十三ノ怪
ドギマギしながらひたすらその場に居続けた。
みっちゃんの話題が出てきて気もそぞろになっていたところに青年が現れたものだから、わたしは完全に面食らってしまった。
青年は席の端で礼儀正しく正座した。変わらず優しい物腰ではあるんだけれど、開いた目は蒼く滲んでいて、いつも微笑んでいる顔は無表情だった。
「まずはこいつの琵琶の音色を聞いとくれ」
蒼い鬼が合図すると青年はひとつ大きく弦を弾いた。繊細で綺麗な指が銀色の線の上を艶かしく滑る。でも、音色はわたしが知っているものとは全く違った。
確かに素人のわたしにも分かるくらい素晴らしいと思うのだけれど、なんというか、こう、物々しいというかおどろおどろしい旋律で、前に青年が弾いていたあの優しい音とはほど遠いものだった。
物々しい威圧感のある音色。とても同じ人が弾いているとは思えない。ましてやあの優しい青年が、こんな怖い音をだすだなんて。
「確かに見事カナ」
お酒を口に含みながら鬼さんが言った。目を細めて探るように青年を見つめている。
わたしも鬼さんに気づかれないよう、ちらりと青年を盗み見た。ぼんやりと蒼い眼が揺れている。なにか術を掛けられているのだろうか。焦点の合わない眼差しで、ただ宙を見つめているみたいだけれど。
「人間が弾くにしては良い音ダナ」
鬼さんは青年とは初対面……なんだよね。だって青年のことは知らないって言ってたはずだもの。
鬼さんの横顔にどくどく鳴る心臓。お願いだから静かにして! やかましい心臓に訴えながら、わたしは強張る顔を必死に俯いて隠した。
「お前んとこの奴はどうじゃ? 抱き心地は良いのか?」
はうっ。蒼い鬼のねっとりとした声に思わず変な声が口から零れてしまった。全身に鳥肌が勢いよく立つ。
平静を装いたかったけれど、気持ち悪くて表情が持ち直せない。わたしは表情を読まれまいと更に顔を俯かせた。
「なかなか良い顔立ちをしてるようじゃ――」
「いやこいつは胸がないから勧められんナ」
高速で鬼さんに顔を向けて睨みつける。
……なっなんて失礼な!
本人が隣にいるのになんて事を言うの! 結構気にしてる事なのにっ!
言い返したいところだけれど、蒼い鬼と青年の手前、目立った行動をとるわけにもいかず、わたしは視線をそのままに上下の唇をぎゅっと閉じることだけに努めた。
「ダガまぁそうだナァ。こいつは良い声で鳴くし、何よりイキが良い。たまに良すぎてしまうのが玉に瑕なンだが」
しかめっ面をしているであろうわたしの頭に、鬼さんがぽんぽんと叩いてゆっくり撫でた。
「抱かずとも飽きなくて良い雀カナ」
今のはフォローのつもりなのかしら。疑問に思い眉を寄せてみるけど鬼達はまた別の話に移り、取り留めの無い雑談を話し始める。なんだか腑に落ちない。でも、どうにか身の危険から遠ざかることに成功したみたいでわたしはホッとした。
それから鬼達は話題を自分達の武勇伝や昔話に移らせ、お酒のせいもあってかゲラゲラ笑いながら盛り上がっていた。わたしは時折、鬼さんの自慢話に「はい」と(渋々)返事をしたりして、大人しくお酌に勤めた。
ふと、目の端に青年が映って鬼たちを気にしながらもそちらへこっそり視線を向けた。青年は何も見ていない目を瞬かせることも無く琵琶を引き続けている。いつも見せてくれた優しい表情は今はなく、生気のない虚ろな目を開けて綺麗な指が休まず弦の上を滑らせていた。
そう言えば弾き始めてからずっと止まることなく音を奏でていたんだっけ。真っ青な顔のせいか、とても具合が悪そうに見える。大丈夫なんだろうか。
不意に青年の視線がわたしへ向けられた。
どくんと心臓が大きく脈打つ。
見開かれた陽炎の動きをする蒼い両目。呆然とした表情。じっとわたしを見つめてくる。
わたしを見ているの? ……何か、伝えたいの?
知らず知らず前のめりになった時だった。
「こいつが気になっているようじゃな」
しまった! しゃがれた声に身体が痙攣した。青年から慌てて視線を外したが時既に遅く、隣の鬼さんと目が合うと横目で紅い視線に射抜かれる。途端に息を吸うのを忘れてしまい、喉を詰まらせる。
「……おいジィさん」
低い声が鬼さんの口から零れる。
「うん?」
「実は俺の雀にチョッカイを出した奴がいると小耳に挟んだんダガ……心当たりは無いカ?」
血の気がサーっと引いた。指先と唇が痺れて感覚が無くなる。
「お前のモノに手を出す暇な奴はいないと思うがのう」
「ところがどっこい。どうやら居るみたいでナァ」
にやりと口端を吊り上げて笑う紅い鬼。わざとわたしに歪んだ笑みを見せつけ、「そこの」と顎で青年を指し
「そいつと同じように琵琶を弾くらしい」
そう締めくくった。
……どうしよう。もう気づかれているのかな。それとも本当は知っていて、わたしを試していたとか?
