短編19 (召喚された女のその後)
血を吐いてみた。
いや、冗談抜きで本気で吐いた。
でもそれは予想されたことだった。いつかこうなる日がくると思ってた。
足元で愛猫がにゃーにゃー鳴いてる。主人がいきなり血を吐いて驚いて、そして心配して不安になって泣き声になっている。
それを安心させるようにしゃがみ込んで頭を撫でる。
「にしても、思ったより遅かったな」
この世界、私にとっての異世界。そこで時間を過ごせば過ごすほどに体の内側が締めつけられるような感覚がしていた。
異能の代償か。それともこの世界が私の生まれ育った世界とは別世界だからか。同じように見せて何かが違うのかもしれない。体がこの世界に合わない。そういうことか。
異能。
勇者召喚と呼ばれる儀式で呼ばれた異世界人が持つ能力。何の力も持っていなかった異世界人は、この世界に降り立った瞬間、異能を手に入れる。魔王を倒すために必要な力を。
私も持っている。体力、素早さ、腕力の増強。火、水、雷、風。全ての属性魔法の行使。そして見ようと思えばどんな遠くであれ見通せる視界を。
後者は誰にも言ったことはないけれど、それらを使って私は魔王退治の旅に出た。そうして見事魔王を討ち取って戻ってきた私を召喚した国。そこの王子と一緒になって子供も一人。
幸せなのだろう。
これは幸せだ。ハッピーエンドの物語だ。
そして私が吐いた血は物語を悲劇へと転換させる切欠だ。
「夫と子供にどう説明するかな」
子供のことは愛している。けど夫のことは実に複雑。二律背反。愛憎表裏一体。
私は知っている。彼は私を愛してる。でも初めは違った。勇者として魔王を倒させるために演じていただけ。
縁もゆかりもない世界のために命をかける人間がいるなんて彼は思っていなかった。だから理由を作ろうとした。この世界を守りたいと思える理由。愛する人がいるというその理由を私に与えようとした。
知っていた。ずっと知っていた。でも知らないふりをして、それに乗った。
だって怖かったのだ。縋りたかったのだ。知らない世界、知らない人。何もかも知らないものだらけ。私の力も、私の使命とやらも全部全部怖かった。だから差し出された優しさに、ぬくもりに縋った。それがなければ発狂しそうだった。
夫はそれを知らない。知らずに私を愛するふりをした。勇者としての利用価値のため。それが次第に憐憫に変わって、罪悪感へと変化して。結婚したのだって先の述べた全ての理由のためだ。
勇者としての利用価値は魔王を倒した後も続く。それを手元に置くために。
召喚された勇者はもう帰れない。生涯をこの世界で過ごすことになる。愛する家族も何もかも無理やり捨てさせて。
だから夫は私と結婚した。結婚して、彼は罪悪感で死にたくなった。言わないけれど分かった。私を本当に愛しているのだと気づいた彼は、これまでの自分の行動に自分を殺したくてたまらなくなった。
愛しする妻。その妻に自分は何をした?何をしている?愛してくれるその人に、一体何を。
馬鹿な人。
夫は私と子供を腕に抱いて幸せを感じると同時に己に対する嫌悪を感じている。
その彼が私の今の状況を知ったら?初めて会った時からずっと内臓に触れていた手が徐々に力を強めていて、それに今体が悲鳴を上げているのだと知ったら?
悲しむだろう。憤るだろう。そして己を憎むだろう。
「あーあ…」
そう思えば辛い。
憎いけど愛してるから。愛されてるのを知ってるから。
言わずにいられればいいんだけど、もう無理だろう。きっと夫の前で血を吐く日も近い。
「あーあ…」
天を仰いで目を閉じる。
こんな日がいつかくると分かっていたのに、見ないふりをした。
誰だって怖い。死が近づいているなんて、思いたくない。夫と子供と否が応でも離れる日がくるなんて思いなくない。
けれど、もう見ないふりなんて無駄な足掻き、だ。
「…呼んでる」
夫が呼んでる。
仕事がひと段落したのだろう。いつもなら部屋にいる私がいないから探している。
ああ、子供の夫を呼ぶ声。今度は二人で私を呼ぶ。
幸せだ。
幸せ、なのに。
「ごほっ、がっは…っ」
吐いた血は赤い。
近づいてくる声。
くるな。まだ、くるな。こないで。
零れた涙は血を吐く苦しみか。死への恐怖か。それとも、崩壊する幸せを惜しんでか。
ああ、どうか。どうか。
閉じた瞼の裏、愛する夫と子供の笑顔を見て、失いたくないんだ、ともう一度血を吐いた。