十三ノ怪
「おい」
声に振り向けば鬼さんが仁王立ちで腕組しながらわたしを見下ろしている。
「さっさと行かないとうるさいヤツ共がここに来るゾ?」
確かに壁の向こう側が騒がしい。複数の足音が慌しく行き来している音が聞こえてくる。早くここから出て行かないと。
「行きましょう」
未だ呆然としている青年にそっと声をかけると、青年は肩を跳ねさせ、ぎこちない動きでわたしへ顔を向ける。
「しかし……」
「あーっ! ごちゃごちゃ煩いカナ!」
言い淀む彼に鬼さんが声を上げた。
「いいからとっとと来いっ! 行くゾ!」
鬼さんは叫ぶと青年の傍らに置いてあった琵琶を引っつかんだ。そして大股で格子窓へ近寄り、鋭い爪を何度か往復させて文字通り格子をぶった切った。
「おい!」
「は、はいっ」
妖しい紅に睨まれて反射的に返事をしてしまう。
「ソイツ連れてこっち来い」
「分かりました」
頷いて不安そうにしている青年に向き直る。
「ね、色々分からない事だらけだと思うけど、とにかく時間がないの。今はとりあえず付いて来て!」
釈然としない顔を浮かばせているけれど、青年は頷いて立ち上がってくれた。
彼の足元を見れば青白くて細い足が見える。幽霊なのに足があるんだ。それとも青年の気持ちがしっかりしてきて、また体がはっきりしたんだろうか。
疑問に思いながらも青年がついて来てくれているのを横目で確認して、言われたとおり鬼さんの前に並んだ。
「よし。ここから飛び降りる」
「え! ここからですか!?」
「アイツ等まとめて始末しても良いが、面倒カナ。ここから出てった方が色々都合が良い」
窓の向こうをちらりと見ると砦をぐるりと囲う底なしの暗闇が見返している。まぁたとえ吊橋の向こうの地面が見える場所に飛び降りることが可能でも、かなり高さがあるから無事では済まないのだとは思うけれど。
ゴクッと喉が鳴る。
「さすがにジジィの部下皆殺しにしちまったら俺も何かと面倒なんでナ」
「別に皆殺しにしなくても……」
「あのナァ~、加減するのはかーなーり! 面倒なんだゾ。分かってるのか?」
さっきから鬼さん「面倒」しか言ってない……。でも鬼さんはそもそもこんな人助けを嬉々としてやってるわけじゃないし、面倒を連発するのも仕方ないか。わたしとの約束の為なんだし。
わたしはそれ以上抗議せず鬼さんの傍らに立った。それを了承したと受け取って鬼さんがわたしをいつものように担ぎ上げる。
「おい」
鬼さんが青年に声をかける。顔を上げた青年になにかを呟いてニヤリと笑った。青年は一瞬驚いた表情をして、それから俯くと彼もまた何かを呟いた。
なんて言ったんだろう。外が次第にうるさくなってきたせいもあってうまく聞き取れない。
「あの、今なんて」
「さて行くカ」
わたしの声を遮って、足で乱暴に先程切った格子を蹴り払い、鬼さんは肩にわたし、小脇に琵琶を抱えて窓へと足を掛けた。
うわぁ……。
視界がぐるりと変わり、視界いっぱいに底なしの暗闇が広がる。体が外へ乗り出した状態から改めて下を見るとさっき窓の外を覗いた時より数倍高く感じる。下から生ぬるい風が舞い上がり、前髪をかき上げ、背筋やお腹の底がビクビク痙攣する感覚がより恐怖を煽った。絶叫マシーンが平気なわたしでも血の気が引いてしまう。
完全に尻込みしているわたしとは裏腹に鬼さんはあっけなく飛び降りた。
一気に暗闇に向かって急降下する意識と体。あの内臓が浮き上がって空中に置いて来てしまったかのような独特な感じが襲ってくる。落ちるスピードは当たり前だが止まらない。暗闇の向こうに地面は見えてこない。
このままだと底なしの堀に落ちるだけだ。鬼さんはどうするつもりなんだろう。
落ちる速度と比例してわたしの恐怖心も増していく。もうすぐはね橋のむこうの地面が近づいてくるが、ずっと向こうだ。
「鬼さんっ!」
恐怖に耐え切れなくなって思わず叫ぶ。
閉じかけた目が、広がる地面から地平線に変わり、そしてただの崖の側面へ変わったのを捉える。もう視界には地面は映らず、ただ風化した岩の壁と、背後に目があるなら砦の土台が見えるだけになった。
もう先のことを考えるのが怖くなった。鬼さんがこれからどうするのかも分からず、ぐっと鬼さんの肩にしがみついて目を閉じる。
いきなり体に突き上げるような感覚が走った。思いもしなかった衝撃に胸やお腹が苦しくなり、軽く吐き気を覚える。わたしが状況についていけず、目を白黒させている間にも何度も大きく左右に体が揺れた。
頭がくらくらする。これ以上揺さぶられると本当に吐きそう!
