解釈を怒ってはならない。自分にとって不利益だったとしても仕方が無い』
あぁそうだよ、仕方が無いんだよ。
お前が何気なく零した言葉で、本当は望んでいなかったとしても、仕方が無いんだよ。
『発した時点で、その言葉を解釈した後の行動は向こう側にゆだねられているのだ』
だから、なぁ。
死にたいって言ったんだから。
『発した時点で、発した者はその言葉の責任を取る必要がある』
――殺されることくらい、覚悟しとけよ。
ぐいっと首に最大限の力を込める。爪が一瞬離れたが、それでもすぐに戻ってくる。先ほどから痛めつけられいる部分は紫色になっていたり皮を破って血が流れたりしていた。
それでも構わない、と更に力を込める。発した言葉に責任を持たない彼女に、鉄槌を。
最大限に力を込め続ける。僕の手と彼女の爪の無言の戦いになった。
夕暮の教室、彼女の顔が陽によって真っ赤になった時。爪から力が無くなり、パタン、と左腕が床に落ちる。
そっと、首から手を外した。彼女の反応は一切ない。
死んだのだろう。その事実に、安堵故か恐怖故か。ため息が深く漏れた。
今更ながら身体が震えてくる。嫌な汗が背筋を伝った。
死んでしまった、死んでしまった。
――僕の手で、殺してしまった。
恐怖心が今更ながら襲ってくる。それでも手袋もせずにやったのはまずかったかな、と思ってしまう僕は異常なのだろうか。
指紋で誰がやったか分かってしまう。そしたら僕は掴まって、少年院行きだろう。
もう一度息を漏らした。何で、この世の中はこんなにも理不尽なのか。
彼女が死にたいと言ったのだ。きっかけを作ったのは彼女のなのだ。
それなのに、きっと僕は全面的に悪いという結論に至るのだろう。
整然と並んでいた筈の机や椅子は僕と彼女を取り囲むように、僕を責め立てる様に周りに散乱していた。
ぼんやりと、既に死に至った少女を見つめながら思う。
天井を仰いだ。見慣れたはずの蛍光灯に、見慣れたはずのヒビ。
何もかもが見慣れた世界の筈なのに。どうしても異世界にいる気がしてならない。
違和感しかない所在地で、ゆっくりと立ちあがった。
どうせ捕まるんだ、それならこの異世界くらい平常な日常に戻してしまおう。
彼女の両脇に手を差し込むと、ずりずりと教室の隅に引きずる。死んだ人間の体は思っていた以上に重かった。
散乱していた机と椅子を、整然と並んでいる部分と同じ様に並べて行く。
並び終えた後、彼女の体を同じ様に持ち上げて指定席まで引きずり、無理矢理座らせた。両腕を机に乗せ、前のめりに寝こんでいる様な姿にしてみせる。
夕陽に照らされた彼女の姿は、芸術的と言っていいほど綺麗だった。
指紋はべったりついているだろう。僕が犯人だとすぐにわかるだろう。
だったら、と思う。そうした方がいいと思った。
直感に従って彼女の真横にある窓を開けると、澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。
夕陽の光は眩しい位僕の顔を照らして来る。さながらスポットライトの様に。
そのまま、僕は。
窓から乗り出して、赤い世界に身をゆだねた。
――――ぐしゃり、という音が耳に残った。
『――次のニュースです』
『××県△▼市、●●学校にて、生徒が二人死亡する事件が起きた模様です――』
『少女一人は教室で寝こむように亡くなっており、少年は同教室の窓から飛び降りたようです。二人の関係性は同級生と言う事もあり、警察は何らかの関わりがあるだろうと――』
『少女の首には何者かによって絞められた跡があり、また、その指紋が少年と一致したことから――』
『少年が少女に交際を迫り、断られた恨みからこの様な事に発展したのでは、と――』
『命を軽んじる風潮が、現在では多いからでしょうか。その点を専門家である――』
――――死人に、口無し。