十七ノ怪
早く。早く寝ないと……。でも神経が昂ってなかなか寝付けない。
悪戦苦闘しながらも、なるべくなにも考えないでひたすら目を閉じ続ける。いくらか時間が経過するとわたしの努力が実って、やっとうとうとし始め意識が遠のきだした。すぅーっと意識が沈んでいく。
「鈴音」
がくっ。沈んだ意識が急上昇して頭が弾けたように動いた。せ、せっかく眠れそうだったのに。
毒づいて声をかけてきた鬼に振り返ろうと体に力を入れたが、やめた。わたしはすごく(特に精神的に)疲れている。もうお酌なんてしてられない。このまま寝かせて頂きます。
寝ぼけた頭で心中呟き、また睡魔に身を任せた。たとえ揺さぶられてもわたしは起きない。とにかく疲れているのだ。やっと眠れるんだから。
「おい鈴音」
背後からまた鬼の声が聞こえる。今からお酌なんてしたくない。寝かせて下さい。構わずわたしは寝続けた。
……ん? 寒い? なんだか悪寒がする。
ひやりと背中から不穏な空気を感じた。ただならぬ気配にのそりと上体を起こす。そして目を擦って振り返った。
「――っ」
息と胸が瞬時に詰まった。かっと目を見開いて硬直する。
いつの間にか傍らに鬼さんが立って、わたしを無表情に見下ろしていたのだ。腕を組んで黙っているところをみると、怒っているのだろうか。妖しい紅がいつもより不気味に光り、いつも角をつり上げている口は真一文字に結ばれていてなんの感情も読みとれなかった。
「どうしたんですか?」
声が震える。直感的に紅い鬼の様子はただ事じゃないと悟り、身体が萎縮する。今起きたばかりだというのに、心臓は早鐘を打っていた。
「あの、どうかしたんですか?」
「お前は理解しているか?」
質問を質問で返されて思わず顔をしかめる。鬼さんは再度低い声でまた同じ言葉を繰り返してきた。
「お前は理解しているのか?」
「何をです?」
「お前はここに残るという事を理解しているか?」
「……はい」
鬼や常闇と付き合っていけ、ということでしょう? 他に何かあるというのだろうか。
「鈴音」
呟いてわたしの肩を素早く掴み、それに驚いて身体をさらに固くすると、そのまま強く押してきた。
「な、何をするんです!?」
抵抗するも力の差は歴然。布団の上に押さえつけられる。
「なにを」
「お前は理解しているのか? ここに残るということを」
強い力で肩を押さえ込まれ、苦痛に眉を寄せる。
なんでさっきっから同じ質問をするんだろう。答え方が悪かったって言うの?
わたしは言いようのない不安に包まれ、だんだん恐怖を増していった。背筋が凍り付いて全身に鳥肌が立つ。
「理解しているのか?」
「して、ます……」
「本当に?」
「はい」
鬼は相変わらず無表情にわたしを見下ろし目を細めると、掴んだ肩に力を入れてきた。肌に爪が食い込んで痛い。
「嘘をつくなっ」
「嘘なんて」
「本当は解っていないくせに」
「鬼さ……」
ひゅっと口から息が出たかと思ったら、鬼が私の首を絞めていた。
どうして。苦しさに鬼の手を剥がそうともがく。
やめて。離して。息が……できない……。
次第に薄れる意識。
さらに暗くなる視界。
もう、だめ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
びくっと身体が跳ねて跳び起きる。ひどく汗をかいているみたいで浴衣はしっとり肌に張り付いていた。
「生きてる……夢だったんだ」
どくどく鳴る胸に両手を結んで、深呼吸を繰り返す。
あの夢はなんだったの。どうして鬼さんはわたしの首を絞めてきたんだろう。
腕で自分を抱えて震える。殺されるかと思った。
「ん……」
聞こえた声にぎくりとするが今の自分の状態に気がついて溜息をもらした。
そうだ。首輪をつけられた後、鬼さんの抱き枕にされたんだ。きっと締め付けられているせいであんな怖い夢を見たんだわ。
