七ノ怪
てんてんと畳の上で鞠が跳ねる。これで何度目なんだろう。
こっそり溜息を吐きながら着物の裾をあげて駆け寄り、鞠を拾い上げて紅い鬼の元に戻る。
「どうぞ」
「それだけカナ?」
頬杖をした鬼がわたしの差し出した鞠を一瞥し、きょろり紅の瞳でわたしを見上げる。
その様子にほんの一瞬だけ下唇に力を入れる。それでも次の瞬間には笑顔を浮かべてもう一度鬼に差し出した。
「紅の鬼様。鞠をどうぞ」
顔がひきつっているのはもう仕方がない。これがわたしが鬼に出来る精一杯の笑顔なのだ。
「そうそう。愛想は大事だぞ鈴音」
頬杖をやめて鞠を受け取り、すぐさま投げた。
大広間の向こうに転がる小さな鞠。わたしは呆然として立ち尽くす。もう言葉も出てこない。
「どうした? 早くとってこい」
「……はい」
もうこれはイジメだわ。嫌がらせなんて生ぬるいものじゃない。れっきとしたイジメよ!
渋々取りに行きながらいつ爆発するかも分からない感情をぐっと押さえ込んだ。
落ち着くのよわたし。これを耐えれば鬼に手を出される事は無いんだから。鞠を手に取り、鬼のところにまた戻る。
「どうぞ。紅の鬼様」
乱暴な物言いにならないよう努めて丁寧に言う。これが最後でありますように。もうくたくただわ。
「よし、良い子ダナ。それじゃあ飯にでもするか」
紅い鬼が鞠を後ろへ放り投げる。やっと終わった。かれこれ小一時間ぐらい鞠を拾っては鬼に渡すという作業を休まず続けていたのだ。
これが現代服ならともかく、動きにくい着物のせいで余計に重労働だった。
「鈴音こい。飯にするぞ」
鬼が自分の膝を叩いてわたしを呼ぶ。それを見てわたしは内心、盛大な溜息を吐いた。額に手をやろうとしたが寸でのところで我慢する。
耐えるのよ。我慢するのよ。いつもの事じゃない。自分に言い聞かせながら大人しく鬼の傍らに立つ。が、やっぱり嫌だ。どうしても慣れない。
駄目かもしれないけれど言ってみよう。
「あの鬼さ……いえ鬼様。やはり同じ席でお食事を頂くのはどうかと思うのですが」
「それを決めるのは俺ダロウ?」
「でも――」
「つべこべ言ってないでさっさと来い!」
口調が厳しくなり、仕方なく鬼が本気で怒り出す前に傍に寄る。紅い鬼は当然のようにわたしを膝の上に座らせ、髪を撫で始めた。これには何度されても慣れることはなく、ぞわりと鳥肌が立った。もう嫌だと何度思ったんだろう。まさかこんな屈辱的な毎日を送るだなんて全く予想してなかった。
「そら、今日もご馳走カナ」
何匹もの赤い鬼が豪華な朝食を運んでくる。二人分にしては多すぎる量の食事。それらが目の前に次々と並ぶ。
赤い鬼達は料理を運び終えると、わたしに怪訝な顔を向けながら出ていく。そんな目で見ないで欲しい。なんだか居た堪れない気持ちになる。
「腹が減っているだろう」
わたしの気持ちも知らないで鬼は手で直に餅らしき物を摘み上げると、わたしの口の前に持ってくる。
「これはウマいぞ。食え」
「……」
俯いて餅から視線を外す。口元が強くひきつり、ふるふると震えた。
食べたくない。お腹は減っているけれど食欲がない。
「鈴音っ」
叱りつけるような鬼の声。すぐ傍で妖しい紅が鋭く睨む。
やっぱりこの目だけは苦手。息が苦しくなる。諦めて重い口をこじ開け、鬼の餅を受け入れた。
「ウマいだろう」
鬼が見守る中、何度も噛んでようやく飲み込む。それから頷いて「美味しいです」とぎこちない微笑みを向ける。
「ソウカ。それは良かっタ。もっと食って体だけでも大人になれよ」
満足げに笑って鬼も食べ始める。それを横目で見ながら、下に隠してある両手をぎゅっと握りしめた。
あぁっもう我慢できないっ。こんな屈辱的な毎日はたくさんっ。確かに鬼に喰われる心配は消えたわ。だけど毎日毎日犬のように扱われてセクハラ紛いなことをされ続けるのはうんざり!
