五ノ怪
深く息を吐けば少し気持ちも落ち着いてきた。冷たい指先をさすりながら閉じていた瞼を開く。
相変わらず疲労感はまだ残っているけれど、酷いものはともかく、震えがやっと収まった。ちらり籠の入り口を確認するが鬼の姿はない。まだ迎えには来ないようで少しだけ緊張が解ける。
確かお祝いがどうのって言っていたけれど。具体的に何をするのか気になる。……例え特別待遇だとしてもわたしは出席したくない。
薄着のせいか寒い。腕をさすろうとしたけれど、先程まさぐられた感触が蘇って身震いする。そして軽い吐き気も。
わたし、どうなるんだろう。
あの紅い鬼からは逃げられない。でも何か考えなきゃ。じゃないと……
……じゃないと。
「…………」
あぁ、駄目! 弱気になっちゃいけないわ! また不安に押し潰されそうになる自分を叱咤し、首をぶんぶん左右に振る。
大丈夫。必ず良い案が浮かぶはずだわ。それに食べられたり、殺されなかっただけマシだと思わないと。
……でも。それでもあんな事は二度と御免だわ。
乱暴されるんだと思った。殺されるんだと思った。本当にもう駄目かと思った。とても、とても怖かった。
目頭が熱くなるのを我慢して大きく息を吸い込み、天井を仰ぐ。自分を見下ろす白い格子がぼんやりと滲んで見える。
初めて来た時はわたし、どうしていたんだっけ。こうして泣きそうな気持ちを押さえつけて、強がっていたんだったかな。
傍らに無造作に置かれている紅葉の長襦袢を手に取る。闇夜に広がる鮮やかな紅葉たち。それらを見やりながら溜息を吐く。
わたしはこれから紅い鬼と、この世界と、どうやって付き合っていけば良いんだろう。考えるだけ考えても無駄なのかな。大人しく従って、流されるしか方法はないのかな。
結局名案が思い浮かぶことは無く、ただ籠の中で溜息ばかり吐いていた。
先のことなんて、全く分からないのだから。
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空気が動いた気配がすると、紅い鬼が籠の入り口を開けこちらを覗き込む。闇に浮かび上がる紅にわたしは怯えた表情を無理やり仕舞い込み、背筋を伸ばした。毅然としないと。
でもその気持ちとは裏腹に両手が震えだす。わたしはそれを隠すように握り合わせ、なんとか顔を上げた。
「ナンダ。泣いているのかと、思っていたんダガ」
意外そうに、けれども笑みながらわたしの前に紅い鬼が立った。
「泣いていても仕方ないですから」
澄まして答えるも、内心声が震えないよう堪える。今度こそ冷静でいないと。でなければわたしが怖がれば怖がるほど、紅い鬼のペースに持って行かれてしまう。最悪先程の続きだ。
「それはつまらんナァ~」
隣に乱暴に腰掛け、わたしの肩を抱き寄せる。びくっと肩が跳ねるがすぐに平静を装う。怯んじゃだめよ、わたしっ。
紅の瞳がまた舐めるように見つめてくる。そんな気色悪い目で見ないで欲しい。居心地が悪くて距離をとろうと正座していた足を崩すが、鬼はそれでも肩を離さない。
まさかこのままさっきの続きなんて事は、ない……よね?
「あ、あの。鬼さん。お酒は、飲まれないんですか?」
咄嗟に鬼が酒好きだと言うことを思い出し、話題を振ってみる。このまま黙っていても良い方向にいきそうもない。お願いだから食いついて!
