三ノ怪
抵抗し尽くしてもう暴れる力がない。大人しくなったわたしの口から鬼の手が外される。
酸欠状態の頭はクラクラしてそのせいで視界が回り、手や足は力尽きて重く感じる。
なんて頑丈な身体なの。かなり強く叩いたりしたのに、紅い鬼は全く動じなかった。
寧ろそれをニヤニヤ笑って見ていたぐらいだ。
疲れきったわたしを小脇に抱えたまま、紅い鬼は薄暗い廊下を歩いていく。明るい所から暗い場所にきたせいで、まだ目が慣れず物がはっきり見えない。
どこに連れていく気なんだろう。
暫くして、どこかの部屋に行き着いたようだ。
畳の上に降ろされうっすらと浮かび上がる四角い編み目に囲まれる。
もしかしてここは座敷牢?
呆けながらも辺りを見回すけれど、部屋の端に小さな蝋燭の灯があるだけでよく見えない。
――カタン。
木と木がぶつかるような音が響き、慌ててそちらへ顔を上げる。いくつもの小窓のような四角い編み目の向こうに紅い鬼の姿があった。
もしかして、わたし閉じこめられたの?
「出し、てっ」
叫びっぱなしだったせいで声がおかしい。三回ほど深呼吸をして唾を飲み込む。それからもう一度「出して」と格子の向こうにいる鬼に訴える。
「良いかぁっ鈴音!」
鬼の怒声に肩と心臓がそれぞれ跳ねる。
射殺さんばかりの紅に疲労感まで吹き飛び、全身の毛が逆立つ。
そんな怯えて小さくなるわたしを見下ろして鬼は唸った。
「俺が一人逃がし損ねたから譲歩してお前を一時的に戻したんダ。だが三人を確実に返した事をお前、忘れていないだろうナァ?」
「三人……」
あの時の一緒に捕まった同級生達。
中学の文化祭の日、たまたま一緒だった三人。確か男子二人に他のクラスの女の子が一人。
彼らは先に元の世界に無事に戻り、わたし達を捜していた大人達に発見された。みんな鬼のことなど話さず、まるで忘れてしまったかのように普段の生活に戻っていた。
彼らとは前から特別仲が良いというわけでなく、他のクラスの女の子は尚更。三年生になってからはクラスもバラバラになり、卒業してからは接点すらなくなった。
今では三人がどうしているのかさえ分からないでいる。
「あいつ等も美味そうに育ったナァ」
鬼の言葉にはっとして顔を上げる。
紅い舌をちらつかせながら、顎に手を当ててニヤリ笑い
「一人は丸々太ってウマそうだ。もう一人は鬼にして配下にするのも良いナァ。女はちょ~ど、食べ頃ダ」
さーっと顔色が青ざめるのが自分でも分かった。
鬼は三人をどうしようと言うの?
まさかまた連れ去る気?
震え上がっているわたしに細い紅を向け、猫のように舌なめずりする。そして更に目を線のように細めると
「お前がまだ帰りたいだの言うのナラ、契約を白紙にしてあの時の三人キッチリ奪うマデ」
低い、威圧感のある声でわたしに言った。
俯いて顔を強ばらせる。じわりと汗が額に浮き出る。
みんなそれぞれ今はどうしているのかは知らないけれど、わたしが紅い鬼を拒めば否応なく常闇に連れてこられるんだ。そしてそれから酷い目に遭わされるんだわ。
震える手で額の汗を拭い、そのまま顔半分を覆う。そうしたところで何かが変わることはないのだけれど、わたしはその姿勢のまま固まった。
どうしよう……
どうしたらいいの……
どれくらいの時間そのままにしていたのか。
紅い鬼はウンともスンとも言わなくなったわたしを鼻で笑い、この場から出ていこうと踵を返す。
だめ。行かせちゃいけない! わたしはぎゅっと口を結び、手を伸ばした。
「……待ってください」
「ナンダ?」
格子の間を通して自分の裾を掴んでいるわたしに、鬼が紅い目だけを寄越す。
「ごめんなさい。言うとおりにします。だから、そんなことしないで……」
裾を握りしめて、嗚咽をこらえながら「お願いです」と付け足した。
ぽとり。俯くと足下に水滴が落ちる。
それから顔を上げれば、鬼は口端を吊り上げて自らの裾を掴んでいるわたしの手首を優しくとってくる。
冷えきった肌に熱い指が被される。
「お前がい~ぃ子にしているんなら、何もしやしないカナ」
ゆったりとした動作で手首から顔へ紅い指をやり、頬を伝う涙を拭う。
「お前の名を今から完全に俺が奪う。ナニ心配するな。記憶もキチ~ンと消してヤルからナ」
「わたしじゃなくなる、の?」
紅い鬼はわたしの冷えた頬を片手で包み、親指で目元を撫でた。揺らめく紅の瞳が自分の目線に合わされる。
「お前は鈴音に戻るだけカナ」
わたしがパチパチと瞳を瞬くたびに涙が小さく跳ねる。乾いた唇を開け閉めした後、小さく頷く。
「分かりました……」
そう、蚊の鳴くような声で呟いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
暗い部屋で向き合う。
俯き暗い顔をしているわたしに、紅い鬼は見下ろして背中まで伸びたわたしの髪をしきりに撫でていた。
「さぁ、俺の瞳をよぉく見るんだ」
泣き腫らした目で鬼の瞳を見上げる。
