十四ノ怪
今聞こえた声って。
ススキの光景が広がる、そこで流れた妖しい旋律。穏やかな表情をした一人の青年。頭の中で再生された光景に顔を上げる。
「そこにいるのはもしかして、あの、琵琶の人?」
格子に向かって戸惑いつつも声をかける。
「うん。そうだよ」
やっぱりあの時の青年だ!
自分の顔が柔らんだのを感じながら格子に近づこうとしたが、縄の拘束に阻まれて近寄れない。ぎりりと両手首と両足首に縄が食い込んで痛い。
顔が見たかったのに。これじゃあ、格子の外が見えない。
「どうしたの? そこにいるのかい?」
心配そうな声が格子の向こうから聞こえ、顔を向ける。相変わらず星のない闇夜が広がるばかりで人の姿どころか雲すら見えない。
どうして彼の姿が見えないんだろう? もしかして外からだと、格子の位置が高いところにあって中が見えないのかもしれない。
「ごめんなさい。いま格子に近寄れないの。……でも、まさかこんなところで声を聞けるだなんて」
「僕も驚いたよ」
青年の声は心なしか嬉しそうに聞こえて、わたしも胸に温かいものを感じた。声を聞けて嬉しい。素直にそんな気持ちが沸き起こって不安や寂しさが消える。
でも、ここにいるってことはお客さんとしてここに来ているのかな。
「ここには――その、お客さんとして来てるの?」
訊いて良いことだったのかちょっと迷ったけれど、無性に知りたくて口をきいてしまった。なぜだか緊張して裾をぎゅっと握ってしまう。
「ううん。僕は琵琶を披露するために、ここに呼ばれたんだよ」
「そ、そうなんだ」
なんだ。良かった。お客さんとしてここにいるわけじゃないんだね。
別に彼がここでお客さんとして来ていても、わたしが文句を言える立場じゃないのに、なぜだか胸を撫で下ろしてホッとしてしまった。
どうしちゃったんだろうな、わたし。
「君はどうしてここにいるの?」
不意にかけられた言葉に、少し考えてからわたしは話した。
「鬼に連れて来られたの。どうして連れてきたのかは、分からないんだけれど」
そうなんだ。鬼がどうしてここに連れてきたのか、わたしもよく分からない。着飾らせるためか、花魁といちゃつくのを見せつけるためか。
でも、わたしに術をかけたのを考えれば、自分との力関係をわたしに再認識させるためだったのかもしれない。
あのススキでのことがあってから、わたしは何度か鬼に噛みつくような態度をしてきた。だからお仕置きとしてあんなことをしてきたのかもしれない。わたしに自分が鬼の手の平にいる事を思い出させるために呪いをかけて、どうにでもできると警告したのかも。
……嫌だ。また思い出してきた。
鬼に化かされた時に過ぎった記憶。悲惨な高校時代の恋愛。怯えを隠して笑顔の仮面を被り続けていた日々。元の世界に戻ってもわたしの心はずっと紅い鬼に囚われ続けていた。
そして揺さぶりをかけられ、あっさり不安や本能から逃れようと紅い鬼に救いを求めた自分。今思い出しても罪悪感で押しつぶされそうだ。
「大丈夫?」
「あ、う、うん! 平気!」
無意識に溜息でもついていたのかな。青年の心配する声に慌てて顔をあげて、彼から見えもしないのに微笑んだ。心配かけちゃいけないもの。
するとわたしの声に応えるように、外から琵琶の音が響いてきた。ちょうど琵琶を鳴らして返事したみたいに。
それがちょっとおどけたような音だったから、ふふっとつい笑い声を零してしまう。
「いつも琵琶を鳴らしているのね」
「鳴らしていないと、どうにも落ち着かなくて。ずっと何も無いときでも弾いてしまうんだ。……変かな?」
「ううん。わたしはその琵琶の音、大好きよ」
「そうかい? ありがとう」
はにかんだ柔らかな声とともに琵琶も鳴る。まるで青年の感情を琵琶が代弁しているみたいで不思議だわ。そして聞いているわたしも、なぜだか心が落ち着いてくる。
「あなたはこの世界でずっと暮らしているの? 人間が珍しくないみたいだけど」
青年には出会ったときに人間かと尋ねた。でも彼は寂しそうに微笑むだけで、人間かどうか応えてはくれなかった。
