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あえて屋 とき忘れ店  作者:


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第三話 空白への恐怖

 産業医の診察室は、不自然なほど白かった。

 壁も、デスクも、空気清浄機のフィルターを通り抜けてくる風の匂いまでもが、徹底的に無機質に管理されている。その徹底した白さは、今の木崎晴人には、自分という存在の「書き込みエラー」を際立たせるための背景幕のように感じられた。


 デスクを挟んで座る産業医の島崎は、タブレット端末にスタイラスペンで何かを書き込みながら、感情の起伏を削ぎ落とした声で告げた。


「木崎さん。数値的に見ても、あなたの交感神経は常に限界まで張り詰めています。このままでは脳が物理的なダメージを負いかねない」


 晴人は、島崎の手元のタブレットを凝視していた。

 そこには自分のストレスチェックの結果がレーダーチャートで表示されているはずだ。どの項目が、どれだけのパーセンテージで、自分のキャリアに傷をつけたのか。


「休職……期間は」

「まずは一ヶ月。その間、あなたに課される唯一のタスクは『何もしないこと』です」


 何もしない。

 その言葉が、晴人の耳の奥で、未知の言語のように響いた。


「何もしないというのは、具体的にどう定義すればいいのでしょうか。読書や、資格の勉強、あるいは健康維持のためのジョギングなどは……」


「いいえ。情報を遮断してください。スマートフォンの通知を切り、PCを閉じ、ただ時間が流れるのを眺めてください。一秒一秒を、何かのために使うのではなく、ただ消費するんです」


 島崎の言葉は、晴人にとって「死刑宣告」に近いものだった。

 一ヶ月。七百二十時間。四万三千二百分。

 その膨大な時間を、リターンも成果物もなくドブに捨てるのか。時給換算すれば、どれだけの損失になるか。自分の「市場価値」という名の株価が、暴落していく幻覚が見えた。


「わかりました」


 晴人は立ち上がった。その瞬間にも、彼の脳内では「効率的な回復のためのロードマップ」の作成が始まっていた。


 自宅に戻った晴人は、まず玄関で、自分の指が震えているのを再確認した。

 彼はそのまま書斎へ向かい、二十七インチのデュアルモニターを起動させた。島崎に言われた「情報の遮断」という命令を、彼は「情報のデトックスという名のプロジェクト」として再解釈したのだ。


 彼はスプレッドシートを開き、『休職期間・リカバリー計画表』というタイトルを入力した。

 縦軸には時間、横軸には活動内容。


07:00-07:15:起床・白湯(リラックス導入)

07:15-08:00:マインドフルネス瞑想(効率:高)

08:00-09:00:完全栄養食による内臓の休息

……


 彼は「何もしない時間」を「何もしていないという状態を維持するタスク」として、三十分単位で細分化していった。


(……瞑想一回あたりのストレス軽減率を五パーセントと仮定すれば、十日で社会復帰可能なレベルまで回復できるはずだ……)


 指先がキーボードの上を滑る。

 カチャカチャ、という乾いた打鍵音。それは彼を安心させる唯一の音楽だった。数式を入力し、セルの色をグラデーションで塗り分ける。


「よし。これで一ヶ月の損失を最小限に抑えられる」


 しかし、画面上の美しい計画表を眺めていた晴人の指が、ふと止まった。

 静かだ。

 自分のタイピング音が止んだ瞬間、部屋を支配したのは、逃げ場のないほどの「沈黙」だった。


 彼はモニターの電源を切った。

 漆黒の画面に、青白い顔をした自分の姿が映り込む。


 島崎の言葉を思い出す。情報を遮断しろ。スマホを閉じろ。

 晴人は意を決して、iPhoneのサイドボタンを長押しした。画面に『スライドして電源オフ』の文字が表示される。そのバーを右に動かす。

 画面が消える。

 それは、彼にとって「生命維持装置」のプラグを抜くような行為だった。


 リビングのソファに深く腰を下ろした。

 時計の針は、午後二時を回ったところだった。

 窓の外からは、遠くを走る車の走行音が、まるで深海の底に響くクジラの声のように微かに聞こえてくる。


「一分……」


 彼は心の中で秒を数えた。

 十、十一、十二……。

 三十秒を過ぎたあたりで、猛烈な「痒み」が襲ってきた。

 手が、無意識にポケットを探る。


 情報の波に触れていたい。

 今、世界で何が起きているかを知りたい。

 自分のSlackに、自分がいなくても回っている仕事の通知が届いているはずだ。

 自分という存在が「不要」として処理されていくプロセスの音が、この静寂の中に混じっているのではないか。


 彼は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。

 テレビをつければいい。だが、それは「情報の遮断」というルールに反する。ルールの不履行は「回復の遅延」を招き、結果的に「コスト」を増大させる。

彼は再びソファに座った。

 その時、彼が今まで気にも留めていなかった「音」が、巨大な質量を持って迫ってきた。

 壁に掛かった、アナログの時計。

 それまでは、インテリアの一部として背景化していたはずのその音が、静寂という真空状態の中で、一打ごとに頭蓋骨を叩くハンマーへと変貌した。


カチ。

(一秒の損失)

