八ノ怪
ススキに囲まれた場所で目の前で妖怪たちが舞を踊りお酒を浴びるように飲でいる。わたしはそれを台の上でぼんやり眺めていた。
少し視線を移せば紅い敷物の上で角の生えた遊女が扇を翻し優雅に舞う。鬼が生みだした灯は闇夜からこの場を浮かばせ、より不気味な宴の雰囲気を強くさせていた。
嫌だなぁ。覚悟はしていたけれど、ここでもわたしは珍獣扱いなのね。うんざりと肩をすくめてしまう。
常闇では人間を直に見たことがない者もいるみたいで、特にこの世界で人間がいること自体珍しいようだ。好奇の眼差しがあちらこちらから向けられる。
でもだからと言って、いつもいつも見せ物扱いされるのは良い気はしない。鬼の手前わたしに触ろうとはしないけれど、こうまじまじと眺められるのは正直勘弁して欲しい。
せめてこれがなければ良いんだけれど。
そう思いながら腰に目をやる。わたしの腰には太い紐が巻かれていて横でいくつものとぐろを巻き、その先には鬼へと繋がっている。
気分は繋がれた犬。しかも目の前には高価そうなお椀が二つ。中にお団子と水がそれぞれ入っていて、もちろん箸なんてついていない。ようするに手で直に食べろって事でしょう。
あぁもうっ。これなら以前みたいに籠に入れられていた方がずっとマシかもしれないわ。本当のところはどっちが良いのか分かりかねるけど、いい加減この状況に耐え切れなくなりそうで知らず知らずの内に眉間に皺を寄せた。
「鬼様ぁ、お会いしたかったわぁ」
聞こえた声に顔を上げる。わたしの斜め前に一段高く設けられた座席。そこで蜘蛛の足を連想させる簪を、見事に結い上げている黒髪に挿した遊女が鬼に微笑んでいる。さっきの媚びた声はどうやら彼女みたいだ。
細い小さな顎に吊り上がった目。妖しい口元。いかにも気が強くて弱い者いびりが大好きなお局様! と言った感じの女性だ。
そして――それを睨むのはいつか見た青い美しい女性が一人。鬼の向こう側で群青に輝く鱗を着物の下から垂らしながら、忌々しげに花魁に冷たい視線を寄越している。
女郎蜘蛛と濡れ女。二人の美しい妖が鬼を間に挟んで、紅い鬼様にお酌するという、たいへん名誉な役を取り合っていたのだった。
もちろんわたしは彼女たちを見て露骨に嫌な顔なんてしない。冷ややかな笑顔で見守るだけ。恐ろしい女の戦いに参加なんてしたくないし、火の粉が降りかかるのも御免だった。
「貪欲の鬼様。何故あのような臭い人間なぞ手元に置いているのです。鳴き声なら私の方が良い声で鳴きますわ」
こちらを冷たい目で睨む花魁姿の女郎蜘蛛。白魚の手で紅い鬼の肩をしきりに撫でている。
別に好きで飼われているわけじゃない。わたしを睨む前に鬼を説得でも誘惑でも何でもして、わたしを放すよう言って欲しいぐらいだわ。まったく。
正直にいうと、以前この世界に来たときに蜘蛛の妖怪に襲われたことがあったので、彼女に対しては見かけた時からあまり良い印象は持てなかった。先ほどからちらちら見下すような目で見てくれば尚更だわ。
「声なら私の唄を是非」
「ちょっと濡れ女。邪魔しないで頂戴」
鬼にお酌をしようとした下半身蛇の女性を花魁がギッと鋭く睨んだ。その一瞬、花魁の顔に鬼婆のような醜さが垣間見えた気がした。怒ると本性が見えるのは、妖怪も人も変わらないということなのかしら。
ちらっと青い女性に目を移す。美しい長い髪を後ろに流し、花魁とは違う蒼い手でお酌をする様は優雅そのもの。垂れる青い鱗も海原のように澄んで綺麗だった。
濡れ女さんには一度だけ会ったことがある。話したことはないから詳細は知らないけれど、紅い鬼に惚れ込んでいるということ確かで、今も変わらず紅い鬼しか見ていない。現にわたしの存在など気にも留めていない。
あのセクハラ鬼のどこが良いのかしら。今になってもわたしには理解出来そうにないわ。
顔をしかめて吐息を漏らす。これじゃあ外に連れ出されても意味が無いじゃない。鬼さんは美人二人に挟まれてご満悦みたいだけど、わたしは蜘蛛の花魁に睨まれるわ、他の妖怪からは興味深げにじろじろ見られるわ。……良いことなんてまったく無い!