泣きすぎたせいで頭が痛い。紅い鬼の両目が曇りガラスを通してみているかのようにぼやけている。
「お前の持っている名を捨て」
「鬼さん」
なにも分からなくなる前に、と鬼の声を遮ってわたしは口を開いた。
「ナンダ?」
鬼は儀式を邪魔されて不機嫌そうに片眉を上げる。
でも、言わないと。
「名前をとる前にお願いがあるんです」
「どうして欲しいンダ?」
苛立たしげに鬼は問う。わたしは気押されつつも鬼に向き直る。
「家族や友達から、わたしの記憶を抜き取って下さい」
「うん?」
意味が分からんと鬼は首を傾げる。
わたしは気持ちを落ち着かせるため、深く息を吸ってからまた鬼を見上げた。
「家族や友達は以前私がいなくなったときに、とても心配してくれました。母はやつれるぐらいに」
俯いた後、もう一度鬼に視線を戻し両手を結ぶ。
「だからみんなの記憶からわたしを消して下さい。わたしの存在をなくして下さい。それが難しいなら、わたしが何かの理由で死んだことにして下さい。お願いです」
行方不明となれば、みんなはわたしを何年も捜し続けるかもしれない。それなら死んでしまった方がみんなも諦めがつくだろう。
とても悲しいけれど、忘れられるのは寂しいけれど仕方がない。みんなをまた苦しめるわけにはいかないもの。
わたしは願いが聞き入れることを祈って、鬼へ深く頭を下げた。
「ふむ」
上から呟く鬼。相手の反応が気になり、ちらり見上げる。鬼は顎に手を当ててしばらく考えると何か思いついたのか。残忍に、けれども面白そうに口を歪ませた。
「そうだナァ。ただ奪うのもつまらんしナァ~」
不安げに見つめるわたしを一瞥すると、形の良い指でわたしの顎を上げた。
「今ならお前の記憶を奪うのは造作もナイ。それにアチラでお前を待つ者がいなくなればお前は完全に帰る道を失う」
そっと顎から指を離し、満足げに腕を組んだ。
「そうだナ、お前さんの記憶を奪うのはヤメテおこう」
「契約……しないんですか?」
良かった。ほっと胸を撫で下ろそうとするわたしだったが、そんなわたしに鬼はぐいっと顔を近づける。
「ただし名は貰うぞ」
反応するより早く、真正面にきた妖しい紅が煌めく。途端に津波のような恍惚に飲み込まれ、よろけて両膝を突く。
「う……」
以前よりも強く、今まで経験したこともない甘い霧に包まれる。じんと頭の奥まで霧が立ちこめ、痺れてなにも考えられない。
ぼんやりとしてなんだか気持ちがいい。骨まで蕩けるってこんな感じなのかな。
こんな感覚が永遠に続くのかしら。でもそれでも良いと、甘い波に飲まれながらぼんやり思った。
不意に湯船から上がった時と同じ感覚を覚えた頃、ようやく正気が戻ってくる。重い脱力感と喪失感。痺れる身体。
どうしたんだろう、わたし。
軽い記憶障害を起こしながら少しの間惚けていると、自分が立っていない事に気が付き、ふと自分が鬼にもたれ掛かっているのにも気がついて驚愕する。
「あっ!」
「どうだ?」
「……え?」
飛び離れたわたしに鬼が探るように問いかけた。
どう、って?
「名前は分かるか?」
名前? なにを言っているの?
一瞬意味が分からなかったけれど、ややあってからようやく理解し、混乱しながらも未だにふらふらする頭で応えようと口を開く。
「わたしの名前」
名前でしょ、自分の名前。分からないわけないのに。
当然のように答えを言おうとしたのだが……。
「なんで……?」
待って。落ち着いて。きっとボケたんだわ。
だって自分の名前なのよ。ついさっきまで呼ばれていたんだから。
「……」
ごくりと生唾を飲み込み、横顔に汗が伝う。
「どうカナ?」
「うそ、嘘でしょ」
わたし、なんで、自分の名前が分からないの?
鈴音という名前は分かる。でもお母さんが、お姉ちゃんが、みんなが呼んでいた自分の名前が分からない。なんで!?
「よしっ。これで良いだろう」
わたしの狼狽ぶりをみて鬼が満足そうに頷く。
「何をしたんですか?」
勢い良く顔をあげて、怖さも忘れて鬼に問いかける。
「何って、お前の名を奪ったんだ。他の奴らに横取りされないようにナ。記憶はそのままだろう?」
「名前を奪った? 名前だけ?」
「あぁそうだ。簡単に手に入れてはつまらんからナ。記憶は奪わずに徐々に徐々に落とした方が面白い。それに――」
わたしの首を軽く掴み、鋭い八重歯を見せつける。
「怯えたお前が見れなくナルのは惜しい」
舐めるような鬼の視線。
「これからが楽しみだな鈴音ぇ」
そう言って妖しい紅をより、不気味に煌めかせた。
前は見せたことがない熱を含んだ眼差し。いたぶるような眼光。
昔向けられなかったものを鬼は今、わたしにまっすぐ向けている。
その意味をわたしは分かっていた。紅い鬼の目から逃げるように視線を背けて身体を強ばらせる。
これからどうなるんだろう。なにをされるんだろう。ううん。そんなこと分かりたくもない。
結局鬼の視線の意味を理解出来たところで、もう震える事しかわたしには出来ない。何一つ抵う術なんて持っていないのだから。