十六ノ怪
あれから寒さに襲われることは二度となかった。
鬼さんが以前言っていた「ツかれている」って「憑かれている」という意味だったらしい。「疲れてる」と勘違いしてた。だとしたらあれは青年の記憶なのかな。でも記憶無いって言っていたし。思い出したんだろうか。
あの月子という女性は誰だったんだろう。名家のお嬢様っぽかったけれど。……青年と仲が良さそうだったな。
きっと彼女もわたしと同じで、青年に救われたんだろうな。最初は不機嫌そうな雰囲気でそれでもどこか寂しそうだったけど、青年と出会ってからは刺々しかった態度も柔らかくなって幸せそうだった。
白昼夢で子供達に囲まれ、青年の琵琶を聴いている彼女は嬉しそうに笑っていた。
なのに最後のほう、青年は苦しんでいた。
どうしてこうなってしまったのかと。あの女性と何かあったんだろうか。首を吊ったという言葉は月子さんを指しているのかな。だとしたらどうして首なんて吊ったんだろう。
青年もなぜ死んでしまったのか。彼女の死と関係がある、とか。
それに泣いていた子供達は誰を思って悲しんでいたのかも気になる。青年に対して泣いていたのかな? それとも月子さんに? 両方に?
はぁ。なんにも分からない。けど、でも、青年は今苦しんでいる。繰り返される悪夢に胸を痛めている。これだけは確かだわ。
どうにかして彼を助けてあげられないかな。このまま鬼に囚われたまま延々と琵琶を弾き続けて、出口の無い悪夢に苛まれるだなんて救いがなさ過ぎる。
その辛さはわたしもよく知っているもの。
今度はわたしが彼を助けてあげる番だ。青年がわたしと違ってここに残らなければならない理由がないなら、なんとかして鬼から解放することが出来るかもしれない。
独りよがりな偽善かもしれないけれど、苦しんだり悲しんだりしている事は決して良いことじゃない。苦しみを終わらせてあげたい。
「おや。嫌な匂いがすると思ったら。こんなところに臭い人間が一匹いたわ」
聞こえた声に飛び上がった。籠の向こうで灯篭の光が届かない闇が覗く。そこから衣擦れの音を連れていつかの花魁が籠の前に姿を現した。
うわっ、なんでここに嫌味花魁が! 鬼さんはこの花魁がここにいることを知っているの? またこっそり入ってきたとかじゃないよね?
「お前さん、泣いて泣いて拗ねて鬼様を困らせているようだね」
「は?」
いきなり何を言うの?
眉を寄せたわたしを文字通り見下しながら、花魁は言葉を続けた。
「まあなんて情けない。私の知っている人間はもっと根性があったね」
ワザとらしく金をあしらった扇子を音を立てて開き、自己主張の強い紅い唇を隠して、わたしにゴミでも見るかのような眼を向けてくる。
「嫌々ばかりで与えられた務めも果たさない。私はね、あんたより幼い人間が苦界に放り込まれて死ぬ気で生きてきたのを知ってるのよ。その娘らだって歯を食いしばって懸命に矜持も意地も、親元離れた寂しさも捨てて耐えてきたんだ。なのにあんたはどうだい?!」
吐き捨てるように言ってぴしゃりと扇子を閉じ、その先端をわたしに向ける。
「泣いてばかりで無い物ねだりして。少しは愚痴の鬼様のところにいる鬼姫を見習いな!」
愚痴の、鬼姫?
もしかしてみっちゃんのこと? みっちゃんを知っているの?
「それは――」
「まったく。どうして貪欲の鬼様もこんな辛気臭い甘ったれた娘をそばに置くのか。この籠だっておまえには勿体無い場所だよ! まったく鬼様も人間なんぞを飼って。さっさと下種の飯にでも慰みモノにでもなっちまえば良いのに」
な、なんですって! この人にそこまで言われる覚えなんてないわ!
わたしは花魁を睨み返した。
「好き勝手に言わないで! 好きでここにいるんじゃないわ! 鬼さんがあなたを相手にしないのはわたしのせいじゃない! わたしに文句を言う前に構ってもらえるように少しでも女を磨きなさいよ!」
「はっ生意気な小娘だねぇ。それに何を言っているんだい。お前がここにいることを選んで、友達とやらを助けたんだろう? 誰もお前にここにいることを選ばせたわけじゃないさ」
悔しくて唇を噛んだ。確かにここに残るのを選んだのは他でもない自分だ。何か言い返してやりたいけれど、頭に血が上って言葉が出てこない。
顔を赤らめたわたしを花魁が鼻で笑うと、格子の傍まできてひっそりと唇を寄せてくる。
「お前、想い人がいるんだって?」
「え?」
驚いて目を見開く。なんで花魁がその話を知っているの?
