十三ノ怪
焦れた唇に勿体ぶった感触が掠める。でもそれだけでわたしは痺れることが出来た。わたしの本能が警鐘をうるさく響かせながらも、違ったところでは渇望を剥き出しにして甘さを求めている。だからわたしは顎を上げ続けた。彼にもっと欲しいと、切ないくらい唇で懇願した。
彼がくっと喉の奥で笑った気がした。目を開けて顔を伺おうとしたけれど、すぐにそれは出来なくなる。
まぶたにされた柔らかな口付け。それから額、頬と順々に唇を当てられ、その度に電撃が走って夢うつつでありながらも頭の中に雷光が走った。
とろけるような波の連続。体の力が抜けてよろめき、意識が飛びそうになる。それなのにわたしの唇は未だしつこく求め続けた。
もっと欲しい。唇に触れて欲しい。奥底で本能が自分の理性を踏みつけて求め、下敷きにされた理性は『危ない』『目を覚ませ』と悲鳴を上げている。
分かってる。分かってる。
こんなことしてはいけないと分かっている。でもどうしようもない程、欲しくて仕方がない。支えが欲しい。寂しさから逃れたい。全てから解放されたい。
理性と本能に挟まれ葛藤していると、心と体がばらばらになっていく気がした。
少しの間があってから唇が触れられ、その瞬間だけ心身が繋がる。
唇に触れたのは甘いものではない違う感触。そっと目を開ければ、彼の指がわたしの唇をなぞって離れたところだった。
「これ以上はおあずけ」
「え……」
意地悪い彼の口元。どこかで見たことがある気がするけれど、記憶をたどるよりも本能が別のものをねだり、阻まれる。
「欲しいのカナ?」
「欲し……い……?」
言いかけて、聞こえた訛に違和感を覚える。やっぱり何か引っかかる。
やかましい欲望を押さえつけて、ぼんやりする意識で彼の目を見つめる。……紅い。紅い瞳。
ん? 紅い?
眉を寄せたわたしに男は目を細めて笑みを浮かべると、三日月のように口が裂けて、そこに八重歯を覗かせた。
わたしがきょとんとして見守る中、みるみる肌を赤銅色へ変えていき、顔には朱の線が走り頭から二本の角が生え、着ていたスーツは歪み霞むと格子柄の赤黒い着物に姿を変えた。
「そこまで酔うとは思わなかったナァ~」
「な、なに……え?」
なにがどうなっているの? 間抜けた声を上げて、夢から覚めたばかりの寝ぼけた状態で頭が混乱してしまう。
目の前にいたスーツ姿の男性が消えて、代わりにいるのは紅い鬼。
「良い表情してたゾ、鈴音ぇ」
「え……」
言われてきっかり十秒。ようやくはっとした時には顔から火が出ていた。ううん、それどころか首の辺りまで瞬時にして熱くなり、文字通り真っ赤に染まった。
「なな、なんで! こんな、こんなこと!」
「なに恥じらっているンダ。しっかり酔っていたクセに」
「あ、うっ」
恥ずかしさのあまり、立ち上がって数歩後ずさる。
言い返したいのに言い返せない。こんなふうに痴情を晒さなければいけなくなるだなんて! 嫌悪感と罪悪感でいっぱいだわ。
顔を真っ赤にさせながらひたすら俯いた。自分がこんなに簡単に誘惑に負けたのが信じられなかった。ううん、信じたくなかった。あまりに狼狽してしまって、わたしはそのまま押し黙ってしまい、顔も上げられないし声も出せない状態になった。
もう本当に、穴があったら入りたいくらいだ!
「さてお前さんをからかえたんだ。酌してくれ」
「お酌……」
まるで何事も無かったかのような鬼の態度に少しだけ顔を上げた。鬼は特にそれ以上わたしになにかを言ったりせず、徳利を振った。
良かった。もっとからかわれるんじゃないかと思っていたから、鬼の態度に少なからず安堵して肩の力が抜ける。
「ここで飲む酒も美味いゾ」
無邪気な子供みたいに笑顔を浮かべる鬼。そんなにお酒が好きなのかな。それにしても……
「鬼さんここでもお酒を飲むんですか。他にすることないんですか?」
まだ気恥ずかしさもあって、呆れた口調をしながらも直視できずちらりと鬼の手元に目を向ける。
「他にすること? ナンダ。お前相手になるのか?」
「え? 相手?」
いきなり何を言うんだろう。相手と言われてもなんの相手かも分からないんじゃ、なりようが無い。ちなみにわたしは囲碁も将棋も出来ない。上手いかどうかはともかく、オセロなら出来るけど。
あからさまに眉を寄せるわたしに鬼は意地悪く口端をあげて、まるで内緒話でもするかのように声を潜めた。
「ここがどこか分かるカ?」
「うーん旅館ですか? ……あ、料亭ですか?」
かなり広い宴会場もあったし、旅館かと思ったけれども、妖怪の料亭ならこれだけ広い料亭があってもおかしくないよね。
わたしの答えに鬼はニヤニヤ笑っている。もう、なんだっていうの。鬼はしばらくあたしを焦らす様に黙ってから、そっと囁いた。
「遊郭カナ」
遊郭。
あぁそうだったんだ。そういえば遊女もいたんだし、当たり前か。
「そうだったんですか。遊郭なんて初めてだからピンときませんでした。ここって遊郭なんですね」
「……んん?」
なにか変なことでも言ったかしら。鬼は肩透かしでも食らったかのような表情を浮かべている。
「なんです?」
「お前、遊郭って分かるカ?」
「キャバクラみたいなところでしょう? ほら綺麗な女の人がお酒を注いだり、お喋りする所でしたっけ。相手なんて言うから何かと思いましたよ。だってお酌ならいつもしているし、今更じゃないですか」
「……」
「違うんですか?」
ちょいちょいと鬼が指で首を傾げるわたしを呼ぶ。わたしは眉を寄せながら身を寄せると、鬼が耳元に口てを寄せ囁いた。
うん……うん。
…………ん? ……え?
