短編14(片恋相手の兄×弟の友人)
はらはらと桜の花びらが舞い落ちる中、俺はただ立っていた。
強い風が吹いて次々と花びらが己を咲かせた木から離れていく。それでも目の前に立つ少女は変わらず、目を伏せてただ涙を流している。
弟の友人。
それだけは知っていた。
人懐っこい弟の数多い友人の一人。その中でも特別仲がいい友人の一人。他の友人と一緒に家に遊びにきていた姿を見かけたことがある。
バイトに忙しかった俺とはすれ違いだから、姿を見かけただけで言葉を交わしたことはない。今の今までなかった。
少女は泣く。声なく泣く。
目の前に俺がいることも分かっているのかどうか。もしかしたら認識していないのかもしれない。
家でみかけた少女はいつも笑っていたような気がする。あまりよく覚えていないけれど、いつも笑って弟の側にいた。もしかして弟が好きなのかなと思った記憶があるようなないような。
つまり俺にとって少女はその程度だった。記憶にしっかりと残るような存在ではなかった。
普通そういうものだろう?自分とは関わりのない人間をいちいち記憶に確かな形として残しておかないだろう?余程印象が強くない限り、その場で終わりだ。
そんな少女と向かい合っている。
姿を見かけたのは偶然。声なんてかける必要もなかったし、かけられても困るだろう。友人の兄なんて知らない人も同然だ。
なのに足が動いた。少女の前まで足が動いて、そこからぴたりと止まった。
俺の足が動くまでここには弟がいた。少女と弟の友人がいた。…いや、少女にとっては友人、弟にとっては恋人となった元友人。
つきあうことになったと弟と友人がはにかむように笑っていた。少女は一瞬固まって、すぐに取り繕うように笑っておめでとうと言った。全然気づかなかったと笑って言った。
俺も気づかなかったと思った。そもそもその友人を俺は知らない。家にきていたのか、きていなかったのかすら知らない。たまたま俺が会わなかったのか、少女以上に俺の記憶に残らなかったのか。どうでもいいことだけれど。
デート中なのだと言って仲良く手を繋いで去っていく弟と友人。
少女は笑顔で手を振って。二人の姿が見えなくなっても笑顔で。笑顔で、涙を零した。
その姿に恋をした。
*
不思議だと思う。
隣でアイスを食べる人を見上げる。
出会ったのは春だった。桜が散っていく春だった。
春は恋の季節。その季節に友人は恋を実らせ、私は恋を失った。そんな日に出会った。
出会ったっていうのは可笑しいのかもしれない。この人は私の片恋相手のお兄さん。片恋相手の家に遊びに行くと時々姿を見かけた。
バイトに忙しいらしくて出かけていく後姿だとか、片恋相手の部屋の前を歩いていく姿だとか。直接会ったことはなくて。話をしたこともなかった。
そういうものだと思う。私はこの人にとっては弟の友達の一人で、私にとってこの人は片恋相手のお兄さん。わざわざ交流を深めようと思うような関係じゃない。
そりゃ、恋人のお兄さんだったら交流を深めようと思ったと思う。でもそうじゃなかったから、あの人がお兄さんなんだ、と思ったくらいだった。…かっこいいなあと思ったのは仕方ない。皆言ってたもん。
その人とこうして隣り合ってアイスを食べてる。
一緒に出かけるのもこれが初めてじゃない。携帯の番号も知ってるしメールアドレスも知ってる。
その変化が不思議だと思う。こんなに近くにいる人になるなんて思ったこともなかったのに。
「なに?」
「おいしい?」
「うん。ほら」
差し出されたアイスに遠慮なくかぶりつく。うん。おいしい。
今度は私の持ってるアイスをはい、と差し出す。そっちも遠慮なくかぶりついてきた。濡れた唇を舌が拭うのが色っぽい。