もう我慢できないかもと思った時、急に体が前のめりになって揺れが収まった。
「ふぅ。こんなものカナ」
鬼さんの声が聞こえたと同時に肩から下ろされる。まだ揺れている感覚が抜け切らない体に、どっしりとした地面の感触に安堵感を覚え、知らず知らずのうちに深く息を吐いてその場にうずくまった。
本当に、本当に死ぬかと思った。
「おいおい。休むには早いカナ。すぐに場所を移すゾ」
顔をあげて鬼さんが目配せする先を見ると、飛び降りたと思われる窓のひとつから何人もの声が飛び交って騒いでいる様子がみえた。灯りを手に持っているのか、ぼんやりとしたものが大きく小さく窓際を照らしている。
「とりあえず俺の縄張りまでいくカナ。そこまで行けばうるさくもナイだろう」
鬼さんの言葉に頷いて体を起こす。まだ体がふらふらするけど、いつまでもここでのんびりしているわけにもいかない。せっかく無事に脱出できたのを無駄にしてしまう。
ここに来た時に近くの岩陰に牛車を隠していった。車を引いている牛はやはり普通の牛ではなく、目が四つあり、足元にぼんやり浮かぶ水色の鬼火を灯している恐ろしく足の早い牛だった。ただあまりの猛進ぶりに乗り心地は最悪。車酔いしたことがないわたしでも何度か酔いしそうになったほどだった。
でもあれに乗っていけばひとまずは安心して――
「あ! 青年は!?」
慌てて辺りを見回して青年の姿を探す。そういえば、鬼さんはわたしと琵琶を担いでいるだけで青年のことはほったらかしにしていた。肝心の青年が居なかったら意味がない!
