表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖しい旋律  作者: 月猫百歩
黄泉への道標
52/56

十二ノ怪


 深い、凍てつくような寒さが掴まれた腕に染み渡ってくる。冷え冷えとした、哀しい、苦しい、底なしの闇が侵食してわたしを蝕む。

 これは絶望なんだろうか。それとも深い悲しみ? 後悔? 心の奥底まで凍えそうになる負の感情がじわじわと、恐怖を感じる間もなく毒のように広がってきた。

 縋るような気配がよじ登って喉元に寒さを覚えた途端、紅い影がわたしを寒さから引き剥がした。

 大きな手がわたしの腕を鷲掴みにし、乱暴に彼から離させると、鋭い爪先が青年めがけて伸ばされた。


「待って!」


 寸でのところで鬼さんの着物の裾を強く引く。息をするのも忘れて青年を見やれば、青年は鼻先にある鬼の爪にも、変わらず蒼く揺らめく眼を見開いたまま呆然としていた。

 良かった。怪我はしていない。安堵の息を吐いてから、わたしはすぐさま鬼さんへ目をやる。


「呪いのせいで正常じゃないだけなんですよ。こんな乱暴、やめて下さい!」 


 もちろん助けてくれたことには感謝をおぼえたけれど、あっさりと青年に害をなそうとしたことに憤りを感じてしまう。鬼さんは本当に乱暴すぎる。青年は一応死んでいるのかもしれないけれど、万が一ということもあるでしょう。もし鬼さんの一撃で青年が消滅なんかしたらどうするの!


「コイツは手遅れカナ。正気なんてもう小指の甘皮ほどもナイ。この場で楽にしてやれば良い」


 鬼さんはわたしの非難の視線にそっけなく返してきた。わたしがキュッと口を結ぶと、やれやれと言いたげにわざとらしく首を左右に振って肩をすくませ、その鋭い爪を袖の中へひっこめた。

 まだ大丈夫。手遅れなんかじゃない。手に力を込めながらわたしは青年に向き直った。


「ねぇ、聞いて?」


 あらためて青年の前に膝を突いて顔を覗き込む。両目の蒼い光は、頼りげのないかがりみたいでゆらゆら妖しく燃えていて綺麗だ。切羽詰った状況なのに思わず見惚れてしまいそうになる。


「わたし、あなたのこと助けに来たの。何も覚えていないって言っていたけれど、あなたは鬼に惑わされてここに連れてこられた。本当にいる場所はここじゃないの。……思い、出せない?」


 聞こえていないのか、言い終えた後も青年の表情は変わらない。何か変化はないかと注意深く青年の顔を眺めるが、やはり無表情のままだ。


「今は思い出せないかもしれないけれど、なにも心配いらないから。一緒に来てくれればもう辛い思いはしなくて良いんだよ!」


 興奮してしまって前のめり気味になるけれども、青年は人形のように頑なに動かない。

 なんだかじりじりと焦りが出てくる。いつまでもこうしていられないのに。


「とにかく時間がないから一緒に行こう。早くここから移動しないと追っ手が来ちゃう。さ、立って!」


 ここでモタモタしていたら最悪、蒼い鬼本人が来てしまうかもしれない。そしたらいくら鬼さんでも強行突破なんて真似はできないだろう。早いところここから出て行かなければ。

 急いたわたしは青年の冷たい腕をとって腰を浮かした。


「行かない」


 ぼそっとした、けれども重圧感のある声が薄っすらと開いた口から零れる。聞こえた声に目を向ければ、青年の表情はそのまま無く、そして彼の口が動く気配もなく声が響いた。


「ここにいる。ここにいなくてはならない。願ってはいけないことを願ってしまったから……琵琶を弾かなければいけない」


 腹話術でも使っているみたい。唇一つ動かしていないのに声だけが耳に届いてくる。

 今の口ぶりだと、まるで見たいと思ったことが悪かったとでも言いたげだ。蒼い鬼になにか吹き込まれたんだろうか。


「もう弾かなく良いんだよ! ここから出て行けば」


「弾かなくてはいけないんだ!」


 罵声が部屋中に反響する。空気が振動して肌や鼓膜にビリビリとした感覚が波のように広がって、青年の姿が青白く滲んで輪郭がぼやけた。そこでわたしは、彼がやはりもうすでに亡くなっているんだと、何故だか改めて実感してしまった。

 彼はもう一度、けれども今度は蚊の鳴くような声で「弾かなくてはいけないんだ」と言葉を繰り返した。

 蝋燭のようにゆらめく姿は、肩を落として今にも消えてしまいそう。見ていてとても弱々しく痛々しい。


「あのね、わたし、朧村に行ってきたの」


 わたしは努めてゆっくり言い聞かせるように、穏やかに切り出した。


「そこであなたが経験したことを見てきた。とても辛かったと思う。……あんなことになって」


 大好きな人に突然会えなくなったこと。それから会いに行ったこと。死んでもなお、月子さんに会いたかったこと。そして願ったことで、皮肉にも大好きな人の死を見てしまったこと。


