十二ノ怪
言いようのない匂いがして何度もむせる。気持ちの悪さに釜から出ようとしても、その細腕から想像もつかない力で押さえつけられる。
「絹。薬草足した方が良いかしら」
「まだ大丈夫よ。新鮮な物ばかりだもの」
腕を海藻みたいなものでゴシゴシ洗われ、頭も髪も同じようにされる。こんなので洗われたら綺麗になるどころか余計に汚くなるとしか思えない。
毒の熱湯だと思っていた釜の中は予想と違ってやや熱い泥のようなものだった。底も浅く、半身浴をしているみたいで膝頭が顔を出している。
ぶくぶくと小さな気泡が膨れては弾けて消える。うぅ気持ち悪いなぁ。感触と匂いが気持ち悪くて、押さえつけられながらも身を捩り続ける。
「ねぇほら、人間の肌って思ったより柔らかいわ。胸も小ぶりで可愛い」
「本当ね。胸は小ぶりでも良いかもしれないわね。ありすぎても逆に嫌がる殿方もいらっしゃるみたいだし」
……胸のことはあまり言わないで欲しい。わたしの背中を擦る少女は珍しそうにわたしの胸元を覗き込んでいる。いくら同性とはいえ、そうじろじろ見られて良い気はしない。知らず知らずに前屈みになって彼女達の視線から隠す。
「ねぇ綾、見て。やっぱり人間の手は五本よ。あの馬鹿だぬき、間違った事を言っていたわ。あいつ六本だって言っていたのよ」
絹という名前だと思われる少女が、わたしの右肩から指先を拭きながらふんと鼻を鳴らす。どこかの狸が人間の手が六本だと彼女に言ったみたいね。どうしてその狸は六本だと思ったのかしら。その狸も人間を見たことがないのかな。
彼女達は雑談を交えながらも懸命にわたしの身体を磨く。綾といわれた子が頭や背中、肩を入念に洗い、もう一人の絹という子が両足や両腕を洗う。
恥ずかしさよりも気持ちの悪さが勝って、わたしは大人しくされるがままになっていた。
「いいわ綾。そろそろ流しましょう」
二人がわたしから離れ拘束が解ける。そこに間髪入れず、油断しかけたわたしの頭に大量のお湯が降ってきた。
ちょっと! 首が折れる! あまりの量に頭から押さえ込まれ、水面に顔が埋もれてあやうく溺れそうになってしまう。手足をばたつかせて水面からようやく顔をだし手で目元の水を拭った。あぁもう、加減して欲しいわ。
何度か瞬きをして目を見開くと、釜に入っていたあの濁った緑は消え、透き通ったお湯が釜に溢れていた。どれだけの量のお湯が注がれたのだろう。良い香りがするのは何か入っているのかしら。手ですくって顔を近づければ、花のような淡い香りが鼻をくすぐった。
女の子たちは手慣れた様子で、どこか呆然としているわたしの身体をまた洗い出した。髪や肌にまだついている緑の塊をお湯で洗い流し、ようやく納得がいったところでわたしを釜から出した。柔らかい布で全身を拭き、肌着を着せる。
疲れた。部屋の隅にあるゴザの上でへなへなと座り込む。他人に体を洗われるのはこれっきりにしたいわ。
いつのまにか火照っている顔に何気なく手をやる。
あれ。なんだかいつもの自分の肌の感触とは違う気がする。こう、肌がスベスベしていて、手のひらに吸いつくような感じ。あの気味の悪い緑は泥パックのような効果があったのかしら。妖怪の世界にも美容ケアは存在しているのかな。
わたしが力無く眺めるなか、彼女達はてきぱきと仕度を整えると未だぐったりしているわたしを立たせ、その場から連れ出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
深紅の着物に錦糸の紅葉模様が舞う。薄く化粧も施され、唇には真っ赤な色が乗せられる。髪も結い上げられて花魁ほどではないけれども、二つの赤い実がなった枝に模した簪が黒い髪に飾られる。
すごい豪華。自分じゃないみたい。姿見に映る着物姿の自分に目を奪われていたけれど、すぐさま支度の済んだ彼女たちに促され、再度部屋を移動した。
どうやら今いた部屋は使用人が着替えをする部屋だったらしく、飾り気のない簡素な部屋だったが、また襖を何度かくぐれば最初に来たときと同じ、豪華絢爛な空間が現れた。
漆で黒光りする床の中央に深紅の絨毯。その廊下の左右には様々な影が映る障子が続いている。猫耳がついた影、角が生えている影、よく分からない形をしている影。様々な影が身体を揺らして笑ったり、躍ったりしている。
ここはどういう場所なのかしら。旅館? 料亭?