「酒……カァ」
紅い鬼が一瞬、わたしを視線から外した。わたしは希望の糸口が見えた気がして、縋りつくようにすかさず紅い鬼に口を開く。
「お酌しますから、飲みませんか? お酒」
「ほぉ、鈴音。ずいぶん可愛い事を言うようになったナァ。それじゃあ酌をしてもらおうカ」
ぺろりと紅い舌が鋭い牙の間を縫って出る。鬼は立ち上がり、わたしの腕をとって立つよう促す。大人しくそれに従えば、足下の長襦袢を拾い上げわたしの肩に羽織らせた。
取り敢えず今は喰われる心配はないみたい。
鬼に促されるまま黙って従い、籠の出入り口に向かって歩きながら、鬼に見えないようこっそり小さく安堵の息を吐いた。
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なにこれ……。
だだっ広い大広間。煌びやかな襖に囲まれたその場所で、派手な着物を着込んだ魑魅魍魎が和楽器を奏で、料理を運ぶ。畳の上に直に置かれているお皿には、極彩色の料理。それが部下と思われる妖怪たちの前に整列している。
こんなに大人数の妖怪が揃っているなんて聞いてない……。
現実味があまりにもない光景に立ち尽くす。
こんなところでお酌なんてしたくない。生きて帰れそうにないわ。ううん、それ以前に今現在でさえ生きた心地がしない。
久しぶりに見た妖怪たちで完全に後込みしているわたしの腕を、紅い鬼がぐいぐい引っ張って大広間に入っていく。騒いでいた妖怪たちが紅い鬼の姿を確認すると、手をついて頭を下げた。ちょうど時代劇でお殿様が御成になるシーンと重なる。
まさか生の殿様サイドでこの場面を見ることになるなんて思わなかったわ。呑気にもそんなことを心中呟いてしまう自分に呆れた。もしかしたらこの場で自分がこの宴のメインディッシュにされてしまうかもしれないのに、何を考えているんだろう。
紅い鬼は一段上に置かれた肘掛けに座ると、呆気にとられているわたしを乱暴に横へ座らせた。おかげで盛大に尻餅をつく。……お尻が痛い。
「さてお前等。今日はめでたい。俺の飼っていた雀が戻ってきた」
鬼が自慢げに言ってわたしの頭をぽんぽん叩く。
ちょっと痛いっ! 嫌がろうとしたわたしだったが、たくさんの魑魅魍魎の視線が一気に集まり、瞬時に固まる。一つ目二つ目三つ目と、様々な数の目玉がそれぞれ不気味に光ってわたしを凝視する。ただでさえ薄着の着物の上に、鬼の長襦袢を羽織っているだけの無防備な格好。恐怖に恥ずかしさも合わさって俯いた。
「今宵は無礼講。好きなダケ騒げ!」
紅い鬼の声を合図に、妖怪たちが歓声を上げて立ち上がる。あっと言う間に広間が騒々しくなった。各々手にお酒を持ち、食事をかき込み始める。和楽器の演奏者も軽快な音色を奏で始めた。
わたしは落ち着かないでいながらも、一部の妖怪たちが騒いでいるのを目にして渋い顔をした。すでに右側の子鬼と狸は箸で皿をこれでもかというぐらい叩いて、奥から二番目の河童と一つ目坊が座布団を投げあっている。無礼講にしても最初っから羽目を外すのはどうかと思う。なんて光景なんだろう。
「おい鈴音」
「え……ひゃっ」
頬に冷えたものが押しつけられ、飛び上がる。真横を見れば鬼がわたしにキンキンに冷えた酒瓶を突きつけていた。
「酌。してくれるんダロウ?」
鬼を見、酒を見て受け取る。すごく冷たい。手がかじかみそう。
指先が冷えきる前にお酌をしてしまおうと、鬼の持つ盃に酒を注いだ。紅い鬼は満足そうに満ちた酒を眺め、ぐいっと飲み干す。赤銅色の喉が動くと盃が鬼の唇から離れた。
「あぁ~うまい酒ダナァ」
堪らんと唸り、口端に付いた水滴を舐めあげる。真っ赤な舌が不思議な模様に覆われた横顔をなぞった。
なんでだろう。
気味の悪い舌。嫌いな紅い鬼の顔。なのに妖艶にみえる横顔。形のよい眉に唇。無骨だけれども整った輪郭。
