十二ノ怪
「おお可愛らしいのう。こっちに来い来い」
わたしは濁った目に見つめられながら、その場に縫いとめられ固まっていた。
なんなのこの大きな蒼い鬼。げっそりして、皮が骨に張り付いているだけの大きなミイラみたい。足と腕は太いけれど顔も首元も骨ばっていて、見て分かるほど肌という肌が乾いていた。
ごくり。自分の喉から緊張を飲み込む音が鳴る。
「おいジイサンよ。こいつぁ俺の雀だ。はべらすンなら自分で用意してキナ」
鬼さんがわたしの腕をとって蒼い鬼の前に座った。わたしは震えるのも忘れて、穴があくほど蒼い鬼を見続けて突っ立ていた。
そんなわたしに蒼い鬼が目を細めた。もしかしたら笑ったのかもしれない。途端にわたしは紅い鬼の隣にペタンと座り込んでしまった。いや、座り込んだと言うよりも、腰が抜けてしまったというほうが正しかったかもしれない。
「おーい。酒と肴を持ってこい」
蒼い鬼が言い終わってすぐに全ての襖が開いた。
門番と同じ顔を隠した青鬼達が入ってきて、豪華な盛の刺身や肉やら不可解なものやらをわたし達の前に素早く、且つ丁寧に並べ始める。
一つ一つの料理を確認する暇もなく、それこそあっと言う間に目の前に様々な食事と様々なお酒が広がると、青鬼達は鬼二人に頭を下げ、即座に退室した。またしんと部屋の中が静まり返る。
「さぁ飲め飲め。どれもこれも儂の気に入りじゃ。そこらじゃ飲めん銘酒ばかりじゃ」
「そうカ。じゃあ遠慮なく……」
鬼さんが手前の昇竜の形をした酒瓶をとり、懐から取り出した朱の盃に注いでぐっと飲み干した。傍らにはぐい飲みの器が用意されているのに、わざわざ自分の盃で飲むなんて。普段使い慣れた器じゃないと嫌なのかな。鬼さんは結構神経質なのかしら。
「お前も可笑しな奴じゃのう」
一瞬でも忘れかけた存在に視線を引き戻される。乾いた声に驚きつつも蒼い鬼へ視線を投げれば、バリバリなにかを噛み砕いているところだった。口から何かの足みたいなのが見えたのはきっとわたしの気のせいだ。そうに違いない。まともに見ていなかった手前の料理に、わたしは今後もなるべく見ないようにしようと心に決めた。
「鬼を食っといて人間を食わんとわな。……して、名はなんとつけた?」
「なんでジジィに教えないといけないんダ」
前のめりになった蒼い鬼に、赤い舌をぺろり出してからいやらしく口端をつり上げ、鬼さんはまた盃に酒を注いだ。
「知りたいンなら当ててみナ。ま、当てるまでにお迎えが来ちまうかも知れンが」
「まぁったく。相変わらず可愛げの無い奴じゃのう。老い先短い儂に教えてくれたって良かろうに」
蒼い鬼が口をへの字に曲げ、わざとらしく拗ねてみせた。それからちょっと顎を引いて上目遣いになると、鬼さんに負けないくらい厭らしく口元を歪め笑った。
「それともまた、奪い損ねたのかのう?」
瞬間、酒から外れた紅い眼差しが殺気を帯びて、蒼い眼差しと静かに睨み合った。どちらも表情も動きも止まったまま、わたしの駆け足になりつつある胸の鼓動と時間だけが部屋の中で動いていた。
多分鬼さんにとって、一度わたしの名前を奪い損ねたことは、わたしが思っている以上に屈辱的な出来事だったんだろう。それを蒼い鬼が突っついたからこんな険悪な空気に……。
両鬼の表情を盗み見るが、二人ともさっきと同じ姿勢と目つきで固まったままだ。いつまでこの状態でいるつもりなんだろう。一分も時間は経過していないんだろうけれど、わたしは既に嫌な汗が額に浮き始めていた。
お願いだから穏便に。暴力的なことにならないで。
祈るような気持ちで堅く目を閉じると同時に手に力が入った。気づけば無意識に膝をぎゅっと掴んでいたみたいで、手の中で布が崩れた感触がした。
隣から細く空気の抜ける音がした。
強く握っていた拳に大きな手が被さり、離れたら今度はわたしの頭をゆるやかに撫で始めた。
「鈴音」
ぶっきらぼうな声に目を開けて鬼さんのほうを見れば、ツンとした顔をしながらお酒を口に運んでいた。
「おうおう、そうか。可愛らしい名をつけたのう。この娘にぴったりじゃ」
「当たり前カナ」
ようやく空間に冷たい空気が流れ去って、わたしはこっそり胸をなで下ろした。
このまま何事もなく楽しくお酒を飲んでお開きにしてくれないかなぁ。この調子で凍り付いていたら心臓がいくつあっても足りないわ。
またこっそりと溜息を吐く。
「どうじゃ、儂にひとつ貸してくれんかのう」
えっ! 声には出さなかったけれど、わたしは思い切り飛び上がって顔を引き攣らせてしまった。動転しながらそれらを顔の表面からずり降ろし、なんとか鬼の不機嫌を買わないよう畏まる。
「美味いもの食わせて着飾らせて、存分に可愛がってやるぞ。どうじゃ?」
じょじょ、冗談じゃないっ! 現状でさえ大変なのに得体の知れない(鬼さんだって充分得体は知れないけど)よその鬼だなんて、余計に危険極まり無いわ!
