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あえて屋 とき忘れ店  作者:
河野沙希

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19/19

第十九話 失敗を煮込むキッチン

 『あえて屋』の朝は、都会のそれとは全く異なる音色で幕を開ける。

 電子音の目覚ましも、急き立てるような通知音もない。ただ、遠くで鳴く鳥の声と、古い木造家屋が朝露を吸って微かに軋む音。そして、板間の向こう側から聞こえてくる、ト、ト、ト、という規則正しい包丁の響き。


 晴人が目を覚まし、昨夜のインクの染みがまだ薄く残る指先を見つめていると、廊下から聞き慣れない足音が聞こえてきた。静子の落ち着いた足取りよりも少しだけ速く、それでいて迷いを含んだ、どこか危うい歩調。


 キッチンへ向かうと、そこには昨夜までの「トップインフルエンサー」の面影を脱ぎ捨てた沙希が立っていた。

 彼女は静子から借りたのであろう、少しくたびれた紺色のエプロンを身に纏っている。三台のスマートフォンは、キッチンの隅にある棚の上に、まるで無用の長物として積み上げられていた。


「……おはようございます」


 晴人が声をかけると、沙希は肩をびくりと揺らして振り返った。その顔には、昨日まで徹底的に塗り固められていた完璧なファンデーションはなく、寝不足気味のわずかな隈と、ありのままの素肌が晒されている。

 しかし、その瞳は、ブルーライトを追っていた時よりもずっと鮮明に、目の前の「現実」を捉えていた。


「おはよう、晴人さん。……見て、これ。地獄みたいな作業」


 沙希が指し示したのは、大きなザルの上に山盛りになった、銀色の小さな死骸たち――煮干しだった。


 静子は、沙希の隣で静かに微笑みながら、手本を見せていた。

 煮干しの頭を軽く折り、腹を裂き、中から黒い内臓――「苦味」の元となる部分を丁寧に取り除く。一匹につき、わずか数秒。しかし、ザルの中には数百匹の煮干しが控えている。


「沙希さんがね、どうしても『出汁』の取り方を教えてほしいって仰るのよ。一番、時間の掛かるものからがいいって」


 静子の言葉に、沙希は苦笑しながらも、一匹の煮干しを手に取った。

 その瞬間、彼女の細い指先に、銀色の鱗がキラリと付着した。


「昨日までは、食べ物は『色』と『構図』でしかなかった。でも、この煮干し、すごく生臭いし、硬い。触ると指がカサカサになるの。……効率を考えたら、粉末の出汁パックを投げ込めば一秒で済むのにね」


 沙希はそう言いながら、煮干しの頭をパキリと折った。

 デジタルな世界では、不快なものはブロックし、不要なプロセスはスキップできる。だが、本物の出汁を取るためには、この「一匹一匹の死骸と向き合う」という、あまりにも泥臭く、非効率な摩擦を避けて通ることはできない。

 晴人は、沙希の隣に腰を下ろし、自分もザルに手を伸ばした。


「手伝いますよ。僕も、自分の『苦味』を取り除く作業には慣れてきましたから」


 二人は無言で、煮干しの頭を折り続けた。

 パキッ、パキッという乾いた音が、静かなキッチンに反響する。

 沙希の指先は、次第に銀色の鱗で覆われていった。それは、昨夜のインクの染みとはまた違う、命の破片を直接触っているという生々しい手触りだった。鱗は指紋の溝に入り込み、光の加減で虹色に光る。


「……ねえ、これ。なんだか、昨日の手紙を書いている時に似てる」


 沙希が、一匹の煮干しの内臓を取り出しながら呟いた。


「一匹一匹、個体差があるの。こいつは内臓が大きくて苦そうだなとか、こいつは形が綺麗だなとか。……今まで、私は人間も煮干しみたいに見てたのかもしれない。年収とか、フォロワー数とか、スペックだけで選別して、その中にある『苦味』や『面倒くささ』を、ただのゴミとして切り捨ててた」


 彼女の指先が、煮干しの腹を裂く。


「でも、こうやって自分の手で苦いところを取り除いていると、なんだか……その苦味さえも、この魚が生きてきた証拠なんだなって思えてくる。捨てちゃうんだけど、無視はできないっていうか」