これも妖術かなにかのせいなのかしら。それとも早くもこの世界の妖気にあてられたのかしら。紅い鬼を美しいと感じるだなんて。
不安に似た感情が沸き起こり、長襦袢を胸元に寄せる。
わたしは大丈夫なのかしら。まだ正常な感覚を持っているのかしら。そう思いながら騒ぐ妖怪たちを眺め続けた。
宴が始まってから幾らか時間が過ぎると、目の前の光景は更にすごい状態へと変わっていった。紅い鬼のお酌をしつつも、大広間で酔い騒ぐ妖怪たちにわたしは何度も口を開けては閉めてを繰り返す。
なんというか。荒れ果てたというか。
歌を歌って騒ぐ妖怪もいれば箸で皿を回したり、手掴みで料理を食べたり、そこらで寝ている妖怪もいる。徳利や瓶がそこかしこに倒れて綺麗に盛られていた料理は見る影もない。
う~ん。本当に滅茶苦茶だわ。テレビでサラリーマンの年末特集でこんな画をみたことあるけれど、ここまでひどい光景だったかな。無礼講にしたって限度があるでしょうに。
呆れながら眺めていたわたしの目の前に、お酒の入った盃が差し出される。
「鈴音、お前も飲め」
「えっ」
お酒を飲め? いきなりの要求に慌てて首を左右に振って断る。
「いえ、私は飲めません。まだお酒を飲める歳ではないので無理です」
「ここではそんな屁理屈は通用せんゾ。飲め」
顎を掴んで無理矢理口に盃を押し当てる。
お酒のきつい香りが鼻をつき、やめてと言おうとした口に液体が流れ込んできた。少量にも関わらず、口の中が燃えるように熱くなり思わず咳き込む。
「もう、やめて下さいっ」
「鈴音は酒が弱いナァ~」
もしかしてこのお酒強い? すごく……頭がくらくらするわ。おまけに目も回る。
一口にも満たない量なのに手先まで赤く染まった。お酒が強いのか、わたしがお酒に弱いのか。目元と顔が熱くなったのを感じ、揺れる意識を必死で支える。
「ナンダ。もう酔ったのカ?」
肩を抱き寄せられ、頭に鬼の胸が添えられる。反応が鈍ってはいるが、わたしだって自分の状況がどうなっているくらいは分かる。コントロールのきかない腕で精一杯鬼の胸を押して体を反らした。するりと鬼から体が離れる。
「よしてください……」
熱い指の感触が気持ち悪い。ぼやけた口調で紅い鬼に呟く。
鬼はわたしにお酒を飲ませる際に手にこぼれた滴を舐めとり、ふらふらになっているわたしをしばらく眺めていた。
なんでそんなに見るんだろう。酔ってる人間が珍しいのかしら。なににしたって決まりが悪い。……そして気持ち悪い。よ、横になりたい。
わたしが限界に達するのも秒読みになったとき、おもむろに紅い鬼は立ち上がると何度か手を叩いて声を上げた。
「よし。宴はここまでカナ。さっさと散れ。酒は置いてけよ」
しっしと猫でも払うように手を動かす。妖怪たちは鬼の勝手な解散命令に文句も言わず、どこか調子外れな返事をすると各自帰り支度を始めた。あちらこちらから寝ている妖怪を起こす声が飛び交う。
「お開きですか?」
それなら少し横になりたい。できればお水も飲みたい。
傍らに立つ紅い鬼を見上げて、わたしは重くなりつつある瞼を擦った。
「あぁ。そうダ」
すぐ目の前に紅い鬼が立ったみたいで逞しい足の甲が視界に現れる。それをぼんやり眺めていたら、身体が急に浮き上がった。
え、な、なに?
自分が浮いたのか落ちたのか一瞬ワケが分からなくなるが、鬼の大きな背を見下ろす格好になったので、自分が鬼に担がれたのだとようやく気づく。
「鬼さん……」
痺れる唇を動かすけれど言葉が続かない。なにを言おうとしたのか、忘れてしまったのだ。
だめ……起きなきゃ。
でも、眠い。すごく眠い。お水が飲みたい……。
初めてのお酒に完全に飲まれてしまったわたしは、そのままなにも言わず暴れず、大人しく鬼に担がれたまま大広間を後にした。