十五ノ怪
鬼さんが言っている意味が分からなかった。わたしは食い入るように鬼の顔を見上げた。
「死人って……彼は死んでるの?」
「そうサ。既に死んだ奴。生きていない。ジジィの縛りがあるせいで生きたように見えるが、ありゃ死霊ダ」
そんなことってあるの? だって出会った時は半透明でもなかったし、足が無いようにも見えなかった。さっきだって確かに様子がおかしかったけど、触れる事だって…………あ。
そうだ。青年に触れたとき、彼は驚くほどとても冷たかった。それこそ人間じゃないくらい、まるで死んだ人のように。
ううん。でも、それでもやっぱり変だわ。
「待って下さい。鬼さん達はどうやって死者を連れて来るんですか? まさか死んだ人間を、あの世からさらってくるって言うんじゃないですよね」
「ジィさんが言っていたろ。人里でさ迷っていた、ってナ」
「さ迷っていた……」
青年は初めて会ったとき、自分の事は何も思い出せない、覚えている事があるとすれば誰も自分に話しかけてくれなくなったって言っていた気がするけれど。
もしかして話しかけられなかったのは、青年が死んで幽霊になってしまったから、誰も気づくことが出来なくて話しかけなくなったんじゃ。そして青年は自身が死んでしまった事に気づいていなくて、みんなが自分を無視していると思った。
「そこで青年が何かしらの未練があって成仏出来ないでいるところを、蒼い鬼に気に入られて常闇にさらわれてきた、ていうこと?」
「さ~ナァ~。ま、どうでも良いカナ」
わたしの独り言を聞いて、鬼さんは鼻で笑った。
わたしは鬼さんを睨みつけた。牛車へ歩いていく背中に眉間にしわを寄せる。
「どうでも良くなんて――」
言いかけて、立ち尽くす。
まただ。寒い。
とても寒い。
背後に感じる哀しい視線。辛い眼差し。わたしをじっと見つめてる。これは……青年なの?
「ん? どうした?」
鬼さんが振り替える。紅い瞳がわたしを見つめる。
紅い、紅い、真紅の色。悲しい色。
モウ ミタクナイ イロ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「――と、いうわけなんだが。引き受けてくれるかな」
「はい」
もちろん僕はコクンと頷いた。
さすがは永嶺様のお屋敷。外では雪が降っているのに部屋の中はとても暖かい。
「月子にも困ったものだ。あれでは病態も良くならぬ」
「娘さん、月子様は今もお部屋に?」
「そうだ。まったく親の心配も知らないで……困った娘だ」
永峰様はそう仰られて、深く溜息を吐かれた。
女中さんに連れられて、娘さんのお部屋に通される。しかし月子様から開口一番に言われた言葉は、冷たい一言だった。
「出て行って」
月子様はそう言われて黙ってしまった。そっと目を僅かに開けると、細い線が美しい横顔がこれでもかというくらい僕から背けていた。ぼんやりとしか見えない目でも、彼女が美しく見えるのはその月も霞むほどの淡い光に満ちた雰囲気からか。
「では部屋の外におります。失礼致しました」
女中さんがおろおろしているのを感じ取りつつも部屋を後にし、僕はそっと襖を閉めてその前に腰を下ろした。
撫でるのは長年連れ添ってくれている琵琶。僕は琵琶の艶やかな線にそっと指を預けた。
奏でるのは春の歌。小川がせせらぎ鳥達が歌い、風が花の香りを運ぶ。娘さんの凍った心が解けるのを願い歌った。
襖の向こうで娘さんが身じろいだのを感じる。襖が少しだけ揺れて、息を潜めている気配が僕の背中にぴったりと張り付いている。
弾き終えて僕は立ち上がりお辞儀をひとつした。それから失礼致しましたと、一言添えて部屋の前からお暇しようと歩を進める。
「待って下さい」
襖が開け放たれた音と若い女性の透き通る声が追いかけてきた。
「先ほどは失礼しました。私の無礼をお許し下さい」
先ほどとは打って変わって、まるで子供が追いすがるような慌てた声に愛らしさを覚え、僕は思わず笑ってしまった。それから首を左右に振り彼女のほうへ向き直る。
「いえいえ。突然の訪問でしたので。こちらのほうが無礼でした。申し訳ございません」
僕は娘さんへ深く頭を下げた。
「そんな。お顔を上げてください」
すまなそうな彼女の言葉に言われたとおり顔を上げると、優しい香りが鼻を掠めた。すぐ目の前に娘さんの気配がする。
「もしかして、お目が……見えないのですか?」
「はい。生まれつき酷い弱視でございまして」
苦いものが頭の中をよぎり思わず苦笑していると、労わるような彼女の「あぁ」という声がすぐそばで聞こえてきた。
少しの間が流れ、娘さんがもじもじして何度か言い淀んでいると、意を決したかのように「あの」と僕に言った。
「もし宜しければ、もっと琵琶を弾いて頂いても、良いでしょうか」
声に紅く恥らったものが混じっていて可愛らしい。いつも僕を囲んでいる子供たちの声が蘇ってくる。
「もちろんです」
僕は頷いて、気づけば微笑んでいた。
それから永嶺様の御厚意でお屋敷に滞在させて頂き、毎日娘さんの前で琵琶を弾き続けた。
最初は彼女の部屋で弾き語っていたけど、彼女が元気な日には、中庭に出て日向の中でおどけたもの歌ったり、時には村の子供達と一緒になって昔話を聞かせるようにもなった。
そうした毎日を過ごしていたある日、娘さんの雪のように白かった肌も桜のようになり、強張っていた表情も次第に木漏れ日のような柔らかなものへ変っていったと、永嶺様が教えてくださった。
ずっと外へ出なかったせいで人見知りになっていた性格も良くなったようで、自分から進んで子供達におはじきやお手玉をして遊ぶようになったそうだ。
毎日が楽しかった。晴天の下でみんなで笑って過ごせることが幸せだった。
なのに。
どうしてこんな事に。
ムスメサン ナゼ クビ ヲ ツッタノ ?
