二ノ怪
眠るのが怖い。でも起きて人形になっていれば何も怖くない。籠の端っこで膝を抱えてさえいれば、恐怖を感じることもないのだから。
布団の上に押さえつけられても、悪夢に引きずり込もうとする睡魔にも心の底で耐え抜いた。
いくつもの闇が過ぎ去って、灯籠の明かりの大小が繰り返すのを見続ける。いつしか膝を抱える腕に灰梅が染まれば、空っぽの心に声が響く。
たとえば、灯籠の明かりが小さい時ならこんな声。懐かしい小さな気持ちがそろりと覗く。
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奉公から帰ればとんだことになってんなぁ。まさかあのチビが帰ってきてるだなんて聞いたときはそりゃ驚いた。
しっかしあれは生きてるんだかなぁ。天井裏からこっそり覗いてみたが、ありゃ目ぇ開けてはいるが、心ここにあらずってぇやつだ。
ずいぶん顔立ちも大人になってっから、てっきりお手つきかと思ったんだが、仲間から聞いた話じゃあそうじゃないらしいし。
ちょっと前までは外に連れ出されていたみたいだが、どうしてまた籠なんぞに入れられてるんだ? また余計なことしてぶち込まれたか?
なんにしろ、あんな人形みたいになっちまって。紅の鬼様はどうするおつもりなんだ。
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子鬼の声に天井を見上げたくても、それすら億劫だったし、自分の五感がまともに働いているかも疑わしい。ずっと俯いたままぼんやり畳の編み目を見つめる。
聞こえなかった声までもが聞こえるなら、やはりわたしの耳はおかしくなってしまったんだろう。
たとえば灯籠の明かりが大きくなる前の艶っぽい女の声。
噂好きな声がひらひら舞って優雅に羽ばたく。格子の向こうから聞こえてくる。
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鬼様はまだあの人間を飼われているみたい。
こっそり囁けば「妖にはなっていないの?」と興味津々に皆、頭を寄せてくる。私は得意げに胸を反らして凪屋の扇で顔を扇ぐと、皆を一瞥して頷いた。
「もちろんよ。ずっと貪欲の鬼様のお屋敷にいるみたい」
「そうなの? 私見てみたいわ」
「それがね、誰にもお見せにならないらしいのよ。ここだけの話、鬼様ったらずっとその人間にご執心だそうよ」
扇子で口元を隠しながら、目を輝かせている紬に顔を寄せる。途端に隣で聞いていた緩が口を挟んでくる。
「ねぇその話、本当? だって前に絹と綾がお世話してたの、私見たことあるわよ」
「それずっと前の話じゃない。最近よ、さ・い・き・ん」
「良いなぁ。私も見てみたかった」
「でももう妖怪になってるんじゃないの? いくら鬼様に飼われているからって、ねぇ」
口々に言う皆を私は見回してから、声を潜めて言った。
「まだ人間。しかも鳥籠に入れて飼われているんですって。今度お姐様が貪欲の鬼様に頼んで、見せてもらうつもりらしいわよ」
ひそひそと艶やかな唇を隠しながら囁き合う。
しばらくはこの噂話で暇を潰せそうね。暇さえなければ妙な牽制も起こらないし。またお姐様にお話をおねだりしなくちゃ。
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聞こえた声のように、友達とくだらない噂で夜遅くまで盛り上がっていた時もあった。例えしんみりする内緒話だったりしても、必ず朝がきて全てを洗い流してくれた。
今は懐かしい友達との思い出。ほんの一瞬だけ蘇るも、すぐさま霧になって霞んでしまう。
いよいよ灯籠が明るく灯れば今度は紅い声。
ずっとずっと途切れることなく続く声。
寝ても覚めても聞こえる声。
甘い残酷な、鬼の声。
格子がしなる音が聞こえ籠の隅で膝を抱える。重い頭はまったく働かず、酸欠のせいかクラクラする。霞む視界に紅い足が見えたら骨ばった手が頬をなぞるように撫でた。
「鈴音」
呼ばれてのそりと顔をあげる。たったそれだけで息が浅くなり、呼吸が僅かに苦しくなる。
「隈が出来ているじゃあないか。きちんと寝ているのカ?」
浅い息を吐き出して小さく顎を引いた。
眠りたくない。夢を見たくない。それは鬼さんが一番よく知っていることなのに。
