一ノ怪
人形になって幾日か。
夢の中へ逃げ込んでもそこもまた闇。狂気を孕んだ夢は姿をより現実的に変えていき、わたしを追いつめる。
これはただの悪夢じゃない。紅い鬼の嫉妬にも似た呪いが作り上げた夢。
悪夢の中では人形にすらなれない。捨てた心を押し付けられ、わたしは必死で走り逃げるだけ。現実では枯れた涙も、ここでは感情と共に垂れ流す。
自分の荒い息遣いが耳につき、裸足に湿った土がこびりつく。月の光が僅かに木々の輪郭を浮かび上がらせ、細い枝は生きているかのように手招きをする。
走る度に首の鈴があざ笑う。後ろを振り返れば闇に紛れて見える紅。……足が痛い。いつまで追いかけてくるの?
暗闇でよくみえない道無き道を手探りで走り抜ける。木の根を越えてぬかるんだ地面に足を取られても、足を動かすのをやめてはいけない。
逃げないと。戻らないと。道からずいぶん外れてしまった。早くあの砂利道に戻らないと。
急いている気持ちとは裏腹に、心臓や肺は悲鳴を上げて足は止まってくれと泣き叫んでいる。でも止まれない。止まるだなんて出来ない。
おかしい。夢の中のハズなのに。苦しさも地面の感触も、まとわりつく湿気もひどく現実味を帯びている。
「あっ」
石につまづいて地面に突っ伏す。湿った土の臭いが鼻の奥をつんと突いて、疲労しきった肺に滑り込んだ。冷たい泥が、体のそこかしこに張り付いて体温を奪う。
しばらく肩を上下させて呼吸の乱れを整える。長く走っていたせいか酸欠状態になって頭がくらくらする。汗も滝のように流れて、雨にでも降られてずぶ濡れになった時と同じ。生ぬるい風が吹けば体温と一緒に意識まで持っていかれそう。
そうやっていつまでも倒れて居たかったけど、すぐさま意識が研ぎ澄まされた。鼓膜に心臓の悲鳴が聞こえ、それに紛れて紅い足音が近づいてくる。
だめ! 立って逃げないと!
限界をとうに超えている体に鞭を打つ。力を入れて奮い立たせるも、怯えているように震えて動いてくれない。お願いだから動いて! 追いついかれる! それでも体は悲痛に唸るばかりでわたしの願いを叶えてはくれない。
土の上で溺れているみたいに手足をじたばたさせてもがく。少しでも遠くへ。枯れた落ち葉の海を必死で這おうと腕を伸ばした。
「立てないのカナ?」
背後から掛けられた声。怯えて顔を強張らせても、もう遅い。襟首を掴まれて一気に後ろへ引っ張られる。
地面が急激に離れて放り投げられれば、背中に強い衝撃が一瞬にして広がり、内蔵まで打ち震える。強く当てられた木は枝を揺らし、わたしと鬼との間にまだ青い葉を数枚降らせた。
「ま~だ戻ろうとしているのカ? いい加減諦めたらどうだ?」
心臓が痛い。足が痛い。息が苦しい。背中の激痛に喘ぎながら木にもたれ掛かり、硬い幹の上を滑ってずるずると足を崩した。
「……痛ぁっ」
しゃがんで前屈みになれば、途端にびりっとした痛みが背中に走る。痛さに顔をしかめていると、上から鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「痛いとは結構なことダ。俺の言いつけを破った罰カナ」
「言いつけ……」
滲む目で紅い鬼を見上げた。腕を組んで、牙が見えるくらい深く笑んでいる。でも冷たく鋭い眼差しは決して笑ってなんていなかった。
「俺は他の奴らと口を利くなと言ったハズだ。なのにお前は破ったあげく、尻尾まで振るとは。……ナァ? 鈴音ぇ」
「鬼さんが……思っているような……仲じゃ、ないです」
ヒューという呼吸音と共に掠れた声で力無く応える。鬼が目前で腰を落とし、指でわたしの顎を持ち上げる。
「ほぉ? 想い人じゃないと?」
細められた紅から逃げるように両目を閉じる。
そうだ、と返事するのが不思議と辛かった。ほんの少し会っただけだけれども、恋愛とはほど遠い想いだけれども。友達とも家族とも違う気持ち。
