十八ノ怪
機嫌の良い鼻歌が後ろから聞こえてくる。するりするり何度も櫛がわたしの後ろ髪を梳く。
「鈴音の髪は見事だナァ。上等な絹のようだ」
褒められて悪い気はしないけれど、鬼が言うと素直に受け取ることに対して何故だか抵抗を感じてしまう。けれどお礼を言わなければ。でないと途端に機嫌が悪くなって怖い思いをしてしまう。
「ありがとうございます」
心が籠もっていなくとも言わなければいけないお礼は、なんだか虚しさを感じる。鬼さんはわたしがそう思っているのを知っているんだろうか。
「さて今日はなにをしようカナ」
櫛遊びに飽きたのか、わたしを抱き寄せて頭を撫でる。その仕草に不快感を感じたものの、チャンスだと背後に神経を集中させながら慎重に口を開く。
「あの、ススキの場所に、行きませんか?」
「ススキ?」
どくどく鳴る心臓に落ち着いてと懇願しつつも、わたしは言葉を続けた。
「はい。また行きたいなって思っていたんですけど」
「……ほぉ? お前があそこを気に入るとは意外だナァ」
鬼は髪を一房とってくるくると弄び始める。
もちろんあそこに行っても、鬼さんがいたら青年に会えるわけがない。そんなこと分かってるけど、でも、少しでもチャンスがあるなら。
「駄目……ですか?」
ちらりと振り返って様子を伺う。背後からなんの言葉も返ってこず、しきりに頭を撫でたり何度かわたしの体を抱き直す紅い鬼。
駄目なら駄目だと言って欲しい。この無言の時間がなにより辛いし怖い。
「どうしても行きたいカ?」
「え? ……は、はい」
いきなり投げられた質問に反射的に答えてしまう。確かにどうしても行きたかったけれど、あまり露骨にしてしまっては色々勘ぐられてしまうんじゃないかな。
落ち着かない心持ちで知らず知らずの内に目がきょろきょろ動いてしまう。わたしは自身を落ち着かせようと、隠れながら深呼吸を繰り返す。
「どうして行きたい? 誰か会いたい奴でもいるのカナ?」
「えっ」
心臓が跳ね上がる。それこそ口から飛び出るかと思ったくらい。
「い、いるわけ、ない、じゃないですかっ」
明らかに動揺した口調。上ずった声。これなら黙っていた方が良かったと気づいても、既に遅くて。するりと腕ごと逞しい腕に締め上げられ、思わずうめき声が口から漏れた。
「嘘はいかんナァー、鈴音ぇ」
骨と骨が軋み合う音が自分の内側から聞こえてくる。
苦しい。痛いっ。
「俺が気づいてイナイとでも?」
「やめ……て……」
「鈴音は甘いナァ~」
耳に軽く歯を立てられるが、それよりも内蔵が押し潰される感覚の方に必死で構ってられない。
「痛い……離して……」
ふっと締め付けが弱まる。その途端、畳の上に倒れ込んで痛さの余韻に咳き込んだ。
なんで? どうして知っているの? なんで分かったの?
痛みと吐き気に体が震えるなか、疑問ばかりが浮かんだ。鬼はわたしと彼が話しているのを知らないはず。なのになんで?
「お前はやはり油断ならんナァ」
強引に肩を掴まれて仰向けにされ、顎を掴まれる。強制的に視線を合わせられれば、煌めく紅が飛び込んできた。
「記憶をとってやろうか?」
記憶をとる?
怯えた目で見返すと目の端で鋭い八重歯が見える。
「そうすればなんの疑問を抱くことなく俺に従う。喜んで体も心も差し出す気になるカナ」
「い、いや……」
「他の奴に見向きもしなくナる」
ぎこちなく何度も何度も首を振る。
鬼の言いなりになるなんて嫌だ。まして心身ともに捧げるだなんて。
「嫌か? それなら大人しく」
ぎりりと顎に爪が食い込む。
「俺に従っていろっ!」
怒鳴り声が頭と体の奥まで轟き響いた。まるで雷がわたしの中を駆け巡ったみたいに。
わたしは本当に落雷にあったように全身を痙攣させ、糸が切れたみたいに意識を途切れさせた。そしてまどろむ闇の中に逃げ込んだのだ。
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柔らかな感覚に目を覚ます。
ゆっくり体を起こすと布団の上に寝かされ、いつものように白い格子がわたしを囲んでいた。
籠の中に戻されたんだ。
呆然としながら部屋の隅にある灯籠を眺めた。柔らかな光を灯しているのをみると、まだ眠る時間帯ではなさそうだ。
わたしは鬼さんを怒らせてしまった。これでは青年に会うどころか、籠の中に閉じこめられたまま一生を過ごすことになるのかもしれない。
布団の上で膝を抱えて丸くなる。
……わたしは一体なにをしているんだろう。正体不明の青年に、勝手に力になれればだなんて思って、そろこそ勝手に突っ走って。それにこの期に及んで人間でいたいだなんて。悪あがきも良いところだったんだわ。
鬼さんの言うように大人しく従って、闇に染まるのを待つしかわたしには許されていないんだ。
みんなそうして人間をやめていく。わたしだって例外じゃない。
もうあの琵琶の音を聞くことはないだろう。青年のことを考えるのはやめて、ここでどう暮らしていくのかを考えなければ。人間にこだわっていては、この世界では生きていけないのだから。
ぼんやり着物の裾から覗く自分の足の指をみつめる。特に何をする気にもなれず意味なく足先を動かした。
日の光を浴びない肌はわたしが思っている以上に青白い。いつかはまた常闇の妖気とやらにあてられて、また体のどこかしらが灰に染まるんだろう。
わたしは鬼となってこの世界で生きていかなくてはならないのかな。死んでしまえば当初の約束が果たされないのだろうか? たとえ人間のままで居られても、わたしはずっと誰と口を利けることなく、鬼のお酌をして一生を終えるのかな。
重い息を肺から追い出す。焦点の合わない視界が揺れると不意に青年の幻が見えた。無意識のうちに青年を思い出してしまうんだろう。
この癖も直しておかないと。もう二度と話なんて出来ないのだろうから。鬼さんに知られてしまったのだから。
そう、再度深く息を吐いたところではっとして目を見開いた。
「……あっ」
勢いよく顔を上げる。
そうだ。鬼さんにバレたということは、鬼さんも青年のことを既に知っているんじゃ。そしたら彼は、鬼から何かしらの危害を加えられているのでは……。
じっとり手のひらに汗が滲んだ。
下手したら彼が殺されてしまうかもしれない。何とかしないと。
ぎゅっと口と両手を、それぞれ強く結ぶ。
わたしは鬼に何をされても良い。だからもう誰も傷ついて欲しくない。
今度こそ助けてあげたい。それがわたしの自己満足だとしても。愚かだと笑われても。
ふわりと風に揺れたように灯籠の火が揺れた。色を変えて夕闇に部屋が染まる。
鬼がくる。
紅い鬼が。
わたしは行儀良くその場に座り、背筋を伸ばした。
抗うのはよそう。けれども、これだけはなんとしてでも叶えて貰わねば。