十四ノ怪
胸がざわつく。彼の背中がいつかの彼女の背に見えてくる。
だめ。行ってはいけない!
「ねぇ、待って!」
歩き進もうとした青年を引き止める。
青年はわたしの声に立ち止まってくれたけれども、振り返ることなく僅かに顔をあげた。
「本当に、どうもありがとう。……助けようとしてくれて。でも月子さまに会わす顔なんて僕にはないんだ」
消え入りそうな声と寂しい後姿。嫌でも昔見た小さな背中に、より一層重ねてしまう。
焦りが胸に滲む。
「でも月子さんは、お父さんがあなたを追い出してしまって、それからずっとずっとあなたを心配して泣いていたんだよ! だから――」
「月子さまはとてもお優しい方だ」
上げた声にぼんやり、青年が空を仰ぐように顔をあげる。空は相変わらず星も見えない。ただ紅い月がわたし達を見下ろしているだけ。
「僕のような者の為に、お屋敷を後にしただけというのにそのお心を痛められて。それなのに僕のせいでお父上様の手を汚させてしまい、お優しい月子様の胸を更に痛めてしまった。……その結果がっ」
最後のほうは言葉を詰まらせて彼の綺麗な手が拳を作った。嗚咽を堪えているのか拳と同じく肩が小刻みに震えている。
青年は後悔しているんだ。自分の存在によって親子の仲が悪くなり、父親は殺人、娘さんは自害へ手を染めてしまった。だから彼は自分を許せないんだろう。だけど……。
わたしはゆっくり彼に歩み寄ってその背中を見つめた。
「……ねぇ清一郎さん。月子さんは、あなたが死んだから後を追ったの。月子さんもあなたのこと大好きだったんだよ?」
彼のまとっている空気が変わる。常闇の生ぬるい風がわたし達の間を通り抜けた後、ぎこちなく青白い影が振り返り、信じられないと言いたげな、蒼く揺れる瞳がわたしを見つめ返す。
「月子……さまが?」
「うん。月子さんのお父さんがあなたを追い出したのも、あなたに想いを寄せる月子さんの気持ちに気づいたから。そしてあなたを忘れるように月子さんを座敷牢に閉じ込め、月子さんの清一郎さんの想いを断ち切るために崖から励ますあなたを殺した。月子さんはそれを見て、死んで清一郎さんと一緒になりたくて首を吊ったの」
「ま、まさか月子さまが」
更に見開かれた眼が驚きと困惑で溢れている中にどこか生気に満ちている気がして、わたしはちょっとだけ安堵を覚え、頷いた。
「月子さんはあなたのこと大好きで、一緒になりたかったの」
青白い顔にほんのわずかに赤みがさしてより生きた人間らしさがみえた。わたしは知らずに手を胸に当てる。それから思い出して、丁寧にたたんでおいた紙を懐から取り出しそっと青年に差し出した。
「これ、崖の下で落ちていた紙なんだけれど、あなたの楽譜なんでしょう?」
あの後、帰ってきてから何が書いてあるのか鬼さんに聞くなりして調べてみた。字がぼやけているから難航したものの、なんとか楽譜だということが分かって、すぐに青年のものだと気づいた。
「初めて会ったときから気になっていたんだけれど、あの曲、いつも同じところばかり弾いていたから。字は滲んでいるけれど、これがあればその先を弾けるんじゃないかと思って。……ぜひ月子さんに聞かせてあげて? きっと喜ぶから」
戸惑いがちに彼が楽譜を受け取る。ゆらゆら揺れる蒼い眼差しが楽譜の上をすべり眺め、今まで強張っていた表情が和らいでくすっと笑みを零す。
「ありがとう。まさか子供達にねだられて教えた楽譜が、こんな形で読めるだなんて」
字が書けない村の子供達が青年に琵琶を習おうと、月子さんにお願いして楽譜を作ってもらったものだと青年はわたしに話した。
「朧村で月子さんは未だにあなたを想って泣いてるの。清一郎さんが行かないと、月子さんはずっとあのままだよ? これ以上彼女を悲しませないで、涙を止めてあげて」
青年はわたしを見て、それから楽譜と琵琶へと眼を移した。
まだ彼は迷ってる。仕方ないなぁ。
「あなたが会いに行かないと、彼女はずっとあそこで泣いていることになるよ! それとも、このままずっとずーっと一人で泣かせておいて、彼女が永遠に不幸のままで良いと思ってるの?」
「そんなことは」
「じゃあ行きましょう!」
一瞬だけ眼を丸くした後、ようやくわたしの言葉に青年がすこし照れたように頷いて笑った。わたしもホッとして思わず笑みを返す。
