十一ノ怪
牛車に揺さぶられながら長い時間を過ごす。車の外を覗くことを禁じられて、暇をどう潰すのか考えていたわたしに、鬼さんが巻物を手渡してくれた。
何が書いてあるんだろう。
興味津々に唐草色の巻物の紐を解いて静かに開いた。そこには水墨画で描かれた海原。右上に達筆すぎる文面が流れるように書かれている。もちろん現代人のわたしには、このうにうにした文字が読めるわけも無く。……なんて書いてあるんだろう。
「うん? 気に入らなかったカ?」
難しい顔をしていたわたしを見て、鬼さんが声をかけてくる。
「あ、いえ。そんなことないです。ありがとうございます」
何もないよりは良っか。お礼を言って閉じようとしたら「待て」と鬼さんに手を止められる。不思議に思って首を傾げたわたしをよそに、鬼さんは長く細い息を巻物の表面に吹きかけた。
何したんだろう。閉じかけた水墨画に目を移すけど、特にさっきと変わったところはない。何をしたのか訊こうと口を開いたその時だ。
「あ……」
墨の部分が徐々に水気を帯びて、水面のようにゆらめく。文字が波紋に呑まれて消えると同時に、絵がゆるやかに動き出した。
「わぁすごい。生きているみたい」
大海原に船が波間を縫って現れ、真っ黒な雲間に龍が顔を出す。現れた龍は風と雷雨を呼び、船を大きく揺さぶって水平線の向こうへ船をさらっていった。
墨闇が晴れると、画は一度まっさらになった。何も描かれていない巻物に墨が走ると、着物姿の男性がのっぺら坊に化かされている画が浮かんだ。
男性が両手と叫び声を上げて一目散に逃げていく。それを見て腹を抱えて笑うのっぺら坊。そこに近づいてきた子供が、筆で凹凸のない顔に目、口、鼻を書いて背から鏡を差し出す。のっぺら坊は鏡に映った自分の顔を見て、さっきの男性と同じように両手を上げて逆方向に逃げていった。今度は子供が腹を抱えて笑い転げ、煙に包まれると狐の姿を現した。子供の正体は狐だったのだ。
へぇなんか懐かしい。こういう昔話、小さい時によく聞いた気がするなぁ。
化かしたばかりの狐が意気揚々と山道を歩いていく様子を見ながら、わたしは笑った。
「面白いカ?」
降ってきた声に巻物から顔を上げる。右を見やればあぐらをかいて頬杖をする鬼が一人、ニヤニヤしながらわたしを見ていた。
「はぁ……面白いです」
「鈴音は無邪気カナ」
今にも鼻で笑う音が聞こえてきそうな嫌な視線と口元。鬼が怖くなければ『こっち見ないで!』くらいは言えるのに。相手が妖怪じゃあ言いたい事も言えないわ。
わたしはこみ上がるものをぐっと堪え、巻物に目を戻そうと視線を降ろす。
「鈴音」
呼ばれたと同時に視界がぶれる。顎を掴まれて強制的に視線を合わされれば、妖しい紅がわたしを捉えた。
「これから行く場所について、ちょいと話がアル」
話? いきなり顎を掴まれた不快感をとりあえず自分に我慢させて、僅かに動く顔の表情で問いかける。
「ナニ、難しいことじゃあ無いカナ。酒の席に着いたら、俺が言うことに全て『はい』と応える。それだけナンだが……出来るナ?」
なんで今になって言うの。ここまで来て脅しのような視線を向けられたら、分かりましたと言うしかないじゃない。
不満を心の中で呟くが状況が状況だわ。わたしは難しい顔をしつつも、渋々頷いた。
「良い子ダ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
微弱な振動が止まった。着いたのかな。
鬼遊びをしていた座敷童子と袖引き小僧の決着がちょうど着いたところで、わたしは顔を上げた。
「降りナ」
鬼さんに促されながら、牛車の前から踏み台に足を乗っけて慎重に降りる。今日は単衣じゃなくて振り袖の着物だから、大変だと思われた乗り降りが思ったより楽だった。あんな裾を引きずった格好じゃあ移動するのも大変だわ。
無事に牛車から降りてほっとしながら顔を上げ、そして――目の前の光景に表情と背筋を凍らせた。
厳つい跳ね橋の向こうに大きな岩山の要塞。そしてギャアギャアと鳥じゃない何かの鳴く声がこだまする暗黒の空。鬼ヶ島とかドラキュラ城とか、そんなイメージとぴったりな光景が目の前にそびえ立っていたのだ。
「な、な、なにが、誰が、どんなのが住んでいるんですか?」
「お前はビビると毎回ドモるんダナ」
橋の向こうにある大きな鉄の門が開くと、中から誰か出てきた。手には槍を持っている。
鬼さんはそれを見るなり跳ね橋を渡り、スタスタその人物に歩み寄った。片手をひょいとあげて気軽に挨拶をすると、一つ二つ言葉を交わしている。少ししてから槍を持った影がちらりと後ろで固まっているわたしを指さした。
振り返った鬼さんが手招きをしてわたしを呼んだ。
う~、行きたくないよぉ。
内心半べそをかきながら、そろそろと跳ね橋の手前まで来る。そこでやっと、その槍を持った人物の姿がよく見えた。
青い、真っ青な鬼だ。
顔は黒子みたいに変な模様が描かれた布を被せていて見えないけど、逞しい腕や足は長年青い絵の具にでも浸かっていたかと思うほど青さが染み付いた色をしていた。
「なにしてんダ。さっさと来ないカナ」
鬼さんが人差し指を立てて曲げるとわたしを呼んだ。ガクガク震える足が妖しい紅に誘われて歩き出す。
どうか頭の先からつま先まで無事に出てこれますように!