やんやと騒ぐ喧噪に囲まれてきょろきょろと屋敷の中を見回す。いくつもの部屋に、時折見かける綺麗な着物姿の女性。みんな帯を胸の下あたりで結んで妖美な雰囲気。たまに可愛らしい女の子の姿も見え、すれ違う度に驚いた顔をしてわたしを凝視するところ、やはり彼女たちも人間ではないのだろう。
前後を少女二人に挟まれながらひたすら歩いていく。
ようやく廊下の奥へたどり着いたみたいで、目の前には観音開きの扉が見えた。どこへ続いているのかしら。不安げに体を強ばらせるわたしが見守る中、前にいる少女が桐で出来た扉を開けた。
途端、湿り気を帯びた風が頬を撫でた。
「あ……」
扉の先。そこは花が咲き誇る庭と荘厳な滝。龍を連想させるような水流の下で、白く霧がかる滝壺からは淡い光が漏れ、幻想的な雰囲気をその場に散りばめていた。
建物は滝をコの字で囲んだ作りになってようで、滝の向こうに反対側の部屋が見える。ずいぶん大きなお屋敷ね。鬼さんのお屋敷より大きく感じるけれど、実際はどうなのかしら。
階数は五階建てでわたしがいるのは三階のようだ。下の階で宴会をしているのが見えるけれど、上の階は下と違って、薄明かりでハッキリと見える影はない。上は何があるのかしら。
足を止めたわたしを綾と呼ばれている少女にそっと背中を押され、再び歩き出す。滝の音を耳にしながら進んでいくと、離れのような場所に行き着き、少女が足を止めてそこの観音扉を開けた。そこには他の階段とはまた違う豪華な段差が現れ、一段一段に細かく絵が施されている。
ここは他の部屋とは様子が違う。中を見回すが階段以外はなにもなく、ただ黒と紅だけで統一されたシンプルな壁があるだけ。不安を抱きながらまた少女に促されてそこを上りきる。その先には黒地に金の蜘蛛の巣が描かれた両開きの扉があった。
「さぁこちらですよ」
「綾!」
「あ、そうでしたわね。ふふ」
おそらくわたしに話しかけたのをこの絹という少女が窘めたのだろう。振り返ってわたしの後ろにいる少女に少し厳しい視線を投げた。背後の彼女はそんな悪びれた様子もなく、悪戯っぽく笑っていた。この子ってお転婆さんなのかな。
重厚な音が響いて扉が開く。尻込みするも彼女達に促されるまま扉の向こうに入る。そして部屋の様子を見るよりも、目前の人物に気を取られ目を丸くした。
そこにいたのはスーツ姿の人間だった。
爽やかな顔立ちで見事に着こなしている真っ黒なスーツ。袖口には市松模様の四角いボタン。深紅の敷物の上であぐらをかいて、大きな手で小さなお猪口を持っているさまはどこか妖艶だ。首に少し浮き上がる筋が妙に艶っぽい。
なんでこんな所に人間がいるの? とっさに影を確認するも、やはり尻尾も獣みたいな耳も角も無い。先ほどの廊下みたいに影は妖怪かもだなんて思ったんだけれども、あては外れたようだ。
「人間……?」
誰に言うわけでもなく呟いたわたしに、彼はふっと笑んだ。優しいけれども、裏のありそうな危険な笑み。思わずたじろぐ。
「ではごゆっくり」
「えっ」
素早く振り返ったときには鼻先で扉が閉められてしまった後。その後にはガチャリという鍵の閉まった音がする。
と、閉じ込められた?
「さぁこっちに来て。ここに座りな」
「あ、待って下さい! わたしはここの従業員じゃないんです! 手違いみたいなのでちょっと待ってて下さい」
そうよ何かの間違いよ! 状況もよく分からないし、まずは説明してもらわないと!
すぐさま扉に手をかけて力を込めるがビクともしない。そうだ。鍵を掛けられていたんだ。
「すいません! 間違えてますよ! というか、説明してください!」
バンバン思い切り扉を叩く。けれども応答なし。
まさか手違いでもなんでもなくて、本気でわたしに接客しろと言っているの? 人間同士だから大丈夫だとかそんなノリで? いやそれよりも、この男の人が本当に人間だという証拠もない。
どうしよう。こんなワケの分からないところで二人きりにされるなんて。
「まぁまぁ。落ち着いて」
男性のよく通る低い声が聞こえ、はっとして振り返る。男の人はネクタイをゆるめてわたしに微笑んだ。
「とりあえず呑もうじゃないか」
「いえ、その……」
「外は化け物ばかり。ここでゆっくりしよう。なに乱暴はしないよ。こっちにおいで」
この人は大丈夫な人なのかしら。姿は妖怪じゃないみたいだけれども、本当に正常な人間なの? 本物? 幽霊とかでもなく普通の人間?
