いちばん、可哀想なのはだぁれ?
この世界には番、というものが存在する。
遠い昔、人と獣人が共に暮らしていた時代があった。
彼らは女神より祝福を授かっていた。
魂が惹かれ合う者同士、番が誕生したとき、幸福が約束される。
番に出会えば、幸せになれる。
番を得れば、人生は祝福される。
だからこそ “番”の誕生は、誰からも祝福されるものだった。
だが幾千年もの時を経るうちに、その伝承は少しずつ形を変えていった。
番が誕生したとき、二人にも、周囲の者にも幸福が約束される、と。
それが、誰かの人生を壊すことになるとも知らずに。
*
ある屋敷の廊下を一人の男が歩いていた。
だが後方から男の後を追いかけるように、ぱたぱたぱた、と小さな足音が廊下に響いた。
「おとうさま!」
舌足らずな幼い声が、静かな屋敷の中に響き渡る。
その声を聞いた男は足を止めた。
振り返れば、廊下の向こうから小さな少女が一生懸命に走ってくる。
「おとうさまぁ!」
「アウレリア」
男、アウレリアの父、レイザックは微笑みながら膝を折った。
アウレリアが転ばないように両手を広げ、その小さな身体を受け止める。
どこから見ても微笑ましい親子の姿だった。
近くにいたメイドたちも、従者たちも、思わず頬を緩める。
侯爵家の一人息子である男と、その愛娘。
誰もが、幸せな親子だと思っていた。
少なくとも、少女が次に口にする言葉を聞くまでは。
「ねぇ、おとうさま」
「なんだい?」
「どうして、おかあさまは……わたしにあってくれないの?」
その言葉にレイザックの笑顔が、固まった。
だが、レイザックに抱きしめられているアウレリアには見えるはずがない。
幼い娘を抱く腕が、ほんの僅かに強張った。
「……それは」
どう答えればいい。
何度考えても、答えなど決まっていた。
「私が彼女に、悲しいことをしたからだよ」
レイザックはそう言って、アウレリアの髪を撫でた。
その言葉に、レイザックの従者は密かに息を呑んだ。
誰もが知っている。
この家で何が起きたのかを。
レイザックの先祖には、希少な獣人の血が流れていた。
そして彼は、その血が強く表れた”先祖返り”であり、番を感知する力が誰よりも強かった。
だから妻と出会った瞬間、男には分かった。
彼女だ。
自分の番だ。
けれど、妻はレイザックに対して何も感じなかった。
レイザックにとって運命の相手であっても、彼女にとってはただの他人だった。
だが甘く濃密な匂いに酔いしれたレイザックは理性を失い、嫌がる彼女をレイザックは強引に求めた。
拒絶されても、レイザックは止まらなかった。
その結果、彼女の純潔は奪われた。
娘を傷つけられた家族は、当然のように激怒した。
娘を傷つけた男を許せないと。
けれど「番が誕生したとき、二人にも、周囲の者にも幸福が約束される」
古くから伝わる、伝承がすべてを変えた。
被害者だったはずの彼女の声は、いつしか誰にも届かなくなった。
そうして二人は結婚した。
そして、たった一度の契りから生まれたのが――アウレリアだった。
アウレリアが生まれたあと、母親は衰弱した。
娘を抱くことも、名前を呼ぶこともなく…ただ、自室に閉じこもっている。
レイザックも、それを責めなかった。
当然の報いだと思っていたからだ。
妻が自分を憎むことも、娘を愛せないこともすべて、自分が招いた結果なのだと。
だからこそ、妻の分まで自分がこの子に愛情を注ごう。
生まれた我が子を腕に抱いたあの日、レイザックはそう誓った。
「あはッ!なぁんだ!」
「…アウレリア?」
「つまり、おかあさまがわたしをきらいなげんいんは、おとうさまなのね!」
アウレリアの声に、空気が凍った。
少女は笑っていた。
何も知らない幼子のように、けれどその瞳だけは妙に冷たかった。