「見たくないところを見てしまって傷ついたのも知ってる。蒼い鬼になんて言われたのかは知らないけれど、でも、見たいと願ったことは悪いことじゃないし、あなたはなにも悪くないんだよ?」


 そうだ。青年は何一つ悪くないんだ。なのに鬼の道楽の為に、思い出すことのない苦しみや悲しみに囚われて、終わることのない、延々と続く辛い想いを抱える必要なんてないんだ。


「見たくない。そう、見たくないんだ。琵琶を弾けば、ただ弾いていれば良い。何も考えずに、思い出さずに……それで良い。どうせ生まれついて見えないんだから。見たのは、願ったのは間違いだったんだから」


「闇に呑まれちゃダメ! 辛いことから逃げてここにいたって、なんにも解決しないよ! ずっとずっと辛い気持ちを抱えて、見て見ぬふりをしたっていつまでたっても辛いままで」


「目なんて見えない。そう、僕は目が見えないんだ。仕方ないじゃないか。もう二度と目が見ることなんてことはないんだし、目が見えないんだから僕は」


「見えたって見ようとしないくせに!」


 今度はわたしの罵声が響いた。思った以上に声が張りあがって耳に自分の声がこだまする。

 今まで微動だにしなかった青年の顔が僅かに動いた。両目の蒼い光が徐々に影を潜め、虚ろげな瞳がわたしを映す。

 ハッと気づけば、興奮してわたしの肩はいかり、息は乱れていた。つい、血が上って暴言を吐いてしまった。反省と共にふぅーっと息を吐いて力を抜く。それから青年に顔を向けて、わたしは静かに口を開いた。


「ごめんなさい怒鳴ったりして。だけど、落ち着いて話を聞いて? ……わたし、朧村に行ってきたの」


「朧……」


 青年は呆然とした溜息交じりの声を漏らした。今度はきちんとわたしの言葉が届いているみたいだ。

 ほっとしながら、わたしは話を続けようとまた口を開いた。


「そこでね、月子さんに会ってきたの。話すことは出来なかったけれど、月子さん、ずっとあなたのこと、清一郎さんのこと待っていたよ?」


 青年の顔が強張った。わなわなと震えながら、壊れた人形みたいな動作で顔をぎこちなく向けてくる。


「今、なんて?」


「……わたし月子さんに会ってきたの」


「え? 会った……?」


「会ったといっても会話したわけじゃないけれど」


 一度目を伏せてまた彼に向けると、わたしは意を決して深く息を吸った。


「月子さんはずっと、今も朧村で泣いているの。……あなたを想って」


 脳裏に浮かぶのは哀しげに泣く女性の姿。

 自ら命を絶ってまで会いたかった人はおらず、苦しんで、悲しんで、一人ずっとずっと終わらない後悔と自責の念に苛まれていた彼女。


「彼女は……月子様は……亡くなられて……」


「うん。首を吊って死んでしまった」


 わたしがそう言うと青年はみるみる顔を歪ませ、呻き声を漏らしながら頭を抱えた。


「あぁ何故あんなことをされてしまったんだろう。せっかく……せっかく……お姿を見ることが出来たのに……どうして」


 青年の顔は苦悶に顔を歪めて、手の甲に筋が浮かび上がるほどぐっと胸元を握り締める。

 ……言うのが辛い。口にするのを躊躇って唇に力が加わる。でも、言わないと。言って青年に向き合ってもらわなければ解決しない。


「あのね。月子さんは、あなたのあとを追ったの」


「……追った?」


 少し間があってから青年が問い返す。意味が良く分からないと言いたげに眉を寄せて、顔を上げる。


「あなたが死んでしまって、その瞬間を月子さんが見てしまって。それで月子さんは……首を吊ったの」


 口にしてずしりと胃が重くなる。

 結局月子さんが死んでしまったきっかけは青年の死に変わりはない。そう改めて告げているような気分だ。


「……死んでいる? 僕が?」


 青年の顔がますます曇る。理解しがたい、なにを言っているんだとその顔は言っている。


「月子さんを励まそうとして崖で琵琶を弾いたでしょう? その時に、月子さんのお父さんに背後から襲われて、そこから転落したの。……あなたは死んでいるの」


 月子さんの死だけでなく、自分自身の死を知らなければいけない。それがたとえどんなに残酷な現実でも、恐らくこれを見て見ぬ振りをしていては、常闇から抜け出せたとしても月子さんのようにこの世でさまよう事になる。確信は無いけれど、わたしはそう思って正直に告げた。

 青年は俯いてゆっくりと首を左右に振りながら呟き続ける。


「死んでいる……僕は死んでいる? 死んでいるのか?」


 居たたまれない気持ちになってわたしも俯く。なんて声をかければ良いのか分からない。

 彼は告げられた事実を反芻しているのか、それとも否定しているのか。何度もゆっくりと頭を左右に振り続けた。

 そして青年が何度目かの呟きが聞こえた頃、部屋の外が騒がしくなってきた。















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