口を何度か開け閉めするが、何も言えずに黙る。なんて返事をして良いか分からなかった。好きとは違うけれど、でも、違うとも言い切れない。わたし自身、青年に対する気持ちに自信が持てなかったのだ。
「答えんカァ……」
そっと顎から指が外される。薄く目を開けば、紅い鬼はニヤリ笑んでわたしから一歩離れた。
「逃げナ」
「え?」
聞こえた声に眉を寄せる。
「さっさと行け。獲物がとまっていてはつまらん」
ずるりと赤い舌で口端を舐めあげる。
何を言っているの? 逃げろって? わたしは鬼の意図が分からず、戸惑いつつも、言いようのない緊張から体を震わせた。
「ナンだ逃げないのかぁ? それならたった今、骨の髄まで味わってやろうカ。なぁ~に夢の中ダ。ここならお前を喰らっても問題はないだろうヨ」
両脇を持ち上げられ、無理やり立たされる。髪が揺れて露わになった首筋に、鬼の舌が乱暴に這いまわり胸元の襟に赤銅色の手が近づいた。
「嫌っ」
伸ばされた手に、わたしは鬼を突き飛ばすとその脇を死に物狂いですり抜け、転ぶように駆けだした。
「そうこなくっちゃあナァー。よし、それじゃぁ十数えてやろうカナ」
後ろを振り返らず傷だらけの身体を引きずってひたすら森の中を走る。
自分の吐息に混じって背後から楽しげな声が響く。
「ひとぉつ。ふたぁつ」
もう足が痛い。背中が痛い。
顔を痛みに歪ませている間にも、高らかな紅い声が追いかけてくる。
「みぃっつ。よぉっつ。いつぅつ」
肺が痛い。息が苦しい。
喉が締め付けられる。
「むぅっつ。ななぁつ。やぁっつ。ここのぉつ」
心臓が痛い。頭が痛い。
でもだめ。止まったらいけない。早く逃げなきゃ。早く戻らなきゃ。
「とぉ!」
響いてくる低い声と同時に、森が一際大きくざわめいて闇が動く。吹いてきた突風に急き立てるように背中を押されれば、あっけなく地面に倒れこんだ。
「ククッ……さーて、追いかけるとするカァ!」
狂喜じみた鬼の声。
ハッとして身体を無理矢理起こし、がくがくと軋む体を非情にも叱咤してまた駆け出す。
やめて! もう来ないで!
追いかけて来ないで!
泣きながら走り抜ける背後で、狂ったように笑う声。無邪気な悪意に笑う三日月。鬼の本性を露わにさせて追いかけてくる。
青年と口を利いたことが、そんなにも腹に据えかねる事だったんだろうか。ここまで狂気に歪んだ紅い鬼を見たことがない。
いつになったらこの鬼ごっこは終わるんだろう。捕まえられても立場が逆転することは決してない。
じわじわと光が削られていく。森が深くなる。帰り道が分からない。
暗い森に響く、泣き声と笑い声。
むせるような吐息が近づいてくる。軽やかな足音が背後に迫る。
――もうやめて。
なびいた髪に、鋭い爪が伸ばされる……。
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頭を撫でられて重い瞼を上げる。
歪んだ視界に薄暗い部屋。浅い呼吸を繰り返し、鉛のように重く感じる体は汗のせいで冷えきっている。まるでさっきまで走っていたみたいに。
また眠ってしまったんだ。眠らないように、気をつけていたのに。
心臓の鼓動が耳元まで響いてうるさい。頭は割れそうに痛い。最悪な目覚めだ。
「い~ぃ夢が見れたか? ……鈴音ぇ」
耳に吐息を感じてびくりと体を震わせる。
目を上げれば笑う三日月に覗く牙。冷たく見下ろす妖しい紅。長い指が前髪を掻き上げてそのまま後ろへ滑らせる。
――鬼さん。
口を開くもやはり声は出てこない。夢の中で散々喚いていた悲鳴も泣き声も今はない。出るとするなら僅かな吐息だけ。
「鬼ゴトは楽しかったナァ鈴音。また遊んでやろうカ?」
やつれているであろう自分の顔に鬼の手が添えられる。夢も現も、わたしに逃げ場なんてものはない。鬼はどこまでも追いつめてくる。
白い籠の中。懐かしかった青年の声も、もう聞こえない。妖しい旋律も耳へ届かない。
ただひたすら悪夢が繰り返される。