ぶんぶん左右に振りたい頭を、理性を総動員させて必死で抑えこむ。
「ああ、そりゃ出来ン相談カナ」
いきなり肩を鷲掴みにされて強く引き寄せられる。わたしの視界半分に赤銅色の胸元が見えて、ようやく鬼さんに抱き寄せられたんだと気づいた。
「こいつぁ寂しがり屋で俺の側から離れたがらなくてナァ。寝る前だって甘えてきて困ってるほどカナ」
……は?
「今日だってどうしてもどうしてもお供したいって聞かなくて……ナァ? 鈴音」
今度は思わず「は?」と声に出して言いそうになったわたしだったけど、上から鋭い紅に睨まれて開きかけた口を閉じた。
返事の仕方は教えたろう? 凄みを効かせた眼差しはそう言っていた。わたしは慌ててこくこく頷いて返事をした。
「は、はいっ」
「良い子カナ」
よしよしと頭を撫でられる。
はぁ~危ない危ない。正直好きな場所に行けなくなる事よりも、鬼さんの不興を買って痛い目に遭うほうが嫌だわ。
「そんなに懐いているように見えんがのう」
訝しげに蒼い鬼がお酒を口に含もうとしながら言った。もちろんその見解は当たっているんだけれど、今は当てないでくれた方がわたしは嬉しかった。
「なかなか初々しい奴でナァ。人前じゃあ俺から誘わんと擦り寄って来ないんダ。なぁ鈴音?」
違うけれど……
「はい」
「それじゃあ色々と骨が折れるのう」
「なに二人きりなら自分から俺の腕に入り込んでくるカナ。なぁ鈴音?」
そんなわけないじゃない。何言ってるの。
口に出していないのに肩を抱いている手に力が込められる。痛い。
「……はい」
「ほぉ甘え上手なんじゃのう」
鬼さん、なんでこんな変な嘘をつくんだろう。人間に恐れられているって言うのならともかく、好かれているって鬼の間では重要なのかな。それともそういう流行でもあるのかしら。
「最近では夢見が悪いみたいでナァ。同衾したがってしたがって」
ピシッと自分のこめかみに青筋がたつ音が聞こえた。隣でやれやれと首を振る紅い鬼に軽く殺意が沸いてくる。
「ほぉ。それは真か?」
「本当さ。ナァ鈴音?」
ちょっと……これも返事しなきゃいけないの? ねぇ駄目なの? もうむしろこれって平手打ちして良いレベルなんじゃないの? セクハラじゃないの?
「鈴音。返事」
「…………はい」
文句ではなく溜息が口から零れた。切実にこの話題が終わることをわたしは祈った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ところで、愚痴の鬼姫は知っとるか?」
鬼さんの嘘連発が落ち着いた頃、蒼い鬼が思い出したように言った。
「ずいぶん美しい姫じゃそうだが」
「あぁ知っているカナ。なんせソイツは最初俺が捕らえた小娘だからナァ~」
鬼さんの言葉に誰のことを言っているのかすぐに分かった。わたしは不快感と動揺が出ないよう気を配り、顔をほんの少し俯き加減にして顔の表情を隠した。
「その話この老いぼれの耳にも入っている。まさかお前さんが横取りされるとはのう」
「おいジジィ、馬鹿を言うナ。俺が捨てたのを腹黒い愚痴の奴が拾っただけさ。まったく迷惑な奴カナ」
ふんと鼻を鳴らして、六本目になるお酒を喉に流し込んだ鬼さんを横目で眺めた。みぞおち辺りがざわざわする。彼女は今どうしているんだろう。
「実はのう、儂もずいぶん前じゃが人間を一人拾ったんじゃ。まあ見てやってくれ」
両手を一度叩いて蒼い鬼が「おーい」と襖の向こうに呼びかける。
ほどなくして襖が静かに開かれて、頭を下げて両手を着いた人物が現れた。もやもやした物を抱えながらその人を眺める。体つきからして若い男の人みたいだ。
鬼さんはわたし以外の人間は知らないって言っていたけど、この人はどうなんだろう。……正直、そんな事よりも今はあの子の事が気になる。
……みっちゃん。
「人里でふらりふらり彷徨っていたのを儂が連れ込んだんじゃ。なかなかこれの弾く琵琶の音色が素晴らしくてのう。儂はすっかり気に入った」
……琵琶?
急速に暗雲とした思考が晴れた。
代わりにどこまでも広がる、冷たい闇が墨を零したように心に広がっていく。
「ジイさんそっちの気があったのカ。ついに色ボケしたカ」
「琵琶の音色が良いと言っておるじゃろうがっ!」
鬼たちのやりとりが遠くで聞こえつつ、わたしは見えない汗をだらだら垂らしていた。心臓が痛いほど胸を叩いて血の気が引いた。
まさか、まさか! ……そんなはず!
手を突いている人物に注目する。下げていた顔がおもむろに上がっていき、わたしは息を呑んだ。
いつも閉じられているはずの目が、真っ青になっているわたしの顔を、その朧げな蒼い瞳で見つめ返している。
琵琶の青年。
わたしは彼にぼうっと見つめられ、身動きもせずただ固まっていた。
「ふぅん……人間ねぇ」
見えないところで紅い声がぽつり呟いた。