必死に念じて紅い鬼の傍らにようやく立てば、青い鬼に導かれ門の中へ招かれた。
門をくぐった先に青銅かと思われる巨大な扉が姿を現した。青鬼が槍で扉を三回叩く。耳の鼓膜が震えるほど重い音を立てながら、重厚な扉がゆっくりと口を開けた。暗闇の向こうには岩壁に青い鬼火がゆらゆらと、暗くて寒い道を照らしている。
怖いし……気味が悪い。
紺色の岩畳の上で黙々と青鬼、紅の鬼、人間のわたし、の順番で続いていく。三人の足音と鬼さんの鼻歌以外音はない。鬼さんのお屋敷とは違って異様に静かだ。
目の端で両側を盗み見れば岩壁に描かれている鬼や人の目が絡みついてくる。本当に気味が悪い。幾つもの視線が集まり、まるで監視されている気分だわ。
どれだけ歩いたか分からないけれど『早く着かないかな』なんて思っていたら、やっと斧に蛇が巻き付いた模様が描かれている大きな観音扉の前に行き着いた。
青鬼が扉を開けて端に控えると、鬼さんは片手をあげて案内してくれた青鬼に(意地悪く)笑いかけ、慣れたように足を進めた。慌ててわたしも青鬼に会釈をしてから、鬼さんの後にくっついて入っていった。
扉の向こうは先程と違って明るい。高い壁や大きな襖一面に水墨画が描かれていて、虎や鷹、蛇に獅子と、どれも生き生きとして牛車の中で見た巻物みたいに今にも動きだしそうだった。
すごいなぁ。あんなに高い天井にまで絵が描かれてる。どうやって描いたんだろう。思わず感嘆の息が漏れてしまうわ。
「こっちダ」
見上げていた顔を元に戻す。いつの間にか一番奥の襖の前にいる鬼さんに呼ばれて、わたわたと駆け寄った。
「分かってるナ? 良い子にしてろヨ?」
そう言ってわたしに念を押しながら、鬼さんはいつもの行儀悪さで足の先を使って襖を開けた。
「待たせたナァ、ジイさん」
口が裂けるほど笑う、紅い鬼の横顔。それがほんの一瞬だけ、わたしを追いかけた時の悪鬼の本性が見えた気がして、背筋に凄まじい悪寒が走った。
鬼さんが襖の向こうにいる人物と話しているが、恐怖に固まったわたしは聞き逃していた。
「男二人じゃあつまらんと思ってナァ。俺の雀を連れてきてやっタ」
紅い鬼の顔を見て、立ち尽くしているわたしの腕を鬼さんが取った。やっと正気に戻ったわたしだったが、何かを口にする前に、開け放たれた襖の前に立たされた。
「ほお人間の小娘か。久方ぶりじゃのう」
しゃがれた老いた声。びくびくしがら、それでも声の主の顔を見ようとして、わたしはぎこちなく顎を上げた。
目に入ってきたのは窪んだぎょろりとした大きな目に、閉じた口から覗く大きな牙。着崩した着物から、肋骨が浮き上がった蒼い胴体が覗いている。
目の前でわたしを見下ろす鬼は、大きな体をした、老いた蒼い鬼だった。