「サァ~テ。話はまとまったカ?」
傍らに居た鬼さんが琵琶を手で弄びつつ、わたしと青年の間に入ってくる。そういえば鬼さんずっとそばで居たんだ。忘れてた。
「お前はアチラにいく決心は着いたんダナ?」
「はい」
青年が意を決したようにこくりと頷く。
それに対して鬼さんが片方の口端を吊り上げて鼻で笑う。
「で? お前もソレで良いんだな?」
ちらりと今度は意地悪そうに歪められた目と口がわたしに向けられる。
なによ。わたしはムッとした顔を隠さずに鬼へと睨み返す。
「当たり前じゃないですかっ」
「それじゃあいよいよ……大詰めといこうカナ」
鬼さんはそういうと片手でくるんと琵琶を回し、地面へ落とす。
そして容赦なく、蒼い鬼の琵琶を粉々に踏み潰した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夜明け前の闇。まだ空が白む前の廃れた村。
かつての繁栄も今は見る影もない屋敷の奥に浮かぶ美しい影。
名前と同じく白い月と同じ色をした月子さんはまだ泣いている。
「清一郎さま……ごめんなさい……ごめんなさい」
痛ましい姿なのに、とても綺麗。初めて青年をみたときと同じように、その幻想的な姿に溜息が出てしまう。
大丈夫。もう泣かなく良いんだよ。だって――
妖しい、けれども優しい旋律が彼女を励ますかのように漂って彼女を包みこむ。
どんなに声をかけてもあれだけ見向きもしなかったのに、涙で濡れているであろう顔を隠している両手がピクリと動いて、ゆっくりと顔をあげた。
「清一郎、さま?」
灯篭でみた時の顔よりも弱々しい顔が覗いた。その儚げな表情は生きていた面影がない程、人間とは思えないくらいゾッとする美しさが見て取れる。
彼女の眼は虚ろで目はまだぼんやりとしているけれども、聞こえた旋律に、僅かに瞳に光が宿ったように思える。
「月子さま」
青年がわたしの体からゆったり離れる。
手には青年が埋められたところから探し出した琵琶。青年の琵琶は壊れていたものの、青年がひと撫でしたら琵琶も応えるように壊れた自身から抜け出し、その存在が霊体となって彼の手に寄り添ったのだ。
「大変永らくの間、お待たせ致しました」
蒼い鬼の呪縛から解けた青年。月子さんと同じように足元は陽炎のように揺らめいている。
完全な霊体となった青年がしっかりとここへ辿り着けるようにわたしへと憑依させて、なんとか無事彼女の元へ辿り着かせられることができた。
少し具合が悪くなったけれども、今驚きの表情を浮かべている彼女を優しく見つめいてる青年を見て、胸に安堵感が広がる。
「えぇ……ずっとずっと、お待ちしておりました」
月子さんが嗚咽を堪えるように青年の優しい眼差しに頷くと、ふわりと花びらが舞うような仕草で青年へ近寄り、彼の存在を確かめるように綺麗な手を青年の腕にそっと添える。
「月子さま。やはりお心と同じようにお美しいお姿。このように間近で眼に移すことが出来る日が来るとは、思っておりませんでした」
愛しげに彼女の長い髪を撫でる仕草は大事な琵琶を奏でる様と同じ。彼女の手が添えられているほうの手で、何度か撫でた後、彼は頭を下げる。
「……気の遠くなるほどの時を、お独りでお待たせして申し訳ございません」
「いいえ、いいえ。清一郎さまにお会いになれるのでしたら、例え岩が小石に変わるほどの年月さえも、苦になどなりません」
透き通るような声が震えながら寄せた腕に消えかかりながら、もう一度「お会いしたかった」と呟く。
青年も腕に縋る彼女を、もう蒼くない瞳で優しく見下ろして琵琶を持っている手で、その小さな背へと添える。
「ありがとう」
彼がわたしを見て微笑む。
いつの間にか格子の向こうが、蔵の隙間という隙間から、朝陽が零れ始める。
「ありがとう。やっと逝ける……」
優しい笑顔が朝陽に消える。泣いていた月子さんも、消える間際に顔を上げて深くわたしに頭を下げた。
二人が消えたあと、妖しい旋律が余韻を残すようにあたりに響いて、静かな朝に染み渡って柔らかく消えていった。
その村で、もう悲しい声が二度と流れることはなかった。
そして常闇でも、妖しい旋律が流れることは二度となかった――