「そうなのか。そいつも腕の良い者なのかのう」
「手前の程は知らンが。鈴音も困り果て迷惑しているカナ……そうだったナ? 鈴音」
「えっ」
同意を求められ、わたしは固まった。
迷惑だなんて。むしろ助けてくれたのに。
あの時青年に会っていなければ。励まして貰えなかったら。自分がどうなっていたかなんて分からなかった。それなのに……嘘でも「はい」だなんて言いたくない。
「どうした?」
わたしは前触れもなく触れてきた鬼に息を呑んだ。するりと首の後ろから鋭い爪先が絡み付いて、喉元を撫で付けてくる。途端に汗が背中を湿らせ始めた。
どうしよう。
冷静な部分では『早く返事をしろ。青年も自分も傷つかずに済む』と思いながらも、別の部分は『言いたくない。しかも彼の目の前で肯定の返事なんて出来ない』と叫んでいた。
頭の中がごちゃごちゃになった。どうすれば良いのか分からない。気づけば視界が滲んでいた。様々な物がぼやけて映りだす。
あぁ、早く、早く答えないと!
カラカラになった口内で舌が重たく感じる。でもなんて答えればいい?
このまま沈黙している? 嘘でも「はい」と言う? 正直に「いいえ」って答える?
嫌だ……そんな目で見ないで。
冷たい朧げな蒼と責め立てる妖しい紅。蒼い目はひたすらわたしを見つめるだけだけれど、紅い視線は鋭く痛い。悩んでいる間もじりじりと焼けるような紅い眼差しで、真っ青になったわたしの横顔を見ている。
「どうした?」
ぐっと喉に圧力が掛かった。それと同時にわたしの顔も硬直する。
首を折られる。直感的にそう思った。
「声が出なくなったのカ? それとも何か答えられない理由でもあるのカナ?」
首に回されていた手が舐めるようにうなじを滑り肩に移動する。それから軽く爪を立てて強張っている肩を抱いてきた。
「聞きたくもナイ下品な音色で口説かれて、己に酔っている馬鹿で愚かな青二才に付き纏われて困っていると。そう言っていたじゃあないカ」
――何を言うの?
違う。そんなこと言ってない。
わたしはぎゅっと膝の上の拳を強く握り締めた。
「もう二度と会いたくナイ。見るのも御免ダ。気味の悪い不細工な顔も、下手糞な琵琶も消えてなくなってしまえば良い」
肩に感じる鈍い痛みもだんだん遠くなる。耳元で響く鬼の言葉が鼓膜に反響した。あれだけうるさかった心臓の音すらも聞こえなくなった。
「いつも俺に愚痴を零していたろう? それともソコに居るボウズにも話してやれば良い。間抜けなヤツがいるってナァ!」
顔が熱い。元の世界に出掛けられるのも、自分が痛めつけられるのもどうでも良い。全身の毛が逆立つような怒りに染まっていく感覚。食いしばっていた歯がガチガチ鳴った。
「……い」
わたしは顔を上げた。顔を横へ動かした時、少し頭がくらりとして、少しだけ冷えたものが目から零れた。
とても景色がゆっくり動くのを感じながら、やっと正面に捉えた紅い鬼へ口を開いた。
『うるさい』と、怒鳴ってやるつもりだった。
けれど出来なかった。
わたしの声が喉から飛び出す直前に、琵琶の音がやんだ。
いきなり訪れた静寂に、わたしは声の出し方を忘れてしまった。そして何を言うのかも忘れて、口をあけた状態のまま固まっていると、今まで流れていたものとは違う旋律が流れ始めた。
この曲は……あの時の。
口を閉じておもむろに青年へと振り返る。
いつも青年が弾いていた優しい旋律。穏やかでどこか悲しげな妖しい旋律。あの時と変わらない、柔らかな音色。
青年がまたわたしを見た。まだ焦点が合わないのかぼんやりと見つめられるが、確かにこちらを見ている。わたしもじっと青年を見つめ返すと、彼はちょっとだけ笑った。
「あ……」
それは初めて会った時に見た、音色と同じくらい柔らかな微笑みだった。ささくれ立った心が真っ直ぐになる彼の不思議な笑顔。わたしの怒りで渦巻いた心さえ静まっていく。
「あぁ……」
思わずもれた溜め息。つられて涙も目から零れた。懐かしい。温かな空気が伝わってくる。
両目を閉じればポロポロ雫が止めどなく頬を掠めていった。
突然旋律が不快な音を立てて止まった。
何、今の音。慌てて目を見開くと、青年は両目をカッと見開き、彼の蒼い顔がさらに蒼くなった。そして瞳から蒼い光が消えると、青年は崩れるようにその場に倒れてしまった。




