六ノ怪
妖怪達の寂しい後姿を見送った後、大通りをまっすぐ歩いていく。砂や瓦礫を避けながらしばらくすると、大きな屋敷に辿り着いた。
「うわぁ……」
上から見下ろした時よりも威圧感を感じる。所々傷んで雑草に侵食されている様は、常闇とはまた違った不気味さがあった。半開きになっている鎧戸が風に遊ばれて鳴いていて、先の見えない暗闇からは立ち込めた空気がどんより漏れていた。
冷や汗が頬を伝った。ふぅと息を吐いて汗を拭ったとき、手が震えているのに気がつく。やっぱりいつになっても、こういう感覚には慣れなくて怖い。
「さ~て、早いトコ幽霊女を見つけるカナ」
鬼さんは臆することなくずんずん玄関口まで歩き、立て付けが悪い扉をこじ開けた。やっぱり場慣れしているのか、この雰囲気を気にしている様子もない。鬼さんは怖くないのかな……。
「ふむ。中は思ったほど朽ちていないみたいダナ」
上を向かせた手の平から、紅い鬼火を出して中を窺う。体を斜めにしてあちこち様子を見た後、わたしに来いと手招きした。
わたしは頷いて胸の前に拳を作りながら恐々と屋敷の中へ入っていった。
中はカビ臭くて木が湿った匂いで充満していた。月の光が届かない暗闇では、さすがに暗さに慣れたわたしの目でもまったく見えない。隣を見上げれば闇に浮かぶ紅い目がきょろりと辺りを見回していた。
「離れってどこでしょう?」
わたしの問い掛けに鬼さんはふーむと顎を撫でながら唸ると、唐突に暗闇に向かって腕を伸ばした。なにかの悲鳴が上がり、驚いてわたしも一緒になって叫ぶ。
「な、なんですか!?」
闇から戻された鬼の手には、小さなガリガリの妖怪が手足をばたつかせながら、鬼の手から逃れようともがいていた。鬼さんがぐっと力を入れてしめつけると、観念したかのようにぐったりとその妖怪は脱力した。
「ちょっと鬼さん」
「安心しろ。殺してはイナイ」
本当に大丈夫なのかな。小さな妖怪に視線を落とすと、妖怪は恐る恐る鬼さんを上目遣いで見上げて怯えていた。
「離れへの案内を頼みたい。出来るナ?」
妖怪は激しく何度も頷いて暗闇の奥を指差した。鬼さんはわたしに「行くぞ」と目で促して歩き出す。
屋敷の中は広くて迷路のようだ。途中で天井や壁が崩れて通れない場所を、小さな妖怪の道案内で迂回しながらも迷うことなく進む。
鬼さんの説明によれば、この小さな妖怪は廃墟などに住み着く小妖怪で、人に悪戯することはあっても大きな害をなすことはないらしい。
きっと今まで平和に(かどうかは分からないけれど)暮らしていただろうに。乱暴な鬼さんに捕まってとんだ災難だろうな。
目の前で鬼さんが足を止めた。何か見つけたのかな。わたしは身を乗り出して立ち止まった大きな背中の向こうを覗き見た。
中庭、と思われる場所。月明かりに照らされて雑草やツタに侵食されているのに、それでもなお幻想的に浮かび上がっている和庭園が目の前に現れた。
まだ人々の活気があった頃には、以前見たことのある鬼さんの和庭園に負けないくらい立派な景色がそこにあったんだろう。軽く眼を走らせると、庭の隅に古い作りの蔵がある。あれが離れだろうか。
「どうやらアレらしいナ。よし、行って良いカナ」
鬼さんが手を開いたと同時に小さな妖怪は転がるように紅い手の平から離れ、また屋敷の闇の中へ逃げていった。
「あそこに月子さんがいるんでしょうか」
「さあな」
明かりを消し、つれない返事をして鬼さんが歩き出す。わたしはその後に続いて蔵へと足を進めた。
何歩目か歩いた頃だった。蔵の、鉄で出来たと思われる扉の手前まで来て、わたしは不意に足を止めた。
……聞こえる。
泣き声。女性のすすり泣く声が。
「あの……もしかして、月子さん?」
蔵に向かって声をかける。が、返事がない。
「す、すいません!」
もう一度、今度は大きめの声で呼びかけてみる。が、やっぱり返事は返ってこない。
