第二話 論理の破綻
駅のホームで膝をついた時間は、客観的な記録によれば一分と三十五秒だった。
木崎晴人の脳内時計において、その空白は致命的なシステムエラーに相当した。彼は震える手でホームのベンチを掴み、無理やり体を垂直に引き戻した。
「……一時的な低血糖だ」
彼は自分自身にそう言い聞かせた。
論理的な説明、数値化可能な原因。それさえあれば、この異常事態は制御下に置けるはずだった。
彼はスーツのポケットから、予備のブドウ糖ラムネを二粒取り出し、噛み砕かずに飲み込んだ。唾液が分泌されるのを待つ数秒さえ、今の彼には「損失」だった。
午前八時五十九分。
彼は港区に位置する超高層ビルの、六十二階にあるオフィスに足を踏み入れた。
指紋認証、顔認証。二重のセキュリティを通過するたび、彼は自分自身の「正当性」が証明されるのを感じて安堵した。自分はまだ、この高度に最適化されたシステムの一部である。部品としての機能は失われていない。
オフィスの空気は、サーバー室と同じ摂氏二十二度に保たれていた。
低く鳴り続ける空調のハミングと、数百台のPCが発する微かな排熱の匂い。そこは彼にとって、呼吸が最も深くできる場所であるはずだった。
自分のデスクに座り、MacBook Proのカバーを開く。
スリープ解除からネットワーク接続まで、一・二秒。
その速度を確認して、晴人は小さく息を吐いた。
「木崎さん、昨日のレポートの件ですが」
後輩の社員が話しかけてくる。晴人は画面から目を離さずに応じる。彼の脳内では、この会話に割くべき「適正コスト」が瞬時に算出される。
(内容:既知の不具合。重要度:低。予測所要時間:四十五秒)
「……その件なら、共有フォルダの『Archives』内にある先月のログを見ておいて。三十二行目に解決策が書いてある」
「あ、はい。ありがとうございます」
後輩が去る。会話終了。所要時間、二十八秒。予定より十七秒の短縮。
晴人は満足感を覚える代わりに、自分の喉の奥が砂漠のように乾いていることに気づいた。先ほど飲んだラムネの甘みが、不快な粘り気となって舌に張り付いている。
午前十時三十分。
第十四会議室。
今日のメインイベントである、新規マーケティング施策の最終プレゼンテーションが始まった。
出席者は、常務の森園を筆頭とする役員五名。
森園という男は、この会社における「効率の神」だった。彼の前で数字に裏打ちされていない発言をすることは、即座にキャリアの死を意味する。
晴人は演台に立ち、プレゼン資料をスクリーンに投影した。
全百二十枚のスライド。それを十五分で完結させるために、彼は一分間に八枚のペースで説明を行う訓練を積んできた。
「……以上のデータから、今回の施策によるコンバージョン率は現行の一・五倍、ROIは二百二十パーセントを維持しつつ、CACを十五パーセント削減できる見込みです」
晴人の声は完璧だった。淀みなく、感情を排し、ただ「最適解」だけを空間に刻んでいく。
プレゼン開始から十四分四十秒。
彼は完璧な着地を確信し、マウスを握る手に力を込めた。
「……なるほど。木崎君、資料の精度は相変わらず素晴らしい」
森園が、感情の読めない声で口を開いた。
「だが、この中間報告のフェーズでここまでの詳細な分析が必要だったかな? 結論から言えば、この三分の二のボリュームで、十分、意思決定は可能だったはずだ」
晴人の思考が一瞬、停止した。
「……と、おっしゃいますと」
「君、タイパが悪いよ」
森園が、銀縁の眼鏡の奥で目を細めた。
「今の時代、情報量が多いことは美徳ではない。削ぎ落とし、最短距離で確信に触れさせる。それがプロの仕事だ。
君のこのプレゼンには、僕たちの『時間』というコストに対する配慮が欠けている。もっとタイパを意識しろ。次に期待しているよ」
『タイパ』。
その三文字が、晴人の耳の奥で、爆鳴弾のように弾けた。
今まで自分が信じ、積み上げてきた「完璧な効率」が、さらに上位の「効率」という刃によって無慈悲に切り捨てられた。
その瞬間、世界から音が消えた。
いや、音は消えていない。
代わりに、今まで聞いたこともないような異質な音が、脳の深部で鳴り始めた。
「ツ、ツツ……ツー、ト、ト……」
それは、規則的な電子音の羅列だった。
モールス信号。
意味を持たない信号の断片が、神経を直接逆なでするような高周波で響き渡る。
森園の口が動いている。何かを言っている。だが、その言葉はもはや「意味」として晴人の脳に届かない。
「ア、ア、オ、イ……」
母音だけが空虚に響く。言葉という情報のパッケージが解体され、ただの物理的な空気の振動へと成り下がっていく。
