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序ノ怪
わたしを離した鬼は言った。
――決して忘れるなよ――
――決してナ――
黒い波に呑まれながら聞こえた鬼の紅い声。肺に水が流れ込むなか、遠くになる妖しい紅が見えた。
気付けば光の下に戻ったわたし。妖のいない世界。朝がくる平穏な場所。
わたしは元の世界に戻ったのだ。
それなのになぜだろう。日向にいるはずなのに常にある陰りは。日常の輝きに見え隠れする影の存在は。
闇を奥底に閉じこめたまま、わたしは日常の平穏にまどろんでいった。
朝日を浴びて目を覚まし、昼間は学校で友達と勉強。夕方は部活に打ち込み、夜は今日の出来事を思い出しながら眠る。
そんな日常。そんな毎日。
すでに当たり前となった、人としての生活をわたしは過ごしていたのだ。
迎えにくる妖は現れない。
わたしが人々と笑い過ごしても、心の底で怯え過ごしていても、紅い鬼は一向に姿を現さなかった。
でも。それでも油断してはいけなかったんだ。簡単に口に出すべきではなかったんだ。
「忘れる」だなんて、言うべきではなかったんだ。