ぎょっとするわたしを面白そうに眺めた後、格子に長い指を絡めて花魁は目を細めた。
「籠の中では愛しい者にも会えないだろう。わたくしが開けてやっても良いけど……ただし約束して頂戴」
艶やかな紅が弧を描いてわたしに囁く。
「今後この屋敷に戻らず、貪欲の鬼様には近寄らないと」
「……え?」
「お前は想い人の所にでも行って、末永く幸せに暮らせば良いわ」
白魚の手が鍵を包み込むと金属音を響かせて鍵が外れる。花魁の指が格子を摘んで引き、入り口を開けた。
「さ、ここから出なさいな」
花魁は優しい手つきで手招きをしてわたしを誘う。
でもわたしは固まって動けなかった。花魁の背後から感じる穏やかでありながら不穏な紅い気配。
「この部屋には入るなと言っておいたハズだガ?」
刹那、花魁の顔が綺麗に凍った。僅かに目を見開き怯えが滲む。
けれど流石というか。すぐにそれは笑みの中に消えていつの間にか戸口に立つ背後の鬼へおもむろに振り返った。
「だってぇ、人間の世話を理由に散々私を振ったのですもの。意地悪くらいさせて下さいな」
「だから招いてやったんじゃナイカ」
「でもお酒だけじゃ酔えませんわ」
しなりと身体をくねらせて、甘い声が鬼へと向けられる。
鬼さんはやれやれとでも言いたげに溜息を吐き花魁へ近寄り、屈んだ。
鬼さんの端正な顔が煌びやかに咲いている花魁の簪たちの陰に隠れ……
って、ちょっと何やってるのーー!!
「ん……」
いやいやいやいや! 人の目の前で何してるの!? いちゃつくなら誰も見ていないところでしてよ!
あわあわているわたしをよそに、恍惚とした蕩けた花魁の声と結い上げられた頭の金銀が揺らめいたところで、ようやく鬼の顔が花魁の陰から離れ現れた。
「これで酔えただろう?」
鬼の口が深く笑みを刻み、花魁の耳元に寄せる。
「続きは俺が出向いた時に……ナ?」
「んもう、鬼様ったら。相変わらず意地の悪いお方」
鬼にしなだれながらくすくす笑う花魁。
……ひそひそ声でも目の前でされたらバッチリ聞こえているんですけれど。
「さぁ見送ってヤルから機嫌を直せ。また今度じっくり酔わせてやる」
「必ずですよ。常日頃、鬼様がお見えになるのをお待ちしておりますから」
「あぁ」
満足げに鬼の胸元に身を預けている花魁の肩を抱く紅い鬼。不意にこちらに目を向け、軽く睨まれる。
え? なに? なんで睨むの?
籠から出ようとしたとかなら怒られるのも分かるけど、わたしは何もしていない。睨まれる理由なんて何も浮かばないけれど。
その後、鬼さんによって出入り口は再度鍵をかけられ、紅い手に促されるまま花魁は(嫌味を置き土産に)帰っていった。
い、一体なんだったの?
二人が出て行った後、それ程時間が経っていないうちに鬼さんが戻ってきた。しかも機嫌が少し悪いみたいで荒々しく畳の上であぐらをかく。
「鈴音」
「はい」
格子越しに睨まれて自然と肩が竦む。何をそんなに怒っているんだろう。
「俺があの女と口付けしたとき、ドウ思った?」
「え?」
どう思った? どう? 「どう」って?
「えっと、特に、何も……」
ごにょごにょ歯切れの悪い声が口から漏れる。俯き加減に鬼さんを盗み見ると、更に不機嫌になったようで眉間に皺が三本刻まれていた。
えー……なんて答えればいいの。
「俺が、お前の、目・の・ま・え・で! 女と口付けしたんダ。何かあるだろう?」
はぁ?
ますます意味が分からなくて頭の中がこんがらがった。何が言いたいのかサッパリ分からない。
あー、もしかしてこれって昔話でよくある謎かけなのかな。だったらとんちを働かせろっていうこと? でもわたし一休さんじゃないし、いきなり言われても……。
「……なんとも思わなかったのカ?」
「そりゃあ驚きはしましたけれど」
他所でして欲しいとも思ったけれど、さすがにそれは口には出来ないし。
もう分かりませんとわたしは顔満面で表し、ひたすら困った表情を浮かべた。他にどうする事も出来ないのだからこうするしかない。
鬼の口が一文字に張り、ちょっとだけ震えたと思ったら風船がしぼむのと同じ音が牙の間から漏れた。
「マァ~ったく。お前はっ」
ぐしゃりと前髪を掴んで深く息を吐く紅い鬼を、わたしはただ見守ることしか出来なかった。