「えぇえぇぇ!?」
「ナンダ知らなかったのカ?」
「いやまさかそんな。じゃ、じゃあ、鬼さんはあの花魁とそういうことしていたんですか!?」
「そりゃ秘密」
「変態じゃないですか!」
うわぁ。大変なところに来ちゃっていたんだ。じゃあ障子の廊下で見かけたお客さん達も、そういうのが目的でここに来ているワケなのね。うぅ~鳥肌たってきた。
「で、お前相手」
「しません」
鬼の言葉を遮って即答する。
なんで鬼の相手にならなきゃいけないの。冗談じゃない。
「こんなに美味そうなのにナァ」
鬼の視線から逃げるように顔を背ける。本当に、どういうつもりでここに連れてきたの。せっかく花魁さんもいるんだし、そっちに行けばいいのに。もし変なことをしてきたら契約違反で訴えてやるんだから!
わたしはすぐさま口元と手を震わそうとする不安を、なんとか握り潰そうと心の中で精一杯強がった。
「紅の鬼様」
いきなり聞こえた声に驚いて部屋の隅に目を向けた。衝立の向こうから一人の女性が顔を出す。
凛とした涼しげな美しさで音も立てずに衝立から姿を現し、その場に正座する。ぴんと張った背筋が物言わせぬ雰囲気を醸し出している彼女。こういうのをクールビューティーっていうのかな。
それにしてもどこから入ってきたんだろう。扉は動いた気配はない。隠し扉でもあるのかしら。
薄い上品な紫の着物に身を包んだ彼女は、戸惑っているわたしをちらりとみて笑った。あの花魁とは違って見下すのとは違う笑み。鬼にもう一度手を突いて頭を下げると、柔らかく微笑んだ。
「瞋恚の鬼様がお呼びです」
「瞋恚? あのジジィまだいるのカ?」
「えぇ。是非お話をしたいとのことで」
しんに? 聞きなれない単語に首をかしげる。紅い鬼さんの知り合いだろうか。
「仕方ないナァ~。挨拶してくるカナ」
鬼は面倒くさそうに言って立ち上がる。それからわたしを指差して花魁に声を掛ける。
「あとコイツを逃げ出さないよう、どこかに繋いでおいてくれるカナ? 脱走癖があってな」
「かしこまりました。丁重にお預かり致します」
繋ぐって……ここでも犬扱い? それに脱走じゃないって言ってるのに。
むっとしてしまうけれども抗議するわけにもいかず、わたしは口を結んで俯いた。
「じゃあナ。い~ぃ子にしてろよ」
ぽんぽんと大きな紅い手がわたしの頭を軽く叩く。わたしはますます眉間に皺を寄せた。
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三畳一間の部屋。金色の壁に深紅の格子窓。ただそれだけで他には何もない。もしあるとするなら両手足にまとわりつく白い縄だ。わたしが動くたびに絡まって動けなくなる。
時間の問題なのかな。ふと先ほどの嫌な感覚が蘇る。
あんなふうに鬼の術に魅入られた時は過去何度かあった。でもその度に今までは助けが入って免れてきた。でも今回ばかりはどうすることもできない。助けてくれる友人も、不完全な契約もない。あのまま鬼がやめないでいたら、どうなっていたんだろう。
不意にどこからか男女の笑い声が聞こえてきた。くすくすと声を抑えた囁き声。それらが嫌らしいものに聞こえて耳を塞ぎたくなる。
背筋が凍る。お腹のあたりに暗くて冷たいものが広がる感覚。これが絶望というものなのかな。ごくりと喉が鳴った。
そうだ、こんな時は懐かしい思い出に浸ろう。このままだと闇に呑まれてしまう。楽しいことを思い出してマイナスな感情を追い払わないと!
わたしは慌てて縋るように、過去の記憶を辿った。
なにが良いかな。
前に友達と見た映画とかショッピングも良いけど、大学の合格通知が届いて打ち上げしたのが一番楽しかったな。春香は普段気が強い癖に、あの時はみんなの前で嬉し泣きしてたよね。わたしも美紀と二人でつられて泣いて、結局三人で泣いたんだっけ。
そういえばお兄ちゃんがくれた図書カード。あれももったいなかったな。こんなことになるなら使いきっていればよかった。中学を卒業した時にお姉ちゃん達から貰ったネックレスも、バックに入れたままだったし。とても気に入っていたのに。
「……ふ」
懐かしい暖かい思い出。なのに思い出せば思い出すほど涙が出てくる。
これを忘れなければ大丈夫だと思っていたけれど、でも思い出すと辛い。とても寂しい。
「寂しい」
呟いて肩を落とす。誰かに縋りたい。なんでもいいから自分を奮い立たせる何かが欲しい。奪われるだけの存在は嫌だ。
でもそんなものはない。わたしはなにも持っていないもの。
わたしは今、独りなんだ。
零れそうになる涙。気を緩めれば嗚咽が漏れてきそうな口。心もとない胸元に虚ろが蝕む。
そんな闇夜に打ちひしがれるわたしに、さわさわと柔らかい風が格子の間から滑り込んできた。
「また泣いているの?」
あの懐かしい青年の声と共に。