悪役令嬢ですが、あなたの本音が聞こえています。——聖女候補さん、今の心の声はアウトですよ
目が覚めた瞬間、誰かの声が聞こえた。
部屋の外から聞こえる声ではない。頭の中に直接、音として流れ込んでくる。
扉を開けようとしていた侍女——マリエルが「おはようございます、セレスティア様」と言いながらカーテンを開けている。
彼女の口は確かに「おはよう」と言っている。
「この人、起きるのが遅いのよね…はぁ、もっとやることがあるのに」
でも聞こえてくる声は、明らかに別の言葉だった。
「……なるほど」
私はベッドの上でゆっくりと瞼を閉じた。
前世の記憶がよみがえるのに、半日もかからなかった。
私はかつて日本でOLをしていて、ある日スマートフォンを手に持ったまま、どこかの転生小説の悪役令嬢として目覚めた。
乙女ゲームのシナリオは大体覚えている。
学園でのいびり疑惑、断罪イベント、婚約破棄。セレスティア・ラングフォードの末路は、爵位剥奪と修道院送りだ。
問題は、今聞こえている声の方だ。
マリエルがお茶の準備をしながら思っている言葉が、ずっと流れてくる。
「今日のお茶菓子はどれにしようか」とか、「昨日の塩漬け肉がまだ残ってるから夕食には使えるかな」とか。そこ悪意はない。ただ普通に日常を考えている声だ。
どうやらこれが、私に与えられた加護らしい。
「《声なき声》か」
「え?」
マリエルが顔を上げた。声に出ていたらしい。
「なんでもない。今日の予定を教えて」
「はい。午前中は王太子殿下との定例のお茶の時間が。午後は学院の授業です」
最悪のタイミングで加護が目覚めた…今日は王太子と会う日なのに。
広間に入った瞬間、アルノー・カレーンの声が聞こえた。
「また来たか」
「ええっ!?」
「どうした?セレスティア」
実際に彼が口にしたのは「今日もよく来てくれた、セレスティア」だった。
彼は微笑んでいて、完璧な婚約者の顔をしている。
(脳内に直接響くようなあの声は一体…)
「い、いえなんでもありません。ありがとうございます、殿下」と返しながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
その頭の中に直接響く不思議な声は続く。
「茶さえ飲めば終わる。政治的な婚約だ、情を持つ必要はない」
椅子の背もたれに手をかけたまま、私は少しだけ息を吐いた。
知ってた。ゲームのシナリオ通りだ。
この人は最初から私を駒として見ている。傷つくかと思ったが、意外と平気だった。前世からずっとそういう職場にいたので、免疫があるらしい。
「殿下、少し聞いてもいいですか」
「何だろう」
「私への加護授与の儀式、来週ではなかったでしょうか。記録に残しておきたくて」
彼の表情は変わらない。でも、不思議な声は変わった。
「加護。そういえばこの令嬢、まだ加護の内容を知らされていないな、本人も知らないのか?まあ大したものではないだろうが…」
「ああ、そうだったのか、あとで執事に確認させるよ」
「あ、ありがとうございます」
私は澄ました顔でお茶を一口飲んだ。
知ってますよ、殿下。私の加護の内容、もう知ってます…それに、全部聞こえています。
問題は、エルミナ・ヴォルケとの初対面だ。
学院の廊下で出会ったのは、その翌日のことだった。
金髪を縦ロールにした、小柄な令嬢。
男爵家の娘なのに、その笑顔の存在感は誰よりも大きかった。周囲の学生が一斉に視線を集めていた。
「セレスティア様、ご機嫌よう」
実際話している声の後に、頭に直接あの声が流れ込んでくる。
「この令嬢、目の上のたんこぶ。王太子を篭絡するのも時間の問題なのに、婚約者がいるとやりにくい」
私は口角を上げた。
「ご機嫌よう、エルミナさん。今日のお天気は気持ちがいいですね」
「ほんとうに。お茶の時間にでもご一緒できたら嬉しいのですが」