冷や汗が背中にまだ残っているものの、どうにか気持ちは持ち直した。鬼から抜け出そうと体をよじる。が、
「……やっぱり駄目ね」
寝ていても解いてくれない鬼の腕。うんうん言いながらもう一度体を捩るがやはり抜け出せない。あぁ、もう。
最近寝る前にお酌をすると、わたしを抱き枕にして寝ることが度々あった。なに気にこれが地味に辛い。
寝返りも出来ずに寝技をくらっているに等しい状態のわたしは、安眠なんていう言葉とは無縁で、数時間この体勢のまま鬼が起きるまで耐えなければならなかった。
わたしも寝てしまえば良いんだけれど、息苦しくてそう簡単に眠れないし、同じ体勢をとり続けるので解放されるときには体がぎしぎし痛い。しかも籠に戻ってもまだ十分な睡眠をとる前に起こされてしまうので、結局睡眠不足が解消されることはなかった。
しかもこの紅い鬼。なにしようと起きない。
わたしが叫ぼうが暴れようがすやすや寝ている。信じられない。一度寝たらなかなか起きない人、いや、起きない鬼らしい。
諦めて体から力を抜く。深く息を吐けば不安げに鳴いていた鼓動も落ち着いてきてくれた。
青年は今頃何しているのかな。ふと、また青年のことが頭を横切る。
どこに住んでいるんだろう。名前はなんて言うんだろう。青年を知っていた人たちはどうして青年を無視するようになったんだろう。
どうしても青年の悲しい顔が頭から離れない。あの表情が頭から離れられないのだ。
あぁそういえば。みっちゃんも、彼女もあんな顔をしていたんだ。
寂しい、悲しい顔。深く傷ついた優しい顔。そうだ。わたしはかつての親友の顔と、あの青年の顔を知らず知らずの内に重ねているんだ。
みっちゃん今どうしているのかしら。まだあの白い夜叉みたいな鬼の所で、暮らしているのかな。彼女は幸せに過ごせているんだろうか。
あれが幸せだったのか正直わたしには分からない。
あの冷徹そうな夜叉がみっちゃんを大事にしているとは思えなかった。鬼は残酷で甘い言葉を巧みに使って、人の弱みにつけ込む。夜叉も鬼さんも、わたし達人間を騙して弄んでいるに違いない。
あの青年もそうなんじゃないかな。記憶や名前を消されてしまったみたいだし。だとしたら名前と記憶が戻れば帰れるのかしら。
そう言えばわたしってこの世界のことなにも分からないのよね。鮮明に記憶が蘇ったこともあってある程度のことは思い出せたけれど、それでも情報不足だわ。
自分の身を守る為にも、青年の為にもこの世界の事をもっと知らなければ。
後ろで寝息をたてている鬼さんがはたして親切に教えてくれるのか分からないけれど。聞き出すには他に方法なんて思い浮かばない。
鬼さんとは話す時間はたくさんあるのだから、今度じっくり聞き込まなければ。
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そして紅い鬼にこの世界の事を聞いたのは間違いだったんだとわたしは心底後悔した。饒舌に喋る鬼を目の前にあくびを噛み殺して、こっそり溜息を吐くの繰り返し。まだ終わらないのかしら。
しびれを切らしてわたしはちらりと目を上げた。
「ソコで俺は一等高価な漆塗りを選んダ。他の奴らは金銀ばかり手に取ったがアレは実は木の葉でナァ」
「あの鬼さん」
「俺だけが術を見抜いて宝を持ち帰ったんダ。他の奴らのあの悔しそうな顔が見物だったカナ~。そこでダナ」
「鬼さん!」
少し声を張り上げて話を止めた。
鬼は小首を傾げてなんだ? と眉を潜める。
「それって常闇とどう関係があるんですか? どう聞いても鬼さんの武勇伝にしか聞こえないんですけれど」
「俺の話が聞きたかったんじゃないのカ?」
「違いますよ! 常闇のことを聞きたいってもう何度も言ったじゃないですか」
イライラしていたせいもあり、怖さも忘れて強い口調で鬼に言う。
何で鬼さんの武勇伝なんか聞かなきゃいけないのよ! もう色々聞きすぎて飽きたし!
