四ノ怪
壁にゆらゆら揺れる影。薄暗かった部屋は赤々と照らされ、隅々までよく見えるぐらい明るい。
部屋の中央には燃える鬼火。わたしは目の前で燃える衣服を前にして、紅い鬼に押さえつけられていた。
「なんてことをするの!」
鬼火の中で次第に小さくなる服。引っ越しの為にパーカーとジーンズという汚れても良い服だったけれど、今のわたしにとっては大事な物。元の世界との唯一の繋がり。それが今、目の前で燃え上がっている。
こんな事になるなら、片時も離さなければ良かった!
鬼が着替えろと薄着の着物をわたしに寄越してきた。大人しく従い、着替え終わったところを紅い鬼にわたしの着ていた服を取り上げられ、止める間もなく燃やされたのだ。
「もう用はないダロウ?」
服は丸められた紙屑ほど小さくなり塵も残さずに燃え尽きていく。
ひどい……。あんまりだわ。呆然と服と共に消えた鬼火があった場所を見つめた。放心状態のわたしに鬼は笑いかけてくる。
「お前の望み通りアチラでお前を知る者はもうイナイ。着ていた服ももうナイ。鈴音、お前は二度と俺から逃げられないカナ」
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真っ暗な部屋に真っ白な和鳥籠。昔わたしを入れていた白い鳥籠。紅い鬼同様、その骨のような格子は今も変わっていない。わたしはその中で身体を震わせていた。
鬼がわたしを見る目。獲物を見るような瞳だった。昔はともかく、今ならその視線の意味が分かる。だからこそ怖い。
どうしたら良いんだろう。先程から溜息が止まらない。もう家には帰れない。この世界の住人になるしか道はないんだろう。それでも鬼に弄ばれて死ぬのは嫌だ。
「憂いているのカナ?」
格子の外から声をかけられる。ぎくりとして振り返ると、黒地に紅葉が映える長襦袢を掛けた鬼が格子の向こうに立っていた。
「着るモノならいくらでも俺が与えてヤル。そう気落ちすることないカナ」
着る物が無くなったからわたしが落ち込んでいると思っているの? 本気で? もしそうだとしたら、わたしには鬼の神経が理解できそうもないわ。
震える手を膝の上で握り合わせてそこに視線を落とす。落ち着かない指が何度もお互いを絡ませている。
竹がしなる音が鳴り、鬼が格子の中へ入ってくる。揺れる紅葉に思わず身構えた。紅い鬼はそれを見て、クッと八重歯を覗かせる。
「そんな風に焦らされたら、喰いたくなるナァ」
「焦らしてなんて……してないです」
面白そうに眺めてくる鬼になんとか声を絞り出して言い返す。ここで怯んだら駄目だ。
折れかけている心を奮い立たせるが、やはり心許ない。いくら強がろうとしてもわたしの恐怖心は黙ってくれない。なかなか震えの止まらない自分の体に苛立ち、下唇を噛む。
「そーかぁ。しかしお前はどんな味がするんだろうナァ~。さて、試してみようカナ」
「え……」
不穏な気配に思わず立ち上がる。鬼はニヤニヤ笑ってゆったりとこちらへ歩んでくる。
いや……来ないで……。
肩に力が入り、無意識に着物の襟を握りしめる。辺りを見回すがすぐに無駄だと思い知った。
逃げるにしてもどこにも逃げ場なんてない。この籠から、この世界から、この鬼から。わたしに逃げ道なんてないんだ。
鬼が腕組みをとく。
少しでも離れようとしたわたしの顎を素早く掴みあげ、露わになった首筋に紅い舌をずるりと這わせた。
「いやっ」
一瞬にして背筋が凍り、鳥肌が立つ。
嫌だっ。気持ち悪いっ。
堪らなくなり手で鬼の胸を押すがすぐに押し返される。背中に鬼の手が添えられ、そのまま格子の壁に押しつけられる。
「やめてっ」
「ほう鈴音。ずいぶんイイ声で鳴くようになったじゃナイカ」
見下され、鼻で笑われる。喜々として細められた紅が残虐性を帯びて不気味に光った。鋭い牙が覗く端正な唇が、肌に触れるか触れないかのところを口から胸元にかけてゆっくりなぞられる。
鎖骨に鬼の髪が触れる。吐息がかかる。鬼の勿体ぶった行為にますます恐怖心を煽られ、息をするのもつかの間忘れてしまう。
怖いっ。誰か助けて。
そんなことを思いながら、知らず知らずのうちに紅葉の胸元を恐怖から握りしめた。
「お前にはもう俺しかイナイ。抗うだけ無駄カナ」
自分の心に答えるように、わざわざ耳元にそっと唇を近づけて低く囁いた。舌で耳の輪郭をなぞり、そのまま甘噛みしてくる。
「お願いだからやめてっ」
以前紅い鬼はわたしにこんな事はしなかった。少なくとも、そういう目で見ていなかったのは確かだ。だけど、今は完全に自分の欲望をぶつける対象としている。
「俺を忘れようとしたコトを後悔したカ?」
鬼が背中に回した手でわたしの腰を掴み、乱暴に横へ引く。
ぐらりと視界が回れば体半分に衝撃が走る。
「だがもう遅い」
畳の上に投げ出されたわたしに跨り、紅い鬼が首筋を貪る。鬼の真っ赤な舌が這い回るたびに背筋がぞわりとする。
「いやっ離して」
嫌だ。怖い。やめて。
嬲られたくないっ。食べられたくないっ。殺されたくない!