 やがて、下処理を終えた煮干したちは、大きな鍋の中で静かに水に浸された。

 静子は火をつけず、そのまましばらく置くように指示した。


「急いではいけません。煮干したちが、自分の持っている味を水に預けるまで、待ってあげるんです」


 一時間後。コンロに火が灯された。

 パチパチというガスの火が鍋の底を叩き、やがて、小さな泡がふつふつと立ち上り始める。

 キッチンの空気は、次第に濃厚な、どこか懐かしい海の香りで満たされていった。


 沙希は、鍋の前に立ち、アクを掬い取る網を握っていた。

 沸騰直前、表面に浮き上がってくる薄茶色の泡。それは、丁寧に下処理をしたはずの煮干しから、それでも溢れ出してしまう「雑味」だ。


「どんなに丁寧に準備しても、やっぱりアクは出るのね」


 沙希は、丁寧に、強迫観念に近い慎重さでそのアクを掬い取った。


「昨日までの私なら、このアクが出た時点で『失敗作』として捨ててたと思う。完璧じゃないものは、表に出しちゃいけないって思ってたから。……でも、静子さんは、アクが出るのは『一生懸命煮えている証拠』だって言うの」


 晴人は、鍋から立ち上る湯気の向こう側に、沙希の変容を見ていた。

 彼女の横顔は、昨日のような刺々しい美しさではなく、どこか熱を帯びた、柔らかい輪郭を持っていた。


「晴人さん、あなたの『壊れた時の話』、煮干しの出汁みたいだね」

「えっ?」

「時間をかけて、苦いところを認めて、それでも出てくるアクをこうやって何度も掬い取って。……そうやって、ようやく透き通ったスープになる。一瞬で出来上がるインスタントな人生には、この深みは出せないんだよ、きっと」


 沙希は、掬い取ったアクを水の中に放した。

 濁った水の中で、アクが散っていく。

 彼女がやっているのは、単なる料理ではない。自分の人生の中に溜まった「失敗」や「後悔」を、火にかけ、煮込み、時間をかけて濾過していく作業そのものだった。


 鍋の中の液体は、最初は無色透明に近かったが、時間が経つにつれて、美しい琥珀色へと変わっていった。

 それは、都会のレストランで供される、計算し尽くされた黄金色のコンソメとは違う、どこか野性味を残した、力強い色だった。


「……できた」


 沙希が火を止めた。

 キッチンには、素材そのものが持つ、圧倒的な香りが充満している。

 彼女は自分の手を眺めた。

 銀色の鱗が、乾燥して肌に張り付いている。

 高級なハンドクリームで整えられていた彼女の手は、今や魚の匂いと、水の冷たさと、火の熱さに晒され、ひどく「生活」の匂いがした。


「晴人さん。私、自分の動画、一回全部消そうと思ったんだけど……やめたの」


 沙希は、お玉で出汁を少し掬い、小皿に分けた。


「あのみっともない加工だらけの動画も、私が出しちゃった『アク』なんだなって。それも全部含めて、私の味なんだって思えるようになったから。……これ、飲んでみて」


 晴人は差し出された小皿を受け取った。

 まだ熱い液体を口に含む。

 舌の上で踊るのは、暴力的なまでの魚の旨味と、微かな苦味、そして、それを包み込むような深いコクだった。


「……美味しいです。すごく、重たい味がする」

「そうでしょ? 重いの。一秒で消える『ライク』とは、質量が違うの」


 沙希は自分でもその出汁を一口飲み、ふう、と大きな息を吐いた。

 その瞬間、彼女の背負っていた「インフルエンサー」という名の重圧が、湯気に溶けて消えていくのが見えた。


 晴人は、自分の胸の奥にある「傷」もまた、この出汁のように、いつか誰かの身体を温める滋味に変わる日が来るのかもしれないと、初めて確信した。

 再生とは、元通りになることではない。

 失敗や苦味を「無駄」として排除せず、それらをじっくりと煮込み、自分だけの「深み」に変えていくプロセスのことなのだ。


 窓から差し込む朝の光が、二人の汚れた手を照らし出していた。

 銀色の鱗は、まるで小さな勲章のように、静かに輝いていた。

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