手のひらに指が食い込むほど強く握りしめる。
「鬼さん」
我慢できなくなったわたしは、紅い鬼に声をかけた。せめて食事くらいは普通に食べたい。きちんと座って鬼の手からではなく、箸を使って食べたかった。
鬼はちらりと目だけわたしに寄越す。深紅の瞳には硬い表情をしたわたしが映っている。
「わたし――」
「誰が喋って良いと言ったカナ?」
低い声に遮られる。鬼は食べるのをやめず料理を食べているが、目だけはわたしを捉えたままだった。
「そんなに俺に従えないカ?」
鬼が顔をわたしに向ければ、二つの紅がわたしを縛った。瞬間、全身石にでもされたみたいに硬直する。噴火寸前だった憤りは萎縮して恐怖に変わる。
「従いにくいんなら、記憶を奪ってヤルぞ。そのほうがお前も苦しくないだろう」
片眉を吊り上げて固まるわたしに言った。
……なんて馬鹿な事をしたんだろう。普段軽薄にしているからといって、目の前にいる紅い鬼は恐ろしい存在に変わりないのに。
「すいません……」
謝り、頭を下げる。たとえ屈辱的だとしても、鬼に飼われている立場を耐え抜かなければわたしは鬼から身を守れない。屈辱に耐えるか、鬼を受け入れるかのどちらかしかわたしには選択肢がないのだ。
鬼は黙ってむしゃむしゃ食べ続けていたが、一通り食べ終わるとわたしの着物の裾を掴んだ。
「その柄の着物も飽きたナァ。新しい物をやろうか」
着物はこの間新調したばかりなのに。起きる度に違う着物を着せられていて、未だ同じものを着たことがない。
「いえ、この前新しい物を頂いたばかりで」
ぎろり。妖しい紅に凄まれ、言いかけていた言葉を飲み込み黙る。
『その言葉が聞きたいんじゃない』
そう鬼の目は言っていた。
仕方ない。
目を伏せて頭を垂らし、「ありがとうございます」と、わたしは中身の無いお礼を言った。
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白い格子の向こうにまた格子。そのまた向こうには闇夜に浮かぶ紅い月。
籠にもたれ掛かりながら、その月を眺めていた。
本来だったら今頃引越しも終わってバイトでもして、向こうで友達の一人でも出来ていたのかな。アパートもやっと見つけた物件だったのに。
こつんと頭を格子に軽くぶつける。月の灯りで畳に薄っすら縞模様の影が連なり、わたしにも同じように影がかかる。
言うんじゃなかった。
忘れるなんて……言うべきじゃなかったんだ。
目元が熱いと思った時にはわたしは泣いていた。涙が頬を伝って流れ、裾に滴となって落ちる。
後悔したって遅い。今更だわ。奥歯を噛んで鼻で肺いっぱいに空気を吸い込む。両手を握りあわせて息を吐くと共に、そこへ額を落とした。
いつまでこの生活が続くのかしら。一生? 死ぬまで? それとも永遠に?