けれどこんな危険な常闇(場所)で一人で琵琶を弾いていたのを見た限り、わたしみたいにこの世界に来たばかりの人間だとは思えないし、かと言って他の妖怪とは違ってわたしを興味深げに接したりせずにきちんと受け答えしてくれる。
わたしは青年の正体が出会った時からずっとになっていた。
「僕は自分が誰か分からないんだ」
「分からない?」
「過去の記憶もないし、名前も忘れてしまった。ただ手に持っていた琵琶を弾き続けて、今日まで過ごしてきたんだ」
「誰かにこの世界に連れてこられた、とか?」
わたしと同じなら、彼も誰かに名前を奪われて存在を囚われているのかもしれない。
「それすらも分からないんだ。……君は自分が誰か分かっているの?」
「うん。鬼と契約してこの世界に来たから」
友達を帰す代わりに、わたしはこの世界に残った。思い出すとしつこく不安が心に広がる。やっぱりこの事実は慣れないわ。
「記憶も名前もあるの? 取られたりはしなかった?」
「名前は取られてしまったけれど、記憶は残ってるの。家族が消えたわたしを探さないように、自分のことは忘れさせてって鬼に願いしたら、だったらわたしの記憶は消さないでおくって残してくれたの」
「変わった鬼様なんだね」
「うん。かなり」
ついでに意地悪で変態だけど。
「でも君は家族に忘れられてしまうのは、辛くないの?」
「辛くないって言ったら嘘になるけれど、わたしがみんなを忘れちゃうより、みんながわたしを忘れたほうがまだ良いと思うの。わたしは家族や友達を覚えていたいから」
「君は強いね」
ううん、そんな事はない。むしろ逆だと思う。覚えていたいと願うのは嘘偽りないけれど、みんなを忘れたら、わたしが人間でいることまで忘れてしまう気がして、怖かったのもあった。
……青年はどうなのだろうか。
「あなたは、昔の事はなにも覚えてないの? まったく?」
「いいや。……ほんの少し、なんとなく覚えている部分もあるんだ。思い出せるのは皆僕をよく呼んでくれて嬉しかった事。けど気がついたら誰も僕を呼んでくれなくなって、こちらが語りかけても聞いてくれない」
消え入りそうな寂しい声。琵琶も同じように寂しく鳴く。
「それだけ。それだけしか覚えてないんだ」
「そっか……」
余計な事を聞いてしまったかな。いい加減、考えなしに尋ねてしまう癖を直さなきゃだめね。
そんなふうにしょんぼりして反省していると、格子の向こうにいる青年が優しく琵琶を鳴らした。
「君が落ち込む必要なんてないよ。気落ちしないで」
「……わたしが力になれれば良いんだけれど」
「ほんとうに君は優しいんだね。そう言ってくれて嬉しいよ。ありがとう」
「そんな! お礼されること言ってないし、それに、そんなふうに言われるとなんだか照れちゃうよ」
あたふたと慌てて手を振る。顔が見えなくてよかったかも。だって、今すごくわたしの顔が赤くなってるから。自意識過剰だよね。本当に、さっきからどうしちゃったんだろうわたし。久しぶりに気を張らなくてすむ存在に、浮かれてしまっているからなのかな。
「せっかく時間があるんだから、何か弾き語りでもしようか?」
「うん、ぜひ聞きたい!」
青年の言葉に、素直にわたしは弾けるような返事をした。
「それじゃぁ一つ、御伽話でも」
青年の繊細な指が揺れるのを思い出すと、記憶と重なるように琵琶が歌った。
「昔々……」
青年の優しく懐かしい声で語られる昔話は、わたしの心を癒していった。心が洗われるような暖かい木漏れ日のような雰囲気がわたしを包み込み、冷えきろうとしていた心を温めてくれる。
琵琶が優しく妖しい旋律を流し、青年の柔らかな声がその中を泳ぐように唄えば、闇夜に光を感じて次第に心が晴れていく。
青年はわたしから陽の匂いがすると言っていたけれど、わたしはまるでここには存在しない太陽を見るかのように、彼をまた眩しく思った。
ほんのりと頬と胸が熱くなっていく。
恐怖ではない何かに鼓動が高鳴るけれど、どこまでも穏やかで幸福感さえ感じる。
わたしは忘れようとしていた感情を、また胸に灯し始めていたのかもしれない。でもそれをはっきりと認めたのはもう少し後のことだった。