「常闇のことと言ってもナァ。お前はどこまで知ってる?」
「えっと、真っ暗で妖怪や幽霊がいて、とてつもなく広い事ぐらいしか分からないです」
「まぁ大体そんなもんカナ」
大体そんなものって……。なんてアバウトな。だったら別の質問をしたほうが良いのかな。
わたしは眉間に皺をよせたまま、再度口を開いた。
「じゃあ、ここでは人間はやっぱり珍しいんでしょうか? わたしの他に人間はいないんですか? ……見たことないですけれど」
「昔に比べれば数は減ったカナ。わざわざ人の世に行って連れてくる奴も最近はいないしナァ。まぁ俺が知っている範囲では人間はお前だけダ」
「ここに来た人間はみんな妖怪になるんですか?」
「妖になる奴もいれば、死んじまう奴もいるカナ」
死んでしまう。その言葉にごくりと喉が鳴る。
でも生きていれば妖怪になったとしても、名前と記憶さえ取り戻せば帰ることは可能なのかしら。もしそうなら、例え彼が妖怪になっているのだとしても、帰ることが出来る。
……。うまくいけば、みっちゃんも……。
また二人に会えるかわからないけれど、聞いておいて損はないハズだわ。知らない間に落ちていた視線をあげて、恐る恐る口を開く。
「鬼さん……妖になった人達も名前や記憶が戻れば、帰れたりするんですか?」
途端にぎろりと睨まれる。肝を鷲掴みにされた気がしてきゅうっとお腹に圧迫感を感じた。
わたしが逃げる算段でもつけてると勘違いしたのかな。慌てて首を左右に振って声を絞り出す。
「ち、違いますよ! そうじゃなくて、どういうシステムというか呪いというか仕組みなのか気になっただけで、逃げようとか考えてないです! それに何度も言うようにわたしは鬼さんと約束したんですから、絶対に逃げたりしません」
「ほぉ~」
鬼さんの目が猫のように細められて、明らかに釈然としていない。探るように視線が絡みついてくる。これは完全に腹を立てているわ。
「そんなこと聞いてどうする?」
「ただ気になっただけで、特には……」
「なら知らんで良いカナ」
ふいっと顔を背けられた。
どうしよう。今現在何一つ情報が得られていない。これじゃあ駄目だわ。鬼さんに訊けないならほかの方法を探すしかないけど……。
「あの鬼さん」
「ナンダ」
「他の妖怪にも会ったりしては駄目ですか?」
「ダメだ」
「一人で散歩も駄目ですか?」
「ダメだ」
「現代服が欲しいんですけど」
「ダメだ」
「……話し相手が欲しいです」
「必要ないカナ」
にべもない。なさすぎる。それじゃあ何なら良いと言うんだろうか。
肩を落として俯くと、ふいに髪を梳かれた。
「お前は俺に何も気にせず俺に飼われていればイイ」
「ずっと閉じこめるつもりですか?」
「たまに外へ出してやっているダロウ」
「あんな嫌な思いはもうしたくないです。それなら一人で散歩するか、以前お世話してくれた子鬼さんに会って話がしたいです」
「俺が代わりに話してヤル。お前が楽しめる話だって聞かせてやるゾ」
さっき自分の武勇伝しか話していなかったくせに。
尖らせようとした口をなんとか押しとどめて強く結ぶ。
「まぁまぁ。兎に角、飯にしようカナ」
いつものように紅い手が鳴らすと、部屋に乾いた音が響いた。
結局、何も情報を得られないまま食事の時間になってしまった。粘り強く鬼さんから情報を引き出すしかないだろう。