二ノ怪
「あーもー疲れたぁ」
後ろで最後の一段を上がりながら、お姉ちゃんが息苦しそうに叫んだ。
「お姉ちゃん体力無いんだから」
「十代の頃が懐かしいわぁ」
お姉ちゃんには悪いけれど、たとえ十代に戻っても体力は今とそんなに変わんないと思う。まぁそんなことは本人に言えるはずもないので、肩で息をしているお姉ちゃんにただ苦笑する。
「あーやっぱり清々しいわね、ここは」
「気持ち良いね」
二人して胸一杯に息を吸い込み伸びをする。少し朝早いからか、ちょっと肌寒いけれど不快感はまったくない。新しく設置された柵の向こうに、町が柔らかな陽に照らされて輝いて見えた。
「お社もまだ綺麗ね。今度のはきちんと管理されているみたいね」
「お参りする人もいるみたいだから」
「前のはお参りするどころか、そこに行こうなんて思う人も滅多にいなかったしね」
以前のお社は朽ち果てていてどこもぼろぼろだった。台風でもくれば跡形もなく吹き飛ばされていてもおかしくはなかっただろう。
お姉ちゃんの隣に立ってお社を眺める。その後ろには土砂があったなんて信じられないくらい、静かに青々とした緑が整列している。
その奥には友達とさらわれた場所。
今はない朽ちたお社があった場所。
次々と嫌な記憶が頭をもたげて心に広がろうとする。思い出したくないのに、一度蓋を開けると出てくる記憶の片鱗。
わたしが残って他の子と帰るはずだった親友。けれども自らの意志で鬼となり、闇しかない世界に残ってしまった彼女。……みっちゃんは今どうしているんだろう。
「紗枝、大丈夫? 顔色悪いわよ」
「え、あぁうん。平気」
慌てて笑顔を浮かべ、頭の中に沸き上がった黒いものを払いのける。
いけない。さっき思い出すのはやめようって決めたばかりなのに。しっかりしなきゃ。
「せっかくなんだしお祈りしよっと。紗枝もしたら? もう当分来れないんだし」
「そうだね」
一緒にお社の前で両手を合わせ、目を閉じる。
次ここにくるのはいつになるのかな。大学生活もどんなふうになるんだろう。勉強してバイトして、友達も作って。出来れば幸せな恋愛もしたりして、楽しい生活を送れるようにれば良いな。
不安と期待が交差するなか新しい生活に思いを馳せる。
そんなわたしの、春風とは違う湿った空気が頬を撫で髪が舞い上がった。
ひやりとする重い風。
この感覚はどこかで……
――鈴音
目を見開く。
心臓を鷲掴みにされたみたいに、胸が詰まった。
なに、今の。
はっと息を飲んだわたしに、横にいたお姉ちゃんが不思議そうに眉を寄せた。
「どうかした?」
「今、何か聞こえなかった?」
不安を隠しながらも聞いてみる。
お姉ちゃんがあたりをきょろきょろ見回すが、すぐに肩をすくめて「別に」と言った。気のせいだったのかな。
それでも嫌な汗がじわりと手の中に滲む。
そして頭の隅に浮かぶ紅。嫌な記憶。思い出したくない場所。
固まって立ち尽くしていると、山道の下からけたたましい車のクラクションが聞こえてくる。
「あ、来た来た。結構早く着いたみたいね。紗枝行こ!」
「う、うん」
お姉ちゃんの声に我に返る。慌てて普段どおりの顔を貼り付けて振り返る。
何度も鳴るクラクション。拓お兄ちゃんにしては珍しい。多少イライラすることがあっても、こんなに鳴らすようなことしないのに。
ふと違和感を感じて、お姉ちゃんの後を追おうとした足を止める。いくら車のクラクションが大きいからって、ここまで聞こえるものだろうか。
「はいは~い。今行くってば!」
バタバタ慌ただしくお姉ちゃんが階段を駆け降りる。
「待ってお姉ちゃん!」
嫌な予感がする。
すでに階段を下りて見えなくなったお姉ちゃんを呼び止めようと、階段に向かって足を動かした。
――鈴音!
突き刺さるような鋭い声。今度は確かに聞こえた。
わたしはその場に縫い止められ、驚愕し心臓が何度も激しく跳ね上がる。
ゆっくりお社へと顔を向ける。
お社の観音扉がカタカタと不気味な音を鳴らして小刻みに震えている。
うそ。うそよ。
そんなハズはないわ。
踵を返し帰ろうとした。けど、すでに道はなかった。
いつの間にか木々が立ちはだかり不穏にざわめいていて、階段も見渡せた町並みも無い。あるのは暗い森が広がるばかり。
「あれ、紗枝? ……紗枝?!」
遠くの方で自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。でも肝心のお姉ちゃんの姿はどこにもない。
どうなっているの? すぐ近くにいるの?
「紗枝どこにいるの!」
「お姉ちゃん!」
声が辺りにこだまして響く。前後左右を見回すと空はかげり暗雲が立ちこめ暗闇が広がる。
嫌、嫌だ。
早く戻らないと!