「おかあさまがくるしんでいるのに、おとうさまは、あやまりもしないの?」
「……勿論、謝ったよ」
「おかあさまはゆるしてくれた?」
「……」
許しているわけがない。
だから彼女は今も部屋に閉じこもり、レイザックもアウレリアさえも拒絶しているのだから。
アウレリアは少しだけ首を傾げた。
「それって、あいじゃないよね?」
レイザックの顔から血の気が引いていく。
「じぶんのしたいことだけして、おかあさまのいやなことはきかないんでしょう?」
幼い少女の口から、容赦のない言葉が落ちていく。
そんなことはないと否定したかった。
でも拒絶する妻の声を無視して、今もなおこの家に縛り付けているのに、どうして否定ができようか。
「ねぇ、おとうさまはおかあさまをあいしてる?」
「…あぁ、あぁ!勿論だとも!」
「じゃあ、どうして?」
「え?」
「おかあさまをあいしてるなら……じぶんがどうなっても、おかあさまがしあわせになるほうをえらぶでしょう?」
アウレリアの言葉に誰も口を挟めなかった。
レイザックは確かに妻を愛している。
だが彼は一度でも妻の願いを、声を聞き入れたことがあっただろうか。
アウレリアは首を傾げた。
「ねぇ、おとうさま」
「……な、んだ」
「おかあさまは、おとうさまになにをねがってたの?」
アウレリアの言葉に、レイザックはあの日の出来事がよみがえる。
レイザックに無理やり純潔を散らされ、子供を孕まされ、結婚まで強制されて、妻アイリーンは怒りと嫌悪に顔を歪め、吐き捨てるように言った言葉を。
「お前なんて死んでしまえ」
「おとうさまは、じぶんのねがいをぜーんぶ、かなえてきたのに」
「……」
「どうして、おかあさまのねがいはかなえてあげないの?」
アウレリアは歌うように言葉を紡いでいく。
「おとうさまのせいで、わたしはおかあさまにだきしめてもらえない」
「おとうさまのせいで、なまえもよんでもらえない」
「おとうさまのせいで、いっしょにおでかけさえ、してもらえない」
「ねぇ、おとうさま」
少女は父親の顔を覗き込んだ。
「どうして、まだいきてるの?」
アウレリアの言葉に、レイザックは打ちのめされたように崩れ落ちた。
従者の声やメイドの悲鳴が飛び交う中、アウレリアはただ、冷たい目でその光景を見つめていた。
「ずぅっと、お父様のわがままをとおしたのなら……せめて、おかあさまのねがいくらいかなえたら?」
その言葉は誰よりも深く、レイザックの胸を抉った。
お前は自分の望みばかりを叶えてきた。
ならば、妻が望んだことを一つくらい叶えてやれ。
それはあまりにも単純な話だった。
けれどレイザックは、それをしなかった。
いや、できなかったのだ。
アイリーンを手放せば、自分の "番" を失う。
嫌っててもいい、憎んでくれててもいい。
ただ、傍にいてほしい。
そんな想いをずっと拒絶するアイリーンにレイザックは押し付けていたのだ。
その執着こそがアイリーンを今もなお壊しているのだと、今になってようやく理解した。
それから間もなくして、レイザックとアイリーンの離縁が決まった。
アイリーンは実家へ戻ることを拒んだ。
あの家もまた、自分の意思を無視し、レイザックのもとへ差し出した側なのだから。
代わりに、かつてから親交のあった友人が運営する修道院へ身を寄せることになった。
その決定に、アイリーンの家族は当然のように異論を唱えた。
「娘を一人で他家へ行かせるなど…」
「どうして戻ってこないの?あの子の帰る家はここなのに」
「これまで何不自由なく…」
そんな言葉を並べるアイリーンの家族を、アウレリアはじっと見つめていた。
そして、父親へ向けたものと同じように、静かな声で尋ねた。
「おじいさまも、おばあさまも、おじさまたちも……おかあさまがいやっていってるのに、どうしてきいてあげなかったの?」