考えてまた後悔する。恐ろしい事なんて、思い浮かべるものじゃない。自分を追いつめるだけだわ。髪をかき上げようとして手に何かがぶつかる。
あぁ、そうだった。忘れてた。鬼につけられた髪飾り。鼈甲の雀が翡翠の豆を咥えている綺麗な髪留め。頭の後ろで長い髪を束ねている。
本当に、飼われているみたいね。鬼が投げた鞠を拾いに行って、食べ物を鬼の手から直にもらい、毎日着せ変えられて。今度は芸でも仕込まれるのかしら。
自嘲気味に、苦笑しながら指先で涙を拭った。
「鈴音」
呼ばれて顔を上げる。肩越しに振り返った先に、紅い鬼がいた。いつの間に籠に入ってきたの? 鬼は疲れた表情を隠せないでいるわたしに手招きをした。
「酌をしてくれ」
今から? 気が遠くなり頭を抱える。いっそのこと畳に倒れ込んでしまおうか。
「どうした? 疲れたのか?」
鬼が傍らにしゃがみ込んで、わたしの前髪を撫でた。
「なにも疲れる事なんてしていない筈なんだがナァ」
鬼が不思議そうに首を傾げるのを見てわたしは憤慨した。
えぇ鬼さんはそうでしょうね。鬼さんは何一つ疲れることなんてしてないんですからね!
こっちは起きてからすぐに鞠拾いして、ご飯もゆっくり食べれなくて、しまいに毎晩鬼さんに抱き枕代わりにされて満足に眠れなければ、そりゃ疲れもするわよ!
……なんて。そんな事わたしに言えるはずもない。
ナーバスになっているせいか暴力的な物言いが浮かんでしまい、自己嫌悪から知らず知らずため息を吐いてしまう。
「帰りたいか?」
「え?」
突然なにを言いだすんだろう。なんの脈力もなく、そんな事を言われても眉を寄せるしかなかったけど、次の瞬間すごい不快感に襲われた。
「帰りたいのか?」
まだ言うの? 澄まし顔にむっとして口を結ぶ。
わたしだってそこまで馬鹿じゃない。ふざけているわ。
「えぇ勿論そうですが。でも叶いませんから」
絶対に帰りたいなんて言わない。でも「いいえ」とも言いたくない。誰がこんなところに居たいだなんて言うものですか。ふいっと顔を背ける。
「お前は懲りないナァ」
鬼の大きな手がわたしの顎を鷲掴みにし、無理矢理視線を合わされる。
嫌だ。見たくない。反射的に目を閉じて紅から逃れる。
「従順になったかと思えば、隙を見て噛みつく」
闇しか見えないなか、鬼の紅い言葉が響く。怖くなるけれど目は堅く閉じ続ける。
「鈴音は面白いナァ。実に飽きない」
前触れもなく耳元で囁かれ飛び上がる。跳ねた肩をぐっと押さえ込まれ額と額が合わされる。
なにがしたいんだろう。身じろぐ度に鬼の角が髪に触れて頬に垂れる。
「しかしまぁ、いつまでもつカ」
ククっと肩を揺らして笑い
「見物だナァ」
耳に吐息がかかる距離で、静かに囁いた。
いつまでもつか。正直わたしも同じ事を考えていた。
わたしの正気はいつまで持つんだろう。わたしもいつか、かつての親友のようにこの常闇に魅せられて正気を失ってしまうのかしら。
恨まず憎まず落ち込まず。
そんなこと、わたしはずっとこの先続けることが出来るのか。鬼に飼われながら耐える事なんて出来るのか。目と鼻の先で笑う鬼に屈することなく、この朝の来ない世界で生きていけるのだろうか。
わたしには自信がない。どう歯を食いしばっても、終わりのない闇に耐え続ける自信なんて無かった。それに懸命に強がる心もその望みとは裏腹に、今にも紅い鬼の妖しさに負けて手折られそうだった。
「鈴音、喜べ」
額から鬼が離れるのを感じ、薄っすら目を開ける。鬼は既に立ち上がりわたしを見下ろして気味悪く笑っている。
なにを喜べって言うんだろう? 嫌な予感を感じつつもわたしは眉を寄せて鬼を見つめ返した。
紅い鬼は腕を組むと牙を覗かせて深く笑んだ。
「お前を今から外に連れ出してヤル」