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あえて屋 とき忘れ店  作者:


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第五話 木漏れ日駅の迷宮

 木崎晴人が「木漏れ日駅」のホームに降り立った瞬間、まず彼を襲ったのは、鼓膜にへばりつくような重たい静寂だった。

 いや、それは正確な静寂ではない。

 都市のノイズ、情報の高周波に慣れきった彼の脳にとって、デジタルな処理を必要としない「環境音」のすべてが、かえって巨大な空白として認識されたのだ。


 駅舎は、もはや建築物というよりは、巨大な「植物の残骸」のように見えた。

 柱のあちこちは白アリに食われ、塗料の剥げた木材は、長い年月をかけて雨と日光に晒された結果、銀灰色に変色している。そこから漂ってくるのは、古い蔵の奥底に溜まった空気のような、あるいは湿った土が木材をゆっくりと土へと還していく際の、仄かな腐敗の匂いだ。


 晴人は反射的にポケットからiPhoneを取り出した。

 画面をスワイプする指先が、わずかに震える。


(現在地を確認し、旅館までのタクシーを配車し、最短ルートを再構築する……)


 しかし、画面の左上に並んだアンテナのピクトグラムは、無慈悲にも一本も立っていなかった。


「圏外……」


 その三文字が、彼の喉の奥から乾いた音となって漏れ出た。

 ここには地図も、GPSも、彼を導くアルゴリズムも存在しない。

 彼は、自分が情報の外部へ放り出されたことを悟った。それは、酸素ボンベを奪われたダイバーが、暗い海底に取り残されたような感覚だった。


 その時、鉛色の空が耐えきれなくなったように、低い唸り声を上げた。

 ポツリ、と額に冷たい感触。

 次の瞬間、空が割れたかと思うような暴力的な夕立が、駅のトタン屋根を叩き始めた。


「……っ!」


 晴人は駅舎のわずかな軒下へ飛び込んだ。

 激しい雨音が、トタンを震わせる。バタバタバタ、というその音は、まるで無数の指がタイプライターを叩きつけているようで、彼の脳内の「損害計算スレッド」を強制的に再起動させた。


(イタリア製ウールのスーツ。購入価格、十八万五千円。クリーニング代と撥水加工の再施工費、三千五百円。雨による素材の劣化に伴う減価償却費……)


 頭の中で円単位の数字が高速でカウントアップされていく。濡れることは、彼にとって「コストの発生」と同義だった。一秒ごとに、自分の資産価値が毀損されていく。

 だが、その計算は、ふと虚空に消えた。

 どれだけ計算したところで、タクシーを呼ぶことも、雨を止めることもできない。


 自分の論理が、この物理的な自然現象の前では、一円の価値も持たないという無力感。

 晴人は、絶望に突き動かされるようにして、雨の中へ走り出した。

 駅前のロータリー(と呼ぶにはあまりに狭い空き地)を抜け、彼は唯一の逃げ道である、細い路地裏へと滑り込んだ。


 路地は、迷宮だった。

 古い木造住宅が、互いの肩を寄せ合うようにして並んでいる。屋根の隙間から落ちてくる雨垂れが、石畳の上で不規則なリズムを刻む。


 晴人の視界は、雨に濡れたメガネのレンズ越しに、滲んで歪んでいた。

 彼は角を曲がるたびに、別の「景色」の断片にぶつかった。

 最初の角。そこには、割れた植木鉢から溢れ出した土が、雨水に溶けて黒い川を作っていた。その土には、数分前まで確かにそこにあった日常を証明するような、湿った堆肥の匂いが混じっている。

