短編20
逃げる。
逃げる。
逃げる。
履いていた靴はもうない。
真っ白いドレスは黒く汚れて。
逃げる。
逃げる。
逃げる。
荒い息が苦しい。
それでも止まれないこの足。
流れ続ける涙は悲しみか。怒りか。絶望か。
逃げる。
逃げる。
逃げる。
逃げる逃げる逃げる。
「ぁっ」
体のバランスが崩れる。
倒れる体。
起き上がろうとするのに起き上がれない、体。
「……ぁ、あ、ああっ」
表情を隠すように落ちてくる髪。
あの人が、好きだと言ってくれた髪。
『あの女がヴィルフォードの幼馴染でなければ、誰が近づいたりするものか』
幼馴染だからこそ価値がある。
もうすぐ教会で纏うはずだった白い白いドレス。
仮縫いだと仕立て屋が持ってきて。あの人に見せたくて、あの人の部屋へと急いだ。
そこで聞いたあの人の本心。
両親が亡き後、誰よりも早く手を差し伸べてくれたあの人は。
あの人の屋敷に慣れた私に、生涯を共にしてほしいと言ってくれたあの人は。
ああ。遠くの戦場にいる幼馴染。彼は誰の下にもつかない人。国のために戦いながら、誰にも忠誠を誓わない人。古の、今は亡き一族、忠誠を誓った相手を決して裏切らぬ騎士。一人で十騎の働きをする騎士。
あの人に引き取られた私を、遠い戦場にいるはずの彼が返せと怒鳴り込んできたのは。
彼を宥め、あの人の側にいたのだと懇願する私に、だめだと考え直せと泣いたのは。
一人屋敷を出る彼が、あの人を射殺さんばかりに睨みつけ、傷つけたら殺すと低く低く唸るように言ったのは。
ああ、ああ、ああ。
彼を得るために私を利用しようとしているあの人に気づいていたからだったのか。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
そんなこと知りもしないで。
それを知ろうともしないで。
涙が流れる。
あの人に愛されていなかった悲しみに。
あの人に利用されていた絶望に。
彼を傷つけた私の愚かさに。
彼を得るために私を利用した憤りに。
苦しい。苦しい。苦しい。
息が、感情が、苦しい。
それでも逃げなければ。
あの人が追いかけてくるのだから。
初めは婚約者を追う男の切実な声で。さっきはなりふり構わない怒声で。
どれだけ傷つけてもいい。生きて捕えろと。生きてさえいればいい。この手に戻せと。
だって、私がいなければ彼は手に入らないのだから。
動かない体。
それでも体を起こす。
真っ白なドレスはもうその色をどこにも残してはいない。
それにも構わず走る。走って走って走って。
体が軽いのも。
息が切れないのも。
何も何も気にする暇もなく、ひたすらに走った。
馬が駆ける。
剣を打ち合う音が聞こえる。
断末魔の叫びが響く。
戦う。
戦う。
戦う。
国にいる幼馴染。
彼女がもうすぐ結婚する。
幸せに笑っていてくれればいい。それだけが願い。
だから戦う。
彼女の住む国を守るために。
彼女の笑顔を曇らせないために。
戦う。
戦う。
戦う。
全ては彼女という存在を守るために。
「…!」
ふわり、と甘い香り。
後ろから抱きしめられたような気がして。
―――ごめんね。大好きよ。
聞こえた声と同時に消えたぬくもり。
目を見開く。迫る敵兵を切り捨てて、溢れるのは涙。
今の現象が何なのか。何だったのか。
分かった。嫌になるくらいに、分かった。
「アラン・ジュールーーーーー!!」
この身全ての怨嗟を込めて。
この身全ての絶望を込めて。
たった一人、主ととうに膝を折った相手がいた。
大切な幼馴染。彼女を守るために戦った。彼女を守るために侵略を許さなかった。
誰も知らなかったはずなのに。彼女の両親すら知らなかったはずなのに。なのにどこで嗅ぎつけたのか、あの男は。
彼女を利用するために彼女に偽りの愛を捧げる男。
けれど彼女が幸せと笑うから。ならば最後まで彼女を騙しきれと。彼女に偽りを知らせるなと。
身を切るような思いを、彼女の笑顔を守るためならばと耐えたというのに。
分かった。
彼女が幼馴染を守るために逃げたこと。
分かった。
そのせいで彼女がをの身を傷つけられたこと。
分かった。
彼女の命がこと切れたこと。
分かった。
彼女が最後に会いにきてくれたこと。
分かった。
―――――…もう、会えないこと。