第四話 漂流そして、各駅停車へ
逃げるための準備さえ、木崎晴人にとっては最適化の対象だった。
一泊十万円の箱根の旅館。そこは「何もしないこと」を贅沢という名の商品に変えて提供する、富裕層向けのサンクチュアリだ。
晴人は、その高額な宿泊費を「確実に休息を得るための投資」と位置づけた。投資対効果(ROI)が期待できるのであれば、十万円という支出は合理的なコストに分類される。
新宿駅、小田急線のホーム。
流線形のボディを持つ特急ロマンスカー・GSEが、滑らかにホームへと滑り込んできた。晴人は予約済みの展望席に近い特等席に身を沈める。
座席の回転効率、リクライニングの角度、そしてWi-Fiの通信速度。
彼は無意識にそれらをチェックし、合格点を与えた。だが、その指は、すでにスマートフォンの画面を叩いている。
「……箱根湯本まで、あと八十五分」
彼は独りごちた。
その八十五分を、ただ車窓を眺めて過ごすことなど、今の彼には不可能だった。彼は「リラックスするための予習」と称して、旅館の周辺の散策ルート、食事のメニュー、そして露天風呂の温度設定まで、あらゆる情報をブラウザのタブに並べていった。
しかし、列車が多摩川を越える直前、車内アナウンスが彼の完璧な計画を切り裂いた。
「……緊急停止信号を受信したため、停車いたします」
不自然なGが体にかかり、列車が鳴き声を上げるようにして止まった。
晴人の心拍数が跳ね上がる。
「原因は? 復旧までの予測時間は?」
彼は即座にSNSでハッシュタグ検索を開始した。人身事故。振替輸送。運転再開見込み。
スマホの画面に踊る無数の憶測。一分、二分と時間が過ぎるたびに、彼の「十万円の投資」の価値が目減りしていく感覚。
「……っ、タイパが最悪だ」
彼は舌打ちをした。
結局、運転再開には二時間以上を要するという情報が確定した。晴人は、止まったままの豪華な車内に耐えられなくなった。このままここで「待機」という名の無駄なコストを支払い続けるくらいなら、動いている別のルートを探すべきだ。
彼は反射的に列車を降り、階段を駆け上がり、動いている私鉄の連絡改札へ向かった。
向かった先は、行き先もよく確認していない、支線のホームだった。
「動いていればいい。停まっているよりはマシだ」
彼は、滑り込んできた三両編成の古い車両に飛び乗った。
それが、彼の「漂流」の始まりだった。
車両は、ロマンスカーのような洗練さとは無縁だった。
プラスチックの焦げたような匂いと、長年染み付いた埃の匂い。窓ガラスは薄汚れ、景色は歪んで見える。
晴人はスマホで現在地を確認しようとしたが、深い切り通しに入ったのか、画面の左上の電波強度は「圏外」を示した。
「嘘だろ……」
彼は端末を高く掲げた。だが、情報の波は届かない。
彼は強制的に、車窓から流れる風景と向き合うことを強いられた。
列車は、ゆっくりと、しかし確実に「都市」を脱ぎ捨てていった。
まず、整然としたグリッド状の住宅街が崩れ始めた。窓の外には、錆びたトタン屋根の物置や、放置されたビニールハウス、そして「汚れたコンクリート」の擁壁が次々と現れる。
それらは、晴人が今まで見てきた「美しく加工されたInstagramの風景」とは真逆の、生々しく、手入れのされていない現実だった。
風景のグラデーションは、さらに深く、暗くなっていく。
コンクリートの壁に代わって現れたのは、名前も知らない雑木林だった。
手入れを放棄された竹林が、重力に従ってしなり、窓を叩かんばかりに迫ってくる。
「……どこへ向かっているんだ」
彼は不安に駆られたが、この車両には次の停車駅を示す液晶ディスプレイも、流暢な多言語アナウンスもない。
乗客の層も、いつの間にか入れ替わっていた。
新宿駅にいた、ブランド品を身に纏い、スマホを執拗に弄るビジネスマンや観光客は一人もいない。
隣の車両から移動してきた老人は、使い込まれた大きな農協の袋を膝に置き、虚空を見つめている。その表情には、晴人が恐れる「焦り」が微塵もなかった。
向かいの席には、部活帰りだろうか、制服を着た学生が座っていた。彼らはスマホを持っているが、それを操作することなく、ただ単調なレールのリズムに身を任せて、うつらうつらと舟を漕いでいる。
情報の解像度が落ちていく。
今まで晴人の世界を構成していたのは、ピクセル単位で管理された視覚情報と、数値化された効率だった。
だが、この古い車両が吐き出す「ガタン、ゴトン」という鈍い音の塊には、解像度という概念すらなかった。
ただ、重い鉄が重い鉄を叩く、逃れようのない物理現象としての音。
ふと、鼻腔を突く匂いが変わった。
洗剤や香水の匂いではない。
それは、湿った土の匂い。
刈り取られたばかりの草の、青臭い死の匂い。
どこかの民家から漂ってくる、野焼きの煙の匂い。
それらの「情報のノイズ」が、隙間風と共に車内に入り込み、晴人の高価なスーツの繊維に絡みつく。
「一円の得にもならない……」
彼は呟いた。
だが、そう口にすることで自分を保とうとする彼自身が、今の景色の中で最も異質な存在であることを、彼は自覚せずにはいられなかった。
列車が停まるたびに、ホームに漂う匂いが異なることに気づく。
ある駅では、古い木材が雨に濡れて腐敗していくような、甘ったるい死臭に近い匂い。
別の駅では、近くにあるであろう製材所から運ばれてくる、鋭利な杉の香油の匂い。
それぞれの駅に、それぞれの「停滞」があり、それぞれの「無意味な時間」が堆積している。
晴人の時計は、午後四時を告げた。
太陽は、切り立った山の稜線に隠れ始め、世界は急速にその輪郭を失っていく。
車内の蛍光灯が、チカチカと不規則な瞬きを繰り返しながら点灯した。その安っぽい光が、晴人の手首にある、一分一秒を執拗に刻み続ける高級時計を冷たく照らす。
(……この一時間で、俺は何を得た?)
彼は自問した。
答えは、ゼロだ。
旅館への到着は大幅に遅れ、スマホの電波は途切れ、自分の現在地すら把握できていない。
だが、不思議なことに、以前に感じたような「静寂への恐怖」は、この揺れる箱の中では薄れていた。
なぜなら、この「漂流」には、抗いようのない「速度」があるからだ。
自分の意志ではなく、この老朽化した機械が、勝手に自分をどこかへ運んでいく。
その事実に、彼は微かな、本当に微かな安堵を覚えた。
列車は、さらに深い森の奥へと分け入っていく。
車輪がきしむ音が、キィィィという悲鳴のように響く。
それは、晴人が今まで耳にしてきた「情報の断片」ではなく、この大地の凹凸に逆らって進むための、生命力の叫びのように聞こえた。
駅名標が、窓の外をゆっくりと横切る。
『木漏れ日駅』
その名前が、夕闇の中に白く浮かび上がった。
晴人は、何かに突き動かされるようにして、立ち上がった。
ここがどこなのか、旅館からどれだけ離れているのか、そんな計算はもはや機能していなかった。
ただ、この古い、匂いと音に満ちた漂流船から一度降りたいという、原始的な欲求。
プシュー、という湿った音を立ててドアが開く。
晴人がホームに一歩を踏み出した瞬間、肺の奥まで冷たく、それでいてどこか懐かしい空気が流れ込んできた。
そこは、彼が知っているどの「世界」とも繋がっていない、境界線の向こう側だった。