アウレリアの言葉に、誰も答えられなかった。
番は結ばれれば幸せになれる。
最初は行き違いがあったかもしれないが、時間が経てばアイリーンも幸せになれる。
そう信じていたのだ。
「おとうさまだけじゃないのね」
「……」
「みーんな、おかあさまのこえをきいてあげなかったのね」
結局、アイリーンを見送るために屋敷の外へ出たのは、アウレリアただ一人だった。
親交のあった友人が寄越してくれた馬車の前で、アイリーンと侍女が静かに立っている。
ようやく、あの牢獄から解放された。
それなのに、アイリーンの表情に喜びはなかった。
ただ、目の前に立つ幼い娘を見つめている。
アウレリアも何も言わない。
アイリーンも何も言わない。
ただ、二人の間には長い沈黙だけがあった。
本来ならば、礼を言うべきなのだろう。
自分をあの場所から連れ出してくれたのは、この子なのだから。
けれど、アウレリアを見るたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
この子は、あの男の血を半分受け継いでいる。
自分を壊した男と、同じ血を。
そんな子を、どうして愛せるというのだろう。
でも皮肉なことに、自分をこの牢獄から解放してくれたのも、またこの子なのだ。
アイリーンは、ただアウレリアを見つめた。
アウレリアもまた、何も言わずに母を見つめ返す。
二人の間に、言葉はなかった。
やがてアイリーンは視線を逸らし、馬車へ向かって歩き出した。
もう、ここに留まる理由はない。
馬車へ乗り込もうとアウレリアに背を向けた、そのときだった。
アウレリアの手が、アイリーンの服を掴んだ。
「おかあさま」
「……なに?」
「おねがいが、あります」
アウレリアの小さな肩が、かすかに震えているのを、侍女だけが見ていた。
「わたしも……あのおとこと、おなじ "ち" をついでいます」
「…そうね」
「だから、わたしも……じぶんのねがいをかなえるために、うごいた、ごうよくなむすめです」
「……」
「おかあさまをたすけたかったの」
アウレリアの言葉に、アイリーンの瞳が微かに揺れた。
だがそれを見えるはずのないアウレリアは、小さな肩を震わせて俯いた。
「でも、それだけじゃないんです」
「……」
「わたしも、ほしかったの」
「……なにを?」
「おかあさまに……なまえをよんでもらうこと、だきしめてもらうこと」
アウレリアは掴んだアイリーンの服の裾を強く、強く握りしめた。
「だから……どうか、どうか、おねがい、します」
「……」
「なまえをよんで……だきしめてください」
アイリーンは動けなかった。
ようやっとアウレリアの方へと振り返ったものの、その表情はひどく苦しそうで、申し訳なさげに目を伏せた。
「……あなたの名前を、私は知らないわ」
それは、あまりにも残酷な答えだった。
アウレリアの身体が、小さく強張り、堪えていた涙が頬を伝った。
「……でも」
けれどアイリーンは、ゆっくりと振り返り俯くアウレリアと向き合った。
改めてよく見れば、あの男の血を受け継いでいるけれど、髪色も髪質も自分とよく似ている。
「でも……これくらいなら」
そう言って小さな体を優しくアイリーンは抱きしめた。
母からの抱擁にアウレリアは息を呑んだ。
温かい。
柔らかい。
ずっと、ずっと欲しかったもの。
夢にまで見たもの、母親の温もりだった。
「……ありがとう」
アイリーンの声にアウレリアは母の胸に顔を埋めた。
その声は、今まで聞いたことがないほど幸せそうで、アウレリアはおずおずとアイリーンの背中に手を回した。
アイリーンは何も言わなかった。
ただしばらくの間だけ、その小さな身体を抱いていた。
「おかあさま!」