「さっさとこの女の評判を落とさないと」
私は微笑みを崩さないまま、次の言葉を選んだ。
「喜んで。ただ、今日は少し時間が取れなくて。また改めていつかお声がけしますね」
「……なんとか近づかないと」
「もちろんです。いつでも」
エルミナが去っていく背中を、私はただ見送った。
ゲームのシナリオでは、この先「セレスティアがエルミナに意地悪をした」という噂が学院に広まる。
実際には何もしていない。エルミナが広めるのだ。
でも今は、聞こえる。
思っていることが、全部。
それから二週間、学院の廊下は静かな戦場だった。
エルミナは表では「セレスティア様はとても優しくしてくださっています」と笑い、裏では「あの令嬢が嫌がらせをしてきた」と吹聴して回っていた。
男子学生が何人か、私に距離を置くようになった。授業中に視線が冷たくなったのも気づいていた。
でも私には声が聞こえる。
廊下ですれ違うたびに、エルミナの声が入ってくる。
「もう少し追い詰めれば崩れるはず」「なぜこの女は動揺しないんだろう」「笑顔が怖い」
怖いのはあなたの方だと思いながら、私は毎回「ご機嫌よう」と返した。
ある日の午後、図書館の奥で声が聞こえた。
エルミナ本人ではない。
男子学生の一人——確か名前はフィリップという——の声だ。声が続く。
「エルミナ様に頼まれた。あの令嬢が本を棚から落としたと言えばいい、それだけだ」
私はそっと足を止めた。
翌日、フィリップが私に近づいてきた。
緊張しているのが声でわかった。「早く終わらせたい」という声が先に届いてくる。
「フィリップさん、少しよろしいですか」
「は、はい」
「困っていることがあるなら、話してください。誰かに何かを頼まれたなら、私は問いません。ただ——」
私は彼を見た。
「嘘の証言は、あなた自身を一番傷つけますから」
フィリップの顔から血の気が引いた。
声が聞こえた。「なぜこの女は知っているんだ」
彼はその日から、エルミナに距離を置くようになった。
断罪イベントが設定されているのは、王立学院の修了式の前日だ。
シナリオ通りなら、アルノーが王族・学院教師・学生の前でセレスティアに「エルミナへの数々の嫌がらせ」を告発し、婚約を破棄する。
証人はエルミナ本人と、彼女に味方した数人の男子学生だ。
それまでの間、私はひたすら情報を集めた。
聞こえてくる声を、全部記録していくようにした。
エルミナが「令嬢の使用人を買収しよう」と考えているのが聞こえたので、マリエルには事前に「しばらくは見知らぬ人から何かを受け取らないで」と伝えた。
エルミナが「あの侍女に嘘の証言をさせる」と考えているのが聞こえたので、その侍女に直接会いに行き、穏やかに話をした。
「もし何かを頼まれたときは、まず私に教えてください。あなたを守ります」
侍女——エリーゼという名の小柄な少女——は、最初は怯えていたが、最終的に「わかりました」と頷いてくれた。
全部、準備した。証言者を。物証を。記録を。
修了式の前日、大広間に呼び出された。
アルノーが立っている。教師たちが並んでいる。学生が大勢いる。エルミナが涙をこらえた顔で横に立っている。
「セレスティア・ラングフォード侯爵令嬢。エルミナ・ヴォルケ男爵令嬢への数々の嫌がらせについて、ここで明らかにしなければならない」
アルノーの声は静かで、落ち着いていた。
またあの声が聞こえた。
「終わった。これでシナリオが動くだろう」
私は一歩、前に出た。
「殿下、少し待っていただけますか」
「……何?」
「嫌がらせの証拠があるということでしたが、具体的に何をいつどこでしたと」
「それはエルミナが——」
「エルミナさん」
私はまっすぐ彼女を見た。
「今年の三月十二日、あなたは私の侍女エリーゼに何を渡しましたか」
エルミナの顔色が変わった。