鬼から見えないことを良いことに、わたしは隠さず溜息を吐いた。早く籠に戻って眠りたい。ゆっくり一人で布団に入りたい。うな垂れながら重い瞼を擦った。
そのとき紅い鬼の笑い声が耳に入った。なにがそんなに面白いんだろうと半眼で見据える。
「いやいや。人間を飼うのもナカナカ面白いぞ。まぁ中には鬼になる奴もいるみたいだがナァ~」
聞こえた言葉にぎょっとして目を見開いた。気持ちがざわざわとして嫌なものが瞬時に広がり、眠気も吹き飛ぶ。
今、なんて言ったの? 青褪めながら顔を上げれば頭の片隅に寂しげな彼女の顔がよぎる。それと同時に悲しい般若の顔も。
「人間は心も体も、醜く弱いですもの。それにしても鬼になるだなんて。喰われた方がお似合いなのに。生意気ね」
鼻先で笑う女郎蜘蛛。こちらに振り返り、肩越しにわたしを睨むとまた笑う。
「お前も早いところ、鬼様に喰われたほうが良いんじゃないの?」
「なっ……!」
なんてことを言うの! 喰われたほうが良いですって? 人をなんだと思っているのよ!
急激に心拍数があがって顔が熱くなるのを感じる。心臓が早鐘を打ち鳴らし始めて鼓動が聞こえてくる。そんな怒り心頭なわたしをよそに、花魁の言葉に舞踊っていた遊女たちが足を止めてくすくす笑い出す。
「いけませんわお姐様。紅の鬼様が汚れてしまいます」
「あらそう。じゃあ狒狒にでも孕ませましょうか」
その場に笑い声が響く。嘲笑の声と蔑みの眼差し。それらが自分に集まった。わたしはぎゅっと口と両手を結んで悔しさに耐えた。相手は妖怪。下手に動くべきじゃない。
でも……分かってはいるんだけれど……
肩が、指先が、唇が、耐えきれない程小刻みに震える。
どうしてそんなことが言えるの? 妖怪といえど、あなた達も同じ女でしょう? なんでそんな酷いことが言えるの?
「あらあら。人間さまが震えているわ」
「誰か慰めておやりよ」
「河童でも呼びましょうか?」
どっとまた笑い声が溢れた。
顎が震える。怒鳴り散らしたい気持ちを必死に押さえつける。でも、それでも高ぶった感情が治まることなんてなくって――
「なによ……」
頭に血が上り頭痛とともに耳鳴りがする。目の前がじわじわ見えなくなっていく。
好きで鬼になんてなるんじゃない。好きでここにいるんじゃない。誰がこんなところに――
「どうした鈴音」
聞こえてきた声に、はっとして顔を上げる。紅い鬼は酒を丁度飲み干したようで、盃と顔を同時に下げた。
わたしは何も考えないで鬼を見続けた。紅い鬼は舌で口の周りを拭うと、口端をにぃっと吊り上げて笑った。
「鈴音。家に“帰りたい”か?」
「――っ!」
瞬時に頭の中が真っ白になった。
ただ頭の中に一言、浮かぶ。
許せない!