どうしようか。蔵に入ってみようか。
悩んでいたわたしだったが、結論を出す前に鬼さんが動いた。
鬼さんが片手を扉にかざして一度唸った後、何か呟いた。鬼さんの顔に広がる模様がぐにゃりと歪んで蛇のように蠢く。それから牙が覗く口で、声を漏らさずになにかを唱えた。
「あ……」
驚くわたしの目の前で、長年雨ざらしになっていたせいか、鉄の扉がひどい重低音を響かせながら重い口を開けた。中からいやに冷えた空気と、先程より鮮明な女性の泣き声が直にわたしの肌をなぞり、反射的にわたしの身体がぶるっと震えた。
そう、この寒さに覚えがあった。青年の時と同じ、じわりと凍えるような冷たさ。
この中に月子さんがいるんだ。
ふっと息を吐いてわたしは中へ足を踏み入れた。中は屋敷と同じで梁や柱が折れて、視界を悪くさせていた。
泣き声は上から聞こえてくる。天井を見上げ、階段と思しき物を見つけるが、崩れていてわたしがいる階までは届いていない。
「目当てのヤツは上にいるみたいダナ」
背後から鬼さんの声が聞こえた。
「そうですね。でも階段が――ぅわっ」
視界が回ってがくんと自分の身体が前へ折れ曲がった。一度地面が近くなり、それから浮上感と共に地面が大きく離れた。
鬼さんがわたしを担いで二階へジャンプしたらしい。それにはもう慣れたけれど、こんなボロボロな状態で着地する時は大丈夫なんだろうかと一瞬ひやりとしたが、わたしの不安に反して、乱暴な鬼さんがしたとは思えない静かな着地に床の埃が少し舞うだけだった。
「私が……ごめんなさい……せい……ちろ……さ……」
鬼さんに降ろされた時、女性の呟きが聞こえた。指先が次第にかじかむのを感じつつ、声のほうへ視線を投げる。
壁や格子が崩れる部屋の中央。お椀や着物が散乱とした中に一人佇む白い半透明の女性。
「月子さん?」
窓の格子から差し込む月光でより儚く美しく浮かび上がる彼女。両手は顔に当てられていて顔は見えない。もう一度「月子さん」と声をかけてみたものの、泣いてばかりで一向にこちらに気づく気配は無い。
「あの、すいません」
気づいてもらおうと近づいた。その瞬間に何かが頭を掠め、何かを見た気がした。でもそれはやはり一瞬のことで、強い寒気に襲われ、わたしは堪らず後ずさりして彼女から離れた。今のはもしかして……。
「何か感じたのカ?」
「はい。一瞬だけ」
また傍に行けば何か見えたかもしれない。でも寒さに呑まれそうでそれ以上彼女に近寄れなかった。どうしようか。
「ならいよいよコイツの出番カナ」
鬼さんはいつの間にか手に持っていた例の灯篭、想間燈をわたしに投げた。慌ててそれを受け止めて鬼さんを見上げる。
「どうやって使うんです?」
「持ったまま女に近寄れ。なに害はナイ」
ごくりと唾を飲み込んで灯篭と彼女を見る。
よしっ。わたしは一度頷いて灯篭を抱えながら再度彼女に近寄った。
月明かりに浮かび上がる彼女。両手を顔で覆って俯き、ひたすら泣いている。時折謝罪の言葉を口にしながら。
なにを謝っているんだろう。青年となにがあったんだろう。
頬や指先に伝わる冷たさよりも、その悲痛な声にわたしは胸が苦しくなった。そしてまた強い寒気に包まれた時、手に持っていた灯篭がぼんやりと灯り、やがてくるくると回りだした。
灯篭の明かりが一つの束となって青白い影となった彼女を手繰り寄せると、灯篭の明かりが消えて辺りの景色も真っ暗になった。
何も見えない。どうなってるんだろう。
不安になりながら周囲を見渡していると手元の灯篭がまた明かりを灯し始め、それと同時にあたりの景色も明るくなっていく。
「これは……」
目の前に広がったのはさっきまでいた朽ち果てた蔵の中ではなく、階段も崩れておらず、下を見れば埃一つ無い整理整頓とされた立派な蔵の中だった。
「酷いわお父様! なんて事をしたのです!」