ドウシテ コドモタチ ハ ナイテイルノ ?
ドウシテ……
モウ ミタク ナイ……
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寒い。寒い。ひどく寒い。ここはどこ?
誰もいない。泣き声が聞こえる。みんなどこにいるの?
駄目。紅いのは見たくない。あれは違う。だって見えないんだから、見えるはずないもの。
どこにいったの? なんで泣いてるの? どうして聞こえないの?
もう嫌だ。忘れたい。思い出したくない。
もうやめて!
もう見たくない!
空気が破裂する音が聞こえた。口から喉へ。喉から内臓へ。それから熱が体の四方に走り抜ける感覚がして、わたしは盛大に叫んだ。
「あっっつーーーい!」
すぐ傍で何か言われた気がしたけれど、それどころじゃない! わたしは地面の上にのたうち回って体に広がった熱に悶えた。
「あっつ! あっつ! あっつーーいぃっ!」
何が、何がどうなったの? 一体なにがあったの?
口の中で鉄の味がする。舌を動かして血だと分かったら、いくらか冷静さが戻ってきた。手や足の指がどくんどくんと脈打って腫れて頬も熱い。
「だからマテと言ったのに……」
わたしの腕を掴んで、傍らに立っていたらしい鬼さんが立ち上がらせてくれる。
「なにを、したんで」
言いかけて口端からどろりと何かが垂れる。涎かと思って慌てて手で拭うけど、それは赤かった。
「え……血?」
なにこれ。何度拭っても絶え間なく口から溢れてきて両手が真っ赤に染まった。どんどん出てくる。
喉に違和感が無いのなら多分吐血じゃない。恐々しながら舌で探ってみる。ついっと舌で下唇の裏をなぞると、びりっとした痛みが走った。どうやらそこがパックリ切れているみたいだ。
「お前がイキナリ動くから、切っちまったじゃないカ」
「そんらの分からないれすよ!」
うぅ……喋りづらい。そして痛い。血が止まらない。
なんでわたし口を切ってるんだろう。いつの間に?
止めどなく流れてくる血の量と突然の事態にわたしは怖くなっていた。何が起きたのか分からないけれど、なんにしろ、このままじゃ出血多量で死んでしまう。
「口を見せてミナ」
言われるがまま大人しく口を見せる。頬に手が添えられて鬼の親指がわたしの下唇をめくった。
「痛っ」
「我慢シナ」
じっとして痛みに耐える。体が熱くて全身で脈打っているみたい。頭がガンガン痛い。何が起こったんだろう。なんでわたし、口を切ったんだっけ。
記憶を辿ってみる。確か鬼さんが腹の立つことを言っててきて、文句を言おうとしたら寒くなって、それから……それから?
モウ ミタクナイ
そうだ。わたし、なにか見た。最初は幸せだったけど、途中からとても悲しい気がした。あれは何だったんだろう。夢とは違う、不思議な感覚。
「もう平気カナ」
覆い被さっていた影が退いた。曖昧な頷きをしながら舌で確認する。熱は残っているけれど傷はなくなっていた。
「鬼火を移した。これで寒くなることは無いカナ」
「鬼火を?」
非難したわけじゃないのに、わたしが顔を上げて見るなり鬼さんの眉が歪んだ。
「いきなり震えて白目むいたんダ。俺の鬼火をヤラなかったらどうなっていたカ。熨斗つけて礼を言われても足りないぐらいカナ」
白目をむいた? まったく記憶にない。それに鬼火を移されていたのも全然覚えていない。いつの間に鬼火なんて――
「ん? 鬼火を移した?」
と言うことはつまり。
つまり……
「い、いやああああああ」
あたりに自分の悲鳴がこだました。