鬼の身体をしつこく押し返すが意味はない。ただ紅葉の着物が乱れるだけでなんの効果もなく、足をバタつかせても同様に鬼はただ笑うだけ。
「喜べよ鈴音。また俺に飼われるんだからナァ」
顎を掴まれて強制的に視線を合わされれば、深い三日月が牙を覗かせて笑っていた。
震えて泣くわたしに紅い鬼は肌着の中までは触れようとはしてこない。でもそれは、きっとより自分が楽しむ為なのだろう。ただ身体を肌着の上からまさぐり、露わになった肌にひたすら舌を這わしてくる。
「やめてっ。嫌っ! やめてえぇ!」
わたしは目を閉じて、ひたすら泣き叫んだ。
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「飼われている実感が沸いてきたカナ?」
どれくらい時間が経ったか分からない。気がついたら、わたしはただぎゅっと両目を閉じて自身の襟を掴み続けていた。鬼はわたしから身体を離し、自分が羽織っていた長襦袢をわたしに投げた。感触の良い布地が自分に覆い被さる。
「楽になりたかったらいつでも言えよ鈴音。記憶を消してやるからナ。そうしたら思う存分恍惚に浸らせてヤロウ」
身体の線に沿って鬼が芋虫のように身体を丸めているわたしを撫でる。その間もわたしは身体に力を入れ続けた。もうなにも考えられず、そうしているのがやっとだった。
「さぁて。これからお前が帰ってきた祝いでもするカァ」
そう言って勢いよく立ち上がり、うんと伸びをした。鬼が首を回したようで小気味良い音が聞こえてくる。
わたしはそっと目を開いた。薄暗い壁に紅い鬼の影が映る。
「鈴音。準備が整い次第迎えに来てヤルから、その間大人しく待っておけよ」
壁の影が屈むように動く。すると頭に大きな手が置かれ、くしゃくしゃ髪を撫で回された。わたしはそれを振り払う気が起こらず、呆然とされるがまま影を見続けた。
「じゃあナ鈴音。楽しみにしていれば良いカナ」
畳を踏む音が遠くなる。格子のしなる音が聞こえ、わたしの意識も静かに遠のいていった。
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籠の中。鬼が去った後にいるのは肌着姿の自分。このままではいつか鬼に全て奪われ、いつしか自我を忘れて自分も物の怪になってしまうだろう。
鬼は怖い。でも鬼に従うのは嫌。鬼に喰われるのはもっと嫌だ。
あの紅い鬼の言う通り助けはこない。自分を守れるのは自分だけ。
……元々覚悟していたはずだった。いつかは鬼が連れ戻しにくるんだとついこの間まで信じていたんだから。それが緩んだところを連れ去られただけのことなのに。
じわりと目尻に涙が溢れる。未だに震える指でそれを拭うと、いくつもの言葉で自分を奮い立たせ、しっかりしろと言い聞かせる。
泣いていても仕方がない。今出来ることを考えなきゃ、あっという間に命が尽きてしまう。諦めちゃいけない。
畳の上に力なく置かれた自分の青白い手。それを弱音や絶望を握りつぶすかのようにぐっと握りしめた。
きっと何か良い方法が必ずあるはずだわ。絶望するのはまだ早い。
よく考えれば何かあるはず。
あるはずよ……。