様子を伺いながら彼の傍らに怖ず怖ずと座る。ちらりと盗み見るもどこにも妖怪らしい気配はなく、目も耳も肌も、普通の人間にしか見えない。
「あなたは……人間ですか?」
恐る恐る、表情を探りながら尋ねる。彼はにこりと爽やかな笑みを浮かべて頷いた。心なしかほんのり頬が赤い。酔っているのかしら?
「勿論だよ。さぁ人間同士飲もう」
「いえ。すいませんが、わたしは未成年なので飲めないんです」
「堅いことはいいからさ」
手酌で入れたお猪口をわたしに差し出して、自分も徳利に直接口をつけてぐびりと飲んだ。
「あなたは……なんでこんな所にいるのですか? どうやって?」
「ここは地獄であり極楽だよ」
地獄はともかく……極楽?
わたしは訳が分からないと目で訴えた。彼はそんな私を見てニヤリと笑う。
「強欲を満たす所。快楽に延々と溺れる場所。君だって欲の一つや二つあるだろう?」
「……それがどういう意味の欲かによりますけれど」
不安に目が泳ぐ。とても居心地が悪く感じ、両手の中にあるお猪口を意味なく揺らした。彼はゆらりと体を傾け、また徳利のお酒を飲む。
「君は男と付き合ったことはあるの? 可愛いから一人や二人は絶対にいるでしょう」
突然何を言いだすんだろう。でもまぁ酔っている人の言うことなんて脈絡がなくて当たり前か。
少し間を空けてから、わたしはおもむろに首を横に振った。
「いえ、わたしは誰とも付き合ったことないです」
「え、本当に?」
「はい」
本当は高校の時に好きな人がいたけれど、紅い鬼のことがちらついて想いを告げるどころか、想いを寄せることすら躊躇っていた。そんな途半端な状態でいたらその人には彼女ができ、わたしは微妙な気持ちのまま失恋したのだった。
その後も何人かに告白されたが、やはり同じ理由で『はい』とは言えずに振ってしまい、陰で男嫌いだと囁かれて惨めな思いをした。わたしは高校時代まともな恋愛なんてひとつも出来なかった。だから大学に行ったら心機一転、好きな人が出来たら今度こそ頑張ろうと思っていたのに。なのに……。
嫌だ。すごく嫌な気持を思い出しちゃった……。
じわりと心の中で闇が滲む。気持ちが沈んでいく。知らず知らずの内に視線が落ちる。
「君はこんなに可愛いのに」
気がついたとき彼はわたしの頬を撫でていた。驚いて顔を上げると、彼は妖しく微笑してわたしを見つめる。
「ここはとても寂しい。家族もいないし、友と呼べる者もいない。誰もいないんだ」
「誰もいない……」
「そうさ。けれども身も心も委ねて心を解放すれば、たちまち楽園に変わる」
「楽園に?」
「そうだよ。この上ない楽園さ」
聞いているうちに、彼の声がいつの間にか頭の奥にじんと響く。眠気とは違うなにかのせいで瞼が重い。まるで夢を見ているようで、気持が良くて、意識も心もふらふら揺れる。
「君だって寂しいはずだ」
膝の上にあった手がいつの間にか大きな手で覆われ、彼の口元に誘われる。音を立てて連なった指先に口付けされるとほうっと息が漏れ、片手に持っていたお猪口が床に転がる。
あぁ、拾わないと。
「良いからこっちにおいで。怖がらないで」
お猪口に手を伸ばした手わたしを、無骨な大きな手が白いシャツに誘う。そのまま体を預け、抵抗もせず頬をシャツに押し付けると、その向こうから彼の熱が伝わってきた。掴まれていない方の手で胸に手を置けば、じんわりと熱が手の平に広がる。
「俺が寂しさから救ってやるよ」
聞こえた声に目を上げる。彼の長いまつ毛が頬に影を落として、この世の者とは思えない逞しくも綺麗な顔でわたしを見下ろしている。
おかしい。彼の眼が妖しい紅に見える。
下顎に指が添えられ顔を上げられると、わたしは誰に言われたわけでもないのにおもむろに目を閉じた。彼から甘く唇に触れられるのを切に願って、ただ待った。
まるで縋り付くように。
蜘蛛の巣に囚われ、逃げることを諦めた蝶のように。
「鈴音……」
夢の中で彼はわたしに甘く囁いた。
甘い、紅の声で。