気がつくと、しんと静まり返ったその場で、わたしは台の上で肩で息をしながら立ち上がっていた。台の下にはひっくり返ったお椀が二つ。お団子が地面の上でずぶ濡れになって泥まみれになっていた。
みんな黙ってわたしを見詰めていた。誰一人音も立てない。話し声も笑い声も和楽器の音も聞こえない。
わたしは俯いて奥歯を噛みしめた。
もう嫌……こんなところ……
こんな……
ふと目を上げる。わたしを見詰める紅い鬼と目が合う。紅い鬼は無表情でこちらを見つめて、僅かに口を開けた。
――聞きたくないっ
反射的に台から飛び降りて、鬼の声など聞かずに後ろに広がる茂みへと走った。振り返らず、身の振りかまわず、背の高いススキの中を駆け抜けていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あんな奴最低! みんな最低よ!
ススキが頬を撫でるのたびに腕で払いのけ、どんどん道なき道を進んでいく。
そりゃあ人間に対して面白くないと思っているのは、仕方ないと思いあたる部分もあるわ。元の世界から追いやったり、居場所をなくしたのも人間だったのかもしれないし。でもだからって、だからってあんなこと……
「あっ」
強い力が加わり、腰が浮いて尻餅をつく。
痛い。どうして転んだんだろう。
顔をしかめながら起き上がり後ろを確認する。背後にはぴんと張った紅い紐。自分に括られている紐が長さの限界にきたようだ。これじゃあ先には進めない。
大きく溜息を吐いて、けど、あの場所に戻りたくもなくてその場に座り込む。
本当に最低だわ。悔しくて、悲しくて、我慢しても涙が出てくる。
手の甲で涙を拭いながら顔を上げる。
空を仰いでも暗闇ばかりで星なんて一つもない。ここには暗闇ばかり。唯一闇夜に輝く月も妖気に満ち満ちて、あの暖かな陽の光とはほど遠い。
帰りたい……家に……
ふいに、そんな気持ちが沸き起こった。無性に家族が恋しくて寂しい。元の世界に戻って、あの暖かい日差しを体中に浴びたい。
……もしかして鬼はこれを狙っていたっていうの? わたしが帰りたいと漏らすために、あの場に連れてきて、あんなことを言ったの?
大きく息を吸って深く吐き出す。それからぎゅっと口を結び、前を睨みつける。
わたしは絶対に言わない。
泣くことはあっても、絶対に帰りたいだなんて口になんかしないわ。紅い鬼のものになるくらいなら、泣き暮らした方が良いもの!
そう決意して空を睨んだわたしに、生ぬるい風が吹き付けて、まるでヤジを飛ばすかのように濡れた枯れ葉を顔に被せて遠ざかる。……もう。いつもならもう嫌だとか言ってなんともないのに、その風のイタズラでさえ今のわたしには辛く感じた。じわりと涙で闇夜が滲む。
なんだか心が折れそう。
……楽になりたいよ。
以前のわたしは、一体どうやって広がる闇を乗り越えていたんだろう。今のわたしは、何故か酷く脆いみたい。情けなくて、情けなくて。仕方がない……
枯れ葉を払いのけると、またぼろぼろ涙がこぼれてきた。堪えても拭いても、止めどなく目から涙が溢れ出す。膝の上にいくつもの水滴が落ちて暗く染まる。
帰りたい……帰りたい……
心の中で呪文を唱えるように呟き繰り返す。気がつくとわたしは両手で顔を覆って膝を突き、ただ慟哭していた。
もう疲れた。鬼に抵抗するのも妖怪達からの屈辱に我慢するのも。ここでは何一つ良いことなんてないわ。耐えても耐えても、終わりがないんだから。
この常闇にきてから、わたしは初めて声を出して泣いたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひとしきり泣いた頃だった。ススキが一度ざわめき、次第に静かになっていく。
沈黙が訪れてしばらく自分の泣く声しか聞こえなかったけれども、まるで流れるようにそれを縫って遠くから何かが聞こえてきた。
これはなに……?
なにか、聞こえる……。
まだ上下する胸に手を乗せ耳を澄ませて静かにしていると、徐々に音が鮮明に聞こえてきた。優しい、どこか寂しげな旋律。
誰かいるの? わたしの背後から聞こえてくるけれど、宴とはまた違った場所から聞こえてくるみたい。
わたしは立ち上がって、来た道とは違う方向へ足を進めていった。
その妖しい旋律に、誘われながら……