「こっちもおいしいな」
「でしょ」
笑ってさっき差し出したアイスを今度は私が食べる。間接キスだーとか思ったけど、何度も唇同士でキスをしてるので今更。なのに毎回思う。
唇同士のキス。つまりはそういうこと。私は片恋相手だった人のお兄さんとおつきあいをしている。
桜が舞い散る公園。
片恋相手が友達と手を繋いで歩いてるのを見た。目が合った二人からつきあってるんだって言われて。それもほんの数日前からなんだって言われて。顔を見合わせては恥ずかしそうに顔を逸らして、でも幸せそうに笑う姿を見せられて。
そうなんだ、おめでとうなんて笑いながら。全然気づかなかったよなんて笑いながら。
本当は叫びたかった。嘘だって。私だって好きなのにって。その子よりずっと側にいたのにどうして私じゃだめなのって。告白もしなかったくせに、そう言って泣いて責めたかった。
それを必死で抑え込んで、デート中の二人を笑顔で見送りながら、知らない間に流れていた涙。
漏れそうになる嗚咽を噛み殺して、そっと目を伏せて。走馬灯のように思い出される失恋相手との思い出を、抵抗空しく眺めながら。目の前に誰かがいたことにも気づかなくて。
「さっきからなに?」
「うん?」
「じっと見てくるだろ?何かついてる?」
「ううん」
怪訝な顔でこっちを見下ろしてくる恋人は、舞い散る桜の中、泣いてる私をじっと見下ろしていた。顔を上げた時にびっくりしたのを覚えてる。
人がいるなんて思ってなかった。ずっと泣いてるとこを見られてたなんて思わなかった。よりにもよって失恋相手のお兄さんに。
びっくりした私にこの人はハンカチを私の頬にあてて涙を拭いながら、クレープ好き?なんて聞いてきた。
何を聞かれてるのか咄嗟に分からなくて、でも口が勝手に好き、と紡いだ私に、ならちょっと待ってて。そう言って渡されたハンカチを思わず受け取って。走って公園に止まってる出張のクレープ屋さんの車へと走って。
「不思議だなって」
「不思議?」
「春にね、クレープ渡された時、大混乱中だったんだよ?」
「…ああ」
一体何がどうしてこうなった。頭の中はハテナでいっぱいだった。クレープを食べながら、おいしいとか呟きながら、座ったベンチに隣り合って座って缶コーヒーを飲む人をちらちらと見ていた。
「実は俺も自分が何してるのかさっぱり分かんなかった」
「あはは」
あの時には私を好きだったって聞いた。
失恋して泣いてる私に惚れたとか、いや、なんか何で?って思ったけど。どこに惚れる要素があったのかわかんないんだけど。でも好きだって思ってくれてて。
「あんな涼しい顔してたのにねー」
「うるさいな。内心これからどうしようって思ってたんだよ」
拗ねた顔が可愛い。
あははっとまた笑う。笑うな。そう言って頬を突かれる。
「痛い痛いってば。あはは」
「お前な」
「あ」
「ん?」
頬を突く指を掴んだ時、視線の先に見知ったカップルを見つけた。恋人の弟、私の片恋相手だった人。
彼は彼の恋人と手を繋いで笑いながら歩いている。
仲がいい。思わず緩んだ頬。隣でじっと見てくる視線が驚いたようで。
「不思議だねー」
恋人を振り仰いで笑う。
掴んだ指を放して今度は五本の指全部と指を絡める。
「あんなに好きだったのに、平気」
「全然?」
「全然」
恋人が視線を弟へとやる。そしてまた私に。
じっと見て。それを見返して。絡めた指にぎゅっと力を込めて、笑う。
「大好き」
恋人がふっと笑って。
好きだよと囁いて、私の肩に頭を預けた。
春は恋の季節。
春に私は大事に抱えていた恋を失って。新しい恋の種を拾って。そうして春が終わって夏が始まろうとした頃に新しい恋を実らせた。