「……木崎君? 聞いているのか」
森園の声が、巨大な金属板を引きずるような不協和音となって晴人を襲った。
晴人は、自分の足元を確認しようと視線を落とした。
そこには、愛用しているはずのMacBook Proがあった。
だが、それはもうアルミニウムの塊ではなかった。
キーボードの一つ一つのキーが、微かに、かつ不規則に脈動し始めていた。
「……あ」
視界の端で、Jのキーが不自然に盛り上がる。それは、漆黒の外殻を持った、得体の知れない微小な生物の集合体のように見えた。
A、S、D、F……。
キーボード上のアルファベットが、文字としての意味を失い、細い脚を持った多足類のように蠢き出す。
それらは、晴人が指を触れるのを待っている。指を置いた瞬間に、皮膚を食い破り、血管の中へ潜り込もうとしているのだ。
マウスを握る右手が、激しく痙攣した。
液晶画面上のグラフ。美しく整理されたはずの棒グラフや円グラフが、ドロドロとした原色の液体に変貌し、画面の縁から机の上へと溢れ出していく。
「……っ!」
晴人は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
会議室の役員たちが、驚きの表情で彼を見ている。その表情さえも、ピクセルが粗くなった動画のように崩れ、ノイズが混じっている。
「失礼、します……」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど掠れていた。
彼は資料も、MacBookも、その場に置いたまま、会議室を飛び出した。
背後で森園が何かを叫んだような気がしたが、その声もまた「ツ、ツツー」というモールス信号のノイズに飲み込まれて消えた。
廊下を走る。
壁の白さが、目に刺さる。
床のタイルの一枚一枚が、自分を追いかけてくるキーボードの断片に見える。
彼は多目的トイレの個室に転がり込み、鍵を閉めた。
狭い空間。
そこだけが、情報の濁流から切り離された唯一の避難所だった。
晴人は便座に座り込み、両手で耳を塞いだ。それでも、脳内のモールス信号は止まらない。
「……ト、ト、ト、ト……ツー……」
執拗な信号。それはまるで、彼というシステムの「強制終了」を宣告するカウントダウンのようだった。
彼は自分の胸を強く叩いた。
心臓が、リミッターを振り切ったエンジンのように暴れている。
「落ち着け。論理的に考えろ。これはパニック発作だ。深呼吸を一回、吸うのに三秒、吐くのに六秒。それで血中の二酸化炭素濃度が調整され、脳の偏桃体が鎮静化する。……吸え。三……二……一……」
できない。
呼吸の方法を忘れてしまった。
酸素というリソースを、どのように体内に取り込めば効率的なのか、その計算式が霧に包まれて見えない。
酸素を取り込むことすら「コスト」に感じられ、息をすることに恐怖を覚える。
彼は、自分が作り上げた「論理」という名の城壁が、砂上の楼閣のように崩れ去る音を聞いた。
今まで彼を支えていたのは、世界を数値化し、制御できるという傲慢な確信だった。
だが、今、彼を支配しているのは、数値化不能な恐怖と、制御不能な感覚の反乱だった。
「……たすけて、くれ」
誰に向けたわけでもない言葉が、無機質なトイレの個室に虚しく響く。
壁に貼られた『正しい手洗いの方法』という掲示物さえ、今の彼には解読不能な魔導書の断片に見えた。
情報の残骸に埋もれ、彼はただ丸まった。
かつて彼が「ゴミ」として切り捨ててきた「無駄な時間」の中に、今の彼を救うための答えがあるとは、微塵も思わなかった。
彼にとって、世界は完全に壊れてしまったのだ。
どれほどの時間が過ぎたのか。
個室の外で、自動洗浄の水の音がした。
その「ゴォーッ」という単純な水の流れる音が、不思議とモールス信号のノイズをわずかに遮断した。
晴人は、震える手でポケットを探った。そこには、先ほど電源を切ったはずのスマートフォンがあった。
彼は、縋るようにその電源を入れた。
数秒の起動時間の後、ロック画面に飛び込んできたのは、無数の通知バッジの赤。
『未読一二八件』
『不在着信(森園常務):三回』
『至急確認:プロジェクト進捗の件』
その赤い数字を見た瞬間、晴人は吐き気を催し、便器に顔を突っ込んだ。
何も出ない。胃の中には、朝飲んだ灰色の液体すら残っていない。
ただ、喉を焼くような苦い胆汁と、終わりのない絶望の味だけが口の中に広がっていた。
論理は破綻した。
効率は彼を裏切った。
木崎晴人という精密機械は、今、完全に機能を停止した。