「せっかく寝入っている間でも会えるように術をかけてやったのに。お前はツレないナァ~」
覚めれば声出ぬ白い籠の中。眠れば泣き叫び、追い回される暗い森。どっちが不幸なんだろう。どっちがマシなんだろう。力の入らない腕で膝をさらに抱き寄せる。
「鈴音。そろそろ痣をとってやる。肩を見せてミナ」
襟元を掴んで肩を露わにする。ついこの間まで二の腕にあった灰梅は肩にまで上り、覆うように肌を染めていた。
「痣の移動が早いナァ~」
痣を眺めて鬼が呟く。端正な唇をそこへ寄せると口を開いて痣を吸い寄せる。鬼が顔を上げれば、肩にあった痣は跡形もなく消えて青白い肌があるだけになった。
離れた鬼がわたしの顎を掴んで片眉をつり上げる。そして冷たい視線を投げてくる。
「お前はまだ家に帰りたいと思っているのカ? それとも想い人に会いたいと願っているのカ?」
想い人。青年のことか。
本当に紅い鬼が想っているような仲じゃないのに。
目を閉じて鬼の手から顎を逃がす。少しの抵抗があったけれど、鬼はそれ以上力を込めたりせずに顎を離した。
「ナァ鈴音。俺は猶予をやったハズ。常闇に来る前に時間ならたっぷりあっただろう? それなのにまだグズグズ言うつもりカ?」
厳しい口調でわたしに叱りつける。わたしはそれを、漠然として聞いていた。
「俺は約束を守ったゾ。今度はお前の番だろう?」
ぐっと強く肩を掴まれ、痛みに少しだけ眉を寄せる。
なら具体的に何をすればいい? きちんとお酌はしてきたし、帰りたいとも言っていない。他に何を望むの?
僅かに顔を上げて目で訴える。
どうして他の人と仲良くしちゃいけないの?
どうして常闇のことを知ろうとしちゃいけないの?
なけなしの感情でそう言い返したくても、声が出ない。枯れたはずの涙が小さな粒となって一筋流れる。抱えた膝にそれを押しつけて拭うと、諦めたようにそのまま顔を伏せた。
「鈴音。俺を見ろ」
言われて渋々、鈍い目元を押し上げて紅の瞳を見つめ返す。鬼の妖しさが滲み出る眼差し。視線を合わせただけで目眩がしてくる。
「違う違う鈴音。よ~く見るんだ」
言われて仕方なく一度目を閉じて、また鬼の眼を眺める。先ほどと変わらない紅い瞳。じっと眼を細めてより凝視する。
しばらくそうして見詰め合っていると、ようやく鬼が動いて溜息を漏らした。
「……違うんだよナァ~」
また深くはぁと溜息をついて、角の根本をぼりぼり掻いた。何が違うというんだろう。意味が分からなくてぼんやりと鬼の顔を眺める。鬼の望むものが分からない。
「さぁ~てさて。これから飯にでもするカナ。お前さんが食べやすいヤツを作らせたんダガ」
わたしは首を振った。何もしたくない。何も食べたくない。何をするのも気が進まない。ぎゅっと自身を抱きしめて俯き、鬼から顔を背ける。もうそっとして欲しい。もうなにもしないで。
「なんだ鈴音。ソノ態度は? なんならまた夢の続きデモみるカァ?」
ドクンと心臓が高鳴って喉へ飛び上がる。吐き気が沸き起こり思わず口元を手で覆った。ガクガク体が震え、目眩もひどくなる。
……嫌。嫌だ。もう見たくない。見たくないっ。追い回されたくない!
髪が乱れるのも気にせず、頭を激しく振る。
もう見たくない。追いかけられるのはもう嫌だ。逃げても逃げても、追いつかれて押さえ込まれる。それから散々なじられては、わざと逃がされて追われるの繰り返し。
わたしの怯えをみてか、鬼が口を裂けさせて牙を見せつけた。
「そうダ、そうしよう。最近寝ていないんだろう? たっぷり眠らせてやろうカナ」
この上なく嬉しそうに笑う鬼の顔。伸ばされた手が顔をすっぽり覆って呪いをかける。両手で退けようともがくが意味はない。食欲がなく、まともに食べていないのだから尚更だった。
「おやすみ鈴音」
手足が痺れて強烈な眠気が浸透していく。ぐにゃりと意識が回れば、次第に自分のまわりも暗転する。
やめて。
眠りたくない。
今までは悪夢でも良いからと夢の中へ逃げていたのに。目を覚ましている時より良いと思っていたのに。気づけば眠るのも恐ろしく感じるほど、紅い悪夢から逃げていた。
そして一度睡魔に捕らわれ夢に堕ちれば、今度は鬼から逃惑う、逃げても逃げても終わらない鬼遊び。
歪んだ意識で足が地面の感覚を掴めば、またもやあの暗い森にわたしは佇んでいた。