アウレリアは手を振った。
アイリーンが乗った 馬車が遠ざかっていく。
何度も何度も母を呼ぶけど、馬車が止まることも母が今一度顔を見せてくれることはなかった。
小さくなっていく馬車を、アウレリアはずっと見つめていた。
やがて馬車が見えなくなっても、アウレリアはその場から動かなかった。
「やっぱり、そうなんだわ」
アウレリアの口元が弧を描く。
いまだ鮮明に残るアイリーンの温もりを思い出しながら、アウレリアは屋敷を見上げた。
アイリーンの見送りには出てこなかったけど、その窓にはいくつもの姿があった。
悲しげな顔で遠ざかる馬車を見続ける、アイリーンの両親、兄、そして…
「いちばんわるいのは、おとうさまと……おじいさま、おばあさま、おじさまたちなのね」
その瞳には、幼い少女には似つかわしくない光が宿っていた。
この少女には、誰にも明かしていない秘密がある。
アウレリアは、一度人生を終えている。
一度目のアウレリアは、アイリーンに愛されなかった。
抱きしめてもらうこともなかった。
名前を呼んでもらうこともなかった。
そして迎えたデビュタントの日にも、アイリーンは姿を見せなかった。
そしてアウレリアがデビュタントを迎えたその日、アイリーンはひっそりとその生涯を終えた。
レイザックはアイリーンが亡くなるとアウレリアのことは見向きもしなくなり、ずっと部屋に閉じこもり、アウレリアは "愛"に飢えた子へ育った。
そうして寂しさを埋めるように、アウレリアは「番」に縋った。
番なら、自分を愛してくれる。
番なら、自分を捨てない。
そう信じていた。
けれど、相手には母と同じように、番を認識する力がなかった。
愛されたい、捨てられたくない。
その一心で彼に縋りつき、束縛し、愛を求め続けた。
やがて、番は彼女のもとを去り、アウレリアには何も残らなかった。
そして絶望の中で、アウレリアは自ら人生を終えた。
終えたはずだったのに、気がつけば、幼い身体に戻っていた。
これは女神の慈悲なのか。
もう一度、人生をやり直せる。
そう知った彼女は、ずっと考えていた。
どうして自分は不幸だったのか、誰が悪かったのか。
考えて、考えて、考えて、何度も、何度も考えて、ひとつの答えに辿り着いた。
父親だ。
父親が番の本能に抗えず、母を苦しめたから。
だから母が壊れ、アウレリアは母に愛されなかった。
誰も母の声に耳を傾けなかったから、アウレリアは母に見向きもしてもらえなかった。
だから母に愛されなかった自分が、愛を求めて番に縋ったのだ。
だから、だから自分の人生が不幸だったのは。
「おとうさまたちのせいよ。
わたしは、あんなにもふこうなじんせいをあゆむのだわ」
アウレリアはそっと自身の体を抱きしめる。
先ほどアイリーンに抱きしめられた感触が、まだ残っている。
あれほど欲しかったもの。
あれほど飢えていたもの。
たった一度でも、それを与えてもらえた。
やはり、自分の考えは間違っていなかった。
「かわいそう……」
少女は笑った。
「かいわいそう!かわいそう!!あぁ、なんて、かわいそうなわたし…」
その笑みは、幼子のものとは思えないほど歪んでいる。
視線の先には、窓辺の前で遠ざかる馬車をずっと見つめて、立ち尽くしている父親の姿があった。
最愛の妻を失い、絶望の淵にいる父親の姿を、少女はじっと見つめていた。
「かわいそうなわたしの幸せをうばったひとたちには……おかえしをしなくちゃ」
アウレリアは笑った。
窓辺に立つ父親を、祖父母を、伯父をじっと見つめながら。
その幼い瞳に宿るものを彼らは、まだ知らなかった。
END
一番かわいそうなのは母親だと思います。
***
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