 二番目の角。誰かの家の台所の窓から、夕食の支度の匂いが漏れてきた。出汁の匂い。醤油が焦げる香ばしい、しかしどこか胸を締め付けるような生活の匂い。

 それは、彼が三年間、完全栄養パウダーとサプリメントで代替してきた「食事」という名の記憶の断片だった。


「……効率的じゃない」


 彼は震える声で呟いた。

 なぜ一食のために、これほど重厚な匂いの層を構築しなければならないのか。なぜこれほど手間をかけるのか。

 だが、その「無駄」な匂いに、彼の鼻腔は執拗に反応し、胃の奥が疼くような感覚に襲われた。


 路地はさらに細くなり、奥へ行くほど光を失っていく。

 アスファルトの匂いが変わった。

 新しい都市の乾燥したアスファルトではなく、何十年もの間、雨と油と人の足跡を吸い込み、発酵し、重層的な歴史を蓄えたような、濃厚で湿った舗装路の匂い。


 晴人の革靴が、その湿った路面を蹴るたびに、不快な水音が響く。

 高級な靴の中に雨水が浸入し、靴下が皮膚に張り付く。その不快な「感触」さえも、今の彼には、自分がこの世界に質量を持って存在していることを告げる暴力的なフィードバックだった。


(右に三回、左に二回……。違う、さっきもここを通ったか?)


 彼は完全に方向感覚を失っていた。

 路地の両脇には、手入れの放棄された古い金網のフェンスや、苔むしたコンクリート塀が続く。塀の隙間からは、名もなきシダ植物が、雨を得て狂気を感じさせるほどの緑色で繁茂している。

 その緑の鮮やかさが、人工的なRGBカラーに慣れた彼の目には、毒々しく映った。


 雨脚はさらに強まり、視界は十メートル先も怪しくなる。

 晴人は、ある古い民家の軒下で足を止めた。

 肩が激しく上下し、冷たい雨水が背筋を伝って落ちる。


「……何をしているんだ、俺は」


 彼は、自分というシステムが完全にクラッシュしたことを認めるしかなかった。

 目的地の旅館には辿り着けず、デジタルな地図も使えず、ただ雨に濡れ、名前も知らない路地裏で立ち尽くしている。

 時給換算で数万円の価値があるはずの自分の時間が、ここでは一銭の価値も生み出さず、ただ浪費されていく。


 その時だった。


 濡れたアスファルトの匂いの中に、異質な香りが混じった。それは、お香の匂いでも、洗剤の匂いでもなかった。

 炭が燃えるような、静かで、しかし力強い火の匂い。そして、古い紙が放つ、乾いたインクの匂い。

 晴人は、吸い寄せられるように視線を向けた。

 袋小路の突き当たり。

 そこには、周囲の民家とは明らかに空気の密度が異なる、古びた一軒家が佇んでいた。

 看板はない。ただ、入り口の横に、雨に濡れて文字が滲みかけた、小さな木板が立てかけられているだけだ。


『あえて屋』


 その三文字を見た瞬間、晴人の脳内に、これまでの人生で培ってきた論理的な思考回路とは全く別のスイッチが入った。


「あえて……?」


 彼はその言葉を反芻した。

 合理的であること、効率的であること、最適化されること。

 それらを宗教のように信じてきた彼にとって、その動詞は、人生における「最大級の禁忌タブー」だった。

 わざわざ、しなくてもいいことをする。

 わざわざ、時間をかける。

 わざわざ、損をする。

 その、自分を否定するような名を持つ場所に、彼は救いを求めた。


 入り口の引き戸は、古い木製だった。

彼は手を伸ばし、その扉に触れた。

 雨に濡れて膨張した木材の、ざらついた、しかし確かな手応え。

 彼が今日、唯一触れた、デジタルの加工を経ていない「真実の重み」だ。


(ここに入れば、何がある?)


 コスト。リスク。不確実性。

 脳内では依然として古いプログラムが警告を鳴らしている。

 だが、その警告音は、トタン屋根を叩く雨音と、自分の激しい鼓動にかき消されていった。


「失礼……します」


 晴人は、逃げ場のない路地裏の迷宮の果てに、その禁断の扉を引いた。

 引き戸が立てる、ゴロゴロという不器用な、しかし確かな振動が、彼の指先から脳へと伝わっていく。

 それは、彼の一秒刻みの人生が、初めて「別の時間軸」へと接続された瞬間だった。

 扉の向こう側から、温かい、そして驚くほど透明な空気が流れ出してきた。

 それは、雨の匂いとも、土の匂いとも違う。

 ただの「水」が、静かに沸騰している時の、何の色もついていない蒸気の匂いだった。

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