「安心しろ。きち~んとツいて来ているカナ」
「でもどこに?」
「呑気に話を聞いている場合カ?」
グッと口をつぐんだわたしに鬼さんがこっちだと手招きする。大人しく後をついて大小大きさの異なる岩達の陰に入っていく。わたしからしたら同じような岩ばかりで見分けがつかないのだけれども、鬼さんは迷いなく進んでいく。朧村の時といい、鬼さんは記憶力がいいのかな。それとも鬼とか妖怪にしか分からない目印でもあるんだろうか。
急いでいるのもあって早足気味で鬼さんの背中を追っていけばようやく拓けたところに出て、中央に鼻息荒く足を鳴らしている真っ黒な牛と漆で黒光りした車がいた。
牛はわたしを見つけるなり“ばはぁ”と威嚇の意味を込めた鼻息を噴出して四つの目でわたしを睨んでくる。……わたしは牛の妖怪にまで嫌われているのね。
軽くへこんでいるわたしの首根っこを鬼さんが掴み上げて車の中へ押し込む。盛大にお尻を打ったわたしの膝に青年の琵琶が投げ込まれて慌てて受け取る。
「よし。出せ」
いつの間にか乗り込んできた鬼さんが合図をだすと、すぐさま車が動き出す。徐々に早くなるなんて事はなく、いきなりの急発進のせいでわたしは一度だるまのようにころんと転がり、わたわたとしながら手近な場所に掴まった。
「ど、どれくらいで着きます?」
「以前連れて行った宴の場所に行くつもりダ。屋敷よりは場所が近いから行きよりかは早いカナ」
ガタガタ激しく揺れるのにも関わらず平然と喋る鬼さんのセリフに少しだけ安心する。早く着いてくれないと、まだ窓から飛び降りた時のショックが残っているわたしに、この最悪な環境は辛すぎる。
ぶれる視界に涙目になりながら青年の姿がないことに不安を覚える。本当に着いて来ているんだろうか。でも鬼さんだってあそこまでしておいて青年を置いてきてしまう理由はないはず。わたしはただ黙って目的地に着くまでこの拷問的空間を堪えることに集中した。
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「う゛~ん。頭が痛い……」
脳みそをシェーカーでシャッフルされたみたい。頭がガンガンする。
着いて早々、地面に突っ伏してしまいたくなる衝動に襲われるがなんとか堪えながら琵琶を片手に車から降りる。
「琵琶を貸しナ」
わたしの返事を待たずに鬼さんがわたしの手から琵琶を抜き取る。しげしげと眺めてふむと唸ると、長い指で弦をはじいた。聞き慣れた琵琶の音が辺りに静かに響く。
「ジツに良い音ダ」
「ありがとうございます」
聞こえた声に驚いて振り返ると、鬼さんの影から出てくるように青年が姿を現した。
いつの間に……。
思わず目を見開いて彼を凝視してしまう。
先回りしてた? いや、いくらなんでもそんなこと出来ない。じゃあ車の外に掴まっていた? いや、なお更無理な話だ。たとえ彼が幽霊だとしても、そんなこと出来るとは思えないけれど。
「さてさて。いよいよこっからが本題カナ」
適当な岩場に腰を下ろしながらどこか面白そうな口調で、鬼さんは腕組をしつつ青年を見た。
「そこのボウズを常世に送るわけダガ」
「確か蒼い鬼の呪いを解かないとダメなんでしたっけ」
青年に掛けられている呪いは、蒼い鬼がなにかしらの物を媒体に使って幽霊の彼を常闇に縛り付けているものらしい。鬼さんはいつも身に着けているものじゃないかと以前言っていたけれど……。
そこまで考えてふと鬼さんが手にした琵琶が目に入る。もしかして。
わたしの視線に気がついたのか、鬼さんはニヤリと笑って「気づくのが遅いナ」と鼻を鳴らした。
「それじゃあ早くその琵琶を壊して青年を、清一郎さんをあっちに送ってあげましょうよ!」
これでやっと青年は常闇から解放されて月子さんと一緒に天国に行くことが出来るんだ。興奮気味のわたしをよそに、チラッと意地悪そうに上目遣いで鬼さんが青年に目を向けると
「お前はどう思っている?」
と、悪戯っぽく意味ありげに首をかしげた。
「そんなの決まってるじゃないですか!」
わたしは鬼さんのその小馬鹿にした態度に鼻息を荒くしながら鬼さんに詰め寄った。
「こんなところに居たい人間なんているわけないです! その琵琶が蒼い鬼の呪いの元凶なら早く壊して月子さんのところへ」
「……いけない」
ぽつり、蚊の鳴くような声が耳に入ってくる。
青年のほうを見ると、青年はうなだれて首を左右に振った。
「いけない。月子さまを死に追いやったのは僕だ。そんな僕が……月子さまになど……」
そう呟くと罪悪感と混乱で憔悴しきった青年は、今にも崩れ落ちそうな様子でふらりとわたしに背中を向けた。