カチ。

(二秒の損失)

カチ。

(三秒、三秒、三秒……)


「うるさい……」


 晴人は両手で耳を塞いだ。だが、音は外からではなく、自分の鼓動と同期して内側から響いてくる。

 秒針が刻むリズムが、自分を裁くカウントダウンのように聞こえた。

 この一秒の間に、世界のどこかで誰かがイノベーションを起こしている。誰かが数億円の利益を生んでいる。それなのに自分は、この換気扇の微かな振動と、壁の向こうで聞こえる他人の生活音に怯えながら、ただ座っている。


「無意味だ」


 彼は叫びたかった。


「こんな時間に何の意味がある? 生産性がない。リターンがない。ただ、細胞が老いていくだけの時間じゃないか!」


 汗が、こめかみを伝って流れた。

 デジタル・デトックス。それは甘美な響きを持つ言葉だが、重度の「効率依存症」に陥った晴人にとっては、酸素のない部屋に閉じ込められるような拷問だった。


 彼の脳は、常に情報の断片を咀嚼し、整理し、出力することで平衡を保ってきた。その入力を断たれた脳は、今度は「自分自身」を捕食し始めたのだ。

 過去の失敗。

 上司の森園に言われた「タイパが悪い」という言葉。

 自分が切り捨ててきた、友人たちからの連絡。

 それらが、整理されていない「ゴミ」のような思考となって、頭の中を濁流のように流れ出す。


「……あ、ああ……」


 晴人は膝を抱えて丸まった。

 高級な、しかしクッションの弾力が「効率的すぎる」ソファ。

 そこには、かつての彼が求めた「理想の生活」がすべて揃っていた。最新のガジェット、徹底的に無駄を省いたミニマルなインテリア、計算された照明。


 だが、その完璧な空間は、今や彼を閉じ込める冷酷な檻だった。

 窓の外の空が、ゆっくりと茜色に染まっていく。

 そのグラデーションの変化さえ、彼には「一日の終焉という名のデッドライン」が迫っている合図にしか見えなかった。


 午後五時三十二分。

 彼は耐えられず、スマートフォンの電源を再び入れた。

 林檎のマークが浮かび上がるまでの数秒間、彼は救いを求める信者のように画面を見つめた。

 ホーム画面が開く。

 通知の赤い数字が、網膜に突き刺さる。

 『未読一五六件』


「……っ」


 彼は貪るように画面をスクロールした。

 そこにあるのは、自分がいなくても滞りなく進んでいるプロジェクトの報告や、他愛のない広告メール、そして休職を知らせる自動返信に対する、形式的な「お大事に」という言葉の数々だった。

 それらを確認しても、彼の不安は消えなかった。

 むしろ、自分がいない世界がこんなにも「効率的」に動いているという事実に、吐き気が増した。


 自分は、何のために生きてきたのか。

 この一秒を削り、一分を惜しんで積み上げてきた「効率」の果てに待っていたのは、自分という部品が外れても微動だにしない、巨大で冷徹なシステムの影だけだった。


「……逃げなきゃ」


 彼は、誰に言うでもなく呟いた。

 この部屋にいてはいけない。

 この「最適化された牢獄」にいたら、自分は本当の意味で壊れてしまう。

 どこへ?

 わからない。

 だが、このデジタル時計が刻む一秒一秒が、自分を物理的に削っていくような感覚から逃れたかった。


 彼は、震える手で旅行予約サイトを開いた。


「最も短時間で行ける、最も評価の高い温泉地」

「コスパ 最高 リラックス」


 指が、勝手に「効率的な逃避行」を検索し始める。

 それが、彼という人間が知っている唯一の、そして最後の生存戦略だったからだ。

 晴人は、一泊十万円もする箱根の高級旅館を、三回のタップで予約した。

 クレジットカードの決済完了通知が届く。


「これでいい……これで、効率的に回復できるはずだ」


 彼は自分にそう言い聞かせ、まだ陽の落ちきらない街へと、逃げるように部屋を飛び出した。

 背後で、アナログ時計の秒針が、一センチの狂いもなく時を刻み続けていた。


カチ。

カチ。

カチ。


 その音は、彼がどれだけ遠くへ逃げようとも、彼の中に深く根を下ろした「効率」という名の病そのものだった。

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