「うるさい! これもお前の為だと何度言ったら分かる」
聞こえた声にハッとして振り返る。
そこには頑丈な座敷牢の格子越しに怒鳴りあう親子の姿だった。
「私が間違っていたのだ。お前が少しでも良くなればと思ってあの男を招いたのに……結局あいつもお前目当てだったのだ!」
「違います! 私が勝手に想っているだけなのです! 決して騙されてなどいません!」
「黙れ! 黙れ! あいつは二度とお前に近寄れぬよう屋敷から追い出した! いつか村からも追い出してやる。お前も目が覚めるまでここから一歩も出さん!」
牢の中で女性がわあっと泣き、その場にうずくまった。あれはきっと月子さんで、牢の前にいるのはお父さんか。
そっか。ここは蔵を兼ねた座敷牢だったんだ。
「月子……」
今度は怒ったようなものではなく、労りのこもった声で月子さんの父さんが彼女に語りかけた。
「お前は永嶺の娘だ。今まで身体も弱く苦労も多かっただろう。私はお前に然るべき男と結ばれて幸せになってほしいのだよ。その前に傷物にされてみろ。親が可愛い娘の将来を守るのは当然ではないか」
口にした月子さんへの言葉は、心の底から月子さんを思って心配するものだった。
白髪交じりで顔にも深い皺が何本も刻まれているのを見れば、このお父さんも相当今まで苦労してきたんだろう。きっとそれは月子さんの為にしてきた苦労も含まれているんだと思う。
「いずれ私がした判断に感謝する日が来る。しばらくここであの男を忘れる努力をしろ。私だって折角身体が良くなってきた娘をこんな所へ押し込めたくはないが、仕方がない」
消え入りそうな声と共に、手元の灯篭の灯も消えた。
そしてまた視界が真っ暗になるが、すぐさま灯篭がまた回り始め同じ蔵を映し出す。そこには涙しながら青年を思う彼女が、何日も、何日も。牢の中で過ごす日々をわたしに見せ続けた。
どれだけの日が過ぎたんだろう。ふと、泣いてばかりの彼女がハッとして俯いていた顔を勢いよく上げた。
この時初めて月子さんの顔を見た。とても綺麗な整った清楚な顔をして、女のわたしでも溜息が出るくらい美しい女性だった。
彼女はしばらく呆然としていたかと思っていたら、慌てたように格子窓へ張り付いた。
「あ……この曲……」
聞き覚えのある優しい旋律。青年の奏でる、あの妖しい琵琶の音。わたしは知らず知らずのうちに彼女の真横に立ち、誘われたように格子窓の向こうを見ていた。
外は一面の銀世界だった。薄暗い空の下、白い雪がなにもかもを隠している景色。すべてが白く染まる場所で、ひとつだけ染まっていない影が見えた。
「あぁ……!」
月子さんの感極まった涙声が聞こえてきた。
彼女を見てその潤んだ視線の先を追ってみれば、優しい微笑を浮かべた琵琶の青年の姿があった。
「清一郎……さ、ま」
震える声が零した名前、「清一郎」。これが青年の名前。青年らしい爽やかな、誠実な名前。頭の中で何度も反芻していると、自然と頬が紅潮してくる。うん、とても良い名前。
そうだ。彼は自分の名前を忘れてしまったようだったけれど、これで伝えることが出来る。それに彼を救う手助けが一つ出来たんだ。さっそく帰ったら青年に教えてあげないと。きっと喜んでくれるに違いないわ。
そう思ってもう一度青年を、清一郎さんをよく見ようと顔をあげた時だった。
本当に一瞬だった。
彼が見えない目を見開いて、顔を歪めて、崩れて、崖から転げ落ちる。
すべてが一瞬で。けれども永遠にも感じる長さで。
彼は崖に落ちていった。
「い、いやあああああああああ」
隣で月子さんの悲痛な叫び声と、崩れ落ちる音が聞こえてきた。
わたしは身体が動かなかった。喉が絞まって全身が硬直して、動けなかった。
崖の上には見覚えのある姿。
「お父様……どうして!」
憤怒の形相を浮かべた、月子さんのお父さんだった。