でもどうやって?
「お姉ぇちゃんっ!」
いよいよ恐怖にかられた私は叫んだ。
なんとかしてここから抜け出さないと手遅れになる! 泣き出しそうな気持ちを抑えるように胸の前で両手を強く結ぶ。
早く逃げないと! そう思ったときだった。
「鈴音」
後ろからかけられた声。昔聞いた紅い声。
嘘、でしょ。
震える体でおそるおそる振り返ると、お社の扉が今にも開きそうな音を出し始めた。
よくみれば先ほど見たばかりの新しいお社ではなく、朽ち果てて今にも崩れそうなお社。そう、あの捨てられたハズのお社だった。
「逃げるつもりカナ?」
余韻を残す低い声が木々の間を縫ってあちらこちらから聞こえてくる。後ろから聞こえたのかと思えば前から、右から聞こえたのかと思えば左から。
「ち、違う……」
頭をふって否定する。
「約束を忘れたのカ」
「違う!」
叫びとともにあたりが真っ暗闇になる。顔面蒼白になりながら、駆け出すように後ろに後ずさる。
どんどん遠くなるお社。転びそうになるほど勢いよく後退する。が、背中に何かをぶつけ硬直した。
息を荒くするわたしの背後に布地を通してなお伝わる厚い筋肉質な感触。
「なにを怯えている?」
いつまで経っても固まっている私に、背後から声をかけられた。方向の分からないぼやけたものではなく、直ぐ背後で声をかけられる。
まさか……本当に……
錆びたロボットの動きで振り返るわたし。ブレる視界を押さえながら、顔を声の聞こえた方へ向ける。ゆっくりゆっくり。
先に捉えたのは暗褐色の赤い裾。腕は懐に仕舞い込んでいるのか見えず、さらに視線を上へ移動すると、白い襟元から赤銅色の鎖骨が見えた。
だめ。これ以上は見たくない。
わたしはそれ以上顔を、瞳を動かさなかった。中途半端な角度のままで顎の位置を止める。
見たくない。あの瞳だけは。あの妖しい紅だけは。
「どうした?」
布が擦れる音が鳴る。揺らめく胸元。わたしは弾けるように後退したが、腕を掴まれ手元に引き寄せられる。
よろけた所で顎に指が添えられ、強制的に上を向かされた。
「あ……」
「もう少ししおらしくするかと、俺は思ったんだがナァ」
おもいっきり目を見開く。
記憶の底に押し込めていた鬼が目の前にいる。
二つの鋭い角も、いやらしく笑んだ口から覗く牙も、肌も模様も、そしてあの妖しい紅の瞳も。あの時のまま。
「久しいナァ鈴音ぇ」
よく通る訛りのある声。鬼の顔とわたしの膝がそれぞれ笑う。
笑っていないのはわたしだけ。
「な、なんで……?」
信じられないと震える声で絞りだす。
「お前を迎えにきたカナ」
「どうして?」
鬼は強く引き寄せてわたしの顎を掴み、顔を近づける。
「どうしてかって? 俺から離れようとしたからダ」
「は、離れるって何を言っているの? そもそもわたしがこの世界のどこでいようと同じことでしょう?」
緊張から意味も無く強がってみせる。うまく呂律の回らない舌が口の中で踊る。
嘘だと、忘れようとした対象がいきなり現実となって現れ、わたしは完全に混乱していた。
「ならココを離れる事に対して何も思わなかったカ? 常闇を、俺を忘れようとしたんじゃ無いのカ?」
「それは」
図星だった。
過去とは決別して新しい生活をスタートさせ、今まさに歩きだそうと決意したばかりだ。
喉を詰まらせて、言葉を失う。
「まぁそれは無駄なコトなんだが……。お前のしようとした事は許せんナ。もう少し様子を見ても良いと思っていたガ。今ここで連れ去ってヤロウ」
ニヤリ、細い三日月のような八重歯が深く笑んだ口許から覗く。
途端に全身を恐怖と戦慄が走り、知らず知らずの内に首を左右に振る。
「やめて……」
「怯えた顔が艶っぽくなったじゃナイカ、鈴音」
「誰かっ、誰か助け――」
顎をつかむ鬼の手を払ってありったけの声で叫ぶ。そんなわたしの腰に鬼は腕を回し、熱い大きな手が口元を覆い尽くす。
「そう怖がるナ」
暴れるわたしにひっそり声を潜めて、耳元で囁く。
「これからたっぷり味わってヤルからナ」
背筋に悪寒が突き抜ける。眉間のあたりが冷え冷えして頭の芯が凍る。
紅い鬼に引きずられるようにお社の前まで連れて行かれると、扉が暗い口を開いた。そこから黒い霧が漂って溢れている。
嫌だ。戻りたくない。もうあそこには行きたくない!
体をよじらせ両手で熱い赤銅色の腕をはがそうともがくが、石のようにびくともしない。
誰か助けて! 助けて!
わたしの心の叫びも空しく、漏れた闇が二人を包み込み中へと招き入れた。
あの朝の来ない、闇しかない場所へ再びわたしは連れ戻されたのだ。