声が聞こえる。「なぜ知ってる」
「三月十七日、あなたは図書館で誰かに会いましたか。その人に何を頼みましたか」
「……」
「エリーゼ、前に出てください」
後ろで待機していたエリーゼが、小さな封筒を持って前に進んだ。
「エルミナ様から受け取りました。中には、嘘の証言をすれば金貨三枚を渡すと書いてあります」
広間がざわめいた。
エルミナの声が聞こえる。「馬鹿な、なぜ!?なぜこの令嬢はすべてを先回りしていた」
「セレスティア、これは——」
「殿下、もう一つだけ」
私はアルノーを見た。
「殿下は、私がエルミナさんに嫌がらせをしたと信じていましたか」
「……それは」
声が流れ込んでくる。
「正直に言えば、信じてなかった。この令嬢はそういう人間ではない、と思っていた。でも証人が複数いると言われて……」
アルノーが口を開いた。
「……信じていなかった、と言ったら、嘘になる」
「そうですか」
私はそれ以上は聞かなかった。
声の中で、彼が続けている。
「この場面を見て初めてわかった。俺はこの令嬢を、ずっと過小評価していた」
大広間は、しばらく静かだった。
エルミナが「違う」「嘘だ」と言い募ったが、エリーゼの証言と封筒の前では、どんな言葉も届かなかった。
「私には、加護があります」
私は最後に言った。
「その加護の名前は《声なき声》——相手が思っているが口にしない言葉が、聞こえます。エルミナさん。初めてお会いした日、あなたが考えていたことを、ここで言いましょうか」
エルミナの顔から、すべての表情が消えた。
「……結構、です」
それだけ言って、彼女は俯いた。
修了式の後、アルノーに呼び止められた。
「少し、話せるか」
「はい」
廊下に出た。二人きりだ。
しばらくの沈黙の後、声が聞こえた。
「謝らないといけない。でも謝ったところで、信じてもらえるはずがない」
私は先に口を開いた。
「謝罪は、別に。でも一つだけ聞いていいですか」
「……何だ」
「今、何を考えていますか。声に出して、教えてください」
アルノーが目を細めた。
「……なぜ」
「加護の特性上、口に出された言葉より、心の言葉の方が先に聞こえます。殿下が今考えていることは、既に聞こえています」
「……」
「口に出してもらった方が、ちゃんと向き合えます」
長い間があった。
やがてアルノーが言った。
「謝りたい。今まで駒だと思っていた。でも今日のお前を見て、俺は何も分かっていなかったと気づいた」
「聞こえていましたよ、全部」
「……やはりか」
「殿下が私を駒だと思っていることも、エルミナさんに本命がいるかもしれないと思っていたことも。でも——」
私は廊下の窓から外を見た。
「殿下の声の中に、一度だけ聞こえたことがあります。私が断罪を覆したとき。『この令嬢を、守れなかった』と」
アルノーが黙った。
「だから、まあ。続けてみてもいいかと思っています。婚約」
「……俺が嫌と言ったら」
「聞こえてますよ、今の本音も」
彼の顔が、かすかに赤くなった。
「……やりにくい婚約者だ」
「承知しています」
「……それでも、隣にいてくれるか」
私は少し立ち止まった。
その言葉は、口に出ていた。珍しく、心の声より先に。
「……それは、本音ですか」
「ああ」
「心の声では?」
「……同じだ」
初めて、心の声と口から出た言葉が一致した。
私は再び歩き出した。
「では、考えておきます」
「なぜ即答しない」
「殿下も、最初は即答しなかったので」
背後で低い声が漏れた。笑っているらしい。
私は歩き出した。背後でアルノーの声が聞こえた。口には出ていない、心の声だ。
「——好きになるかもしれない」
前を向いたまま、私は少しだけ口角を上げた。
聞こえてます、殿下。全部、聞こえています。
でも今日だけは、わざと聞かないふりをしておいてあげます。
【完】




