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あえて屋 とき忘れ店  作者:
河野沙希

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第十二話 二人の迷子

 静寂が、厚い真綿のように部屋の隅々を埋め尽くしていた。

つい先ほどまで、カウンター越しに響いていた沙希の震える声や、三台のスマートフォンが放つ電子的な「叫び」は、この奥座敷の襖一枚を隔てただけで、まるで数光年の彼方の出来事のように遠ざかっていた。


 晴人は、手にした盆の重みを感じながら、閉ざされた襖の前に立ち尽くしていた。盆の上には、静子が用意した二杯の白湯。それと、場違いなほどに鈍い光を放つ、一本の古い万年筆。


「……僕が、彼女の面倒を?」


 晴人は、先ほどの静子の言葉を反芻し、喉の奥で苦い砂を噛むような思いをしていた。

 今の自分に、一体何ができるというのか。自分自身、ようやく「一倍速」の歩き方を覚えたばかりの、足元の覚束ない赤子のような状態ではないか。情報の濁流から這い上がり、泥を吐き出しながら、ようやく呼吸を整え始めたばかりの自分が、まだ濁流の真っ只中で溺れている人間を助けるなど、傲慢が過ぎるのではないか――。

 だが、静子はただ、深い湖のような瞳で彼を見つめ、「あなたにしか、見えないものがあるはずです」とだけ言った。

 晴人は意を決し、襖に指をかけた。


「失礼します」


 乾いた音を立てて襖が開く。

 そこは、わずか六畳ほどの空間だった。中央には、長い年月を経て黒光りするまでに磨かれた文机ふづくえが据えられている。

 壁際には、背表紙の文字が消えかかった古い和綴じの本が重なり、部屋の隅には、行灯あんどんを模した柔らかな灯りが一つ。その光は、部屋のすべてを照らすのではなく、むしろ「照らされない闇」の深さを強調していた。


 沙希は、その文机の前に、まるで糸の切れた操り人形のように座り込んでいた。

 ピンヒールを脱ぎ捨て、高価なストッキングを履いた足は、冷たい畳の上で心細げに丸まっている。彼女の完璧にセットされた髪は、わずかに乱れ、陶器のような肌には、行灯の影が深く、鋭く落ちていた。


「……何の用?」


 彼女は顔を上げなかった。その声は、入店の時に見せたあの攻撃的な鋭さを失い、ひどく掠れていた。


「スマホ、返してくれるの? もう五分経った。いや、体感では一時間は経ってる。私の時給、いくらだと思ってるの? この沈黙のせいで、私の時価総額がどれだけ毀損されたか、あんたにわかる?」


 晴人は黙って歩み寄り、文机の上に盆を置いた。


「白湯です。静子さんからです」

「いらない。カロリーもカフェインも、何の機能性ファンクションもない水分なんて、私の体に入れるコストの無駄」


 沙希はそう言い放ちながらも、その指先は、無意識に畳の上を「スクロール」していた。

 何もない畳の表面を、彼女の親指が激しく、虚しく、何度も何度も上下に動く。

 それはもはや生理的な反射だった。脳が、常に新しい情報の入力を求め、画面の更新リフレッシュを熱望し、それが得られないことにパニックを起こしている証拠だ。


 晴人は、その指先を見て、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


(……同じだ)


 そう、かつての自分も、まさにこうだった。

 会議中、食事中、寝室で。何かが「更新」されていない一秒が、死に等しい恐怖として襲いかかってきた。自分の価値は、外部から流れ込んでくる情報の「速さ」と、それを処理する「効率」だけで決まると信じて疑わなかった。

 晴人は、文机の向こう側に静かに腰を下ろした。


「……返せませんよ。あなたの指が、その『スクロール』をやめるまでは」


 沙希が、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、強烈な敵意と、それを上回るほどの「空虚」が渦巻いていた。


「あんたに、何がわかるっていうの。私、トップインフルエンサーだよ? 毎日、何十万人もの視線に晒されて、一瞬でも立ち止まったら、次のアルゴリズムの波に飲み込まれて消されるの。

 私は、私が作り上げた『最高の私』を維持し続けなきゃいけないの。止まったら、死ぬの」


 彼女の表情は、完璧に計算されたメイクによって、一見すれば美しい。

 だが、至近距離で見つめる晴人の目には、その美しさが「死相」のように見えた。

 目の下の、コンシーラーで隠しきれない微かな澱み。口角の筋肉の、不自然な強張り。それは、過剰な最適化によって摩耗し、限界を超えてなお駆動し続けようとする精密機械の断末魔だった。


「わかりますよ。痛いほど」

 晴人は、穏やかに、しかし断定的に言った。

「僕も、あなたと同じ場所にいたから。情報の海で溺れながら、それが泳いでいるんだと思い込んでいた。自分が一番速いと思っていたけれど、実際は、誰が作ったかもわからないランニングマシンの上を、最高速度で走らされていただけだった」


「……一緒にしないで」

沙希は唇を噛んだ。

「あんたみたいな、くたびれたおじさんと私が同じなわけない。私は選ばれたの。私は投資して、回収して、勝者になったの」


「勝者が、そんなに震えているんですか?」


 晴人の言葉に、沙希は息を呑んだ。

 自分の両手が、膝の上で激しく震えていることに、彼女は今初めて気づいたようだった。

 三台のスマートフォンという「鎧」を剥ぎ取られた彼女は、ただの二十六歳の、疲れ果てた一人の女性に過ぎなかった。


 部屋を支配するのは、古い紙が放つ、少し酸っぱいような、埃っぽい匂いだ。

 それは、デジタル世界の無菌室のような無機質さとは対極にある、生々しい「時間の蓄積」の匂いだった。

 晴人は、盆の上の万年筆を手に取った。


「静子さんが言っていました。今日、あなたが削るのは、時間ではなく、その指先の『たこ』だと」

「削る……?」


 沙希が、自身の親指をじっと見つめる。

 スマホの操作によって角質化し、感覚の鈍くなった、平らな皮膚。


「私の価値を……この効率の証を、否定するっていうの?」

「否定じゃありません。取り戻すんです」


 晴人は、一本の万年筆を彼女の前に差し出した。


「デジタルは、やり直しが効きます。削除も、加工も、やり直しも一瞬。

 でも、この部屋にあるものは、一度書いたら消せません。失敗も、震えも、全部そのまま紙に残る。それは『非効率』ですが、同時に『唯一無二』でもあります」


 沙希は、万年筆を、まるで毒蛇でも見るような目で見つめた。

 彼女にとって、文字とは「打ち込む」ものであり、加工して「発信する」ものだった。

 自分の手で、インクという物質を使って、紙を汚す。その肉体的な労働が伴う行為は、彼女がこれまで最も忌み嫌ってきた「コストの塊」だった。


 晴人は、窓の外を眺めた。

 雨上がりの夜気が、薄暗い庭の木々を揺らしている。


「僕たちは、迷子なんです。都会の、一倍速では到底追いつけない速度の迷路の中で、出口を求めて全力疾走しているだけの」


 晴人の視線と、沙希の視線が、行灯の微かな光の中で交錯した。

 都会のネオンに焼かれた瞳と、少しずつ闇の深さを覚え始めた瞳。

 そこにあるのは、互いへの反発ではなく、同じ傷を持つ者同士が抱く、鋭い痛みだった。


「……五分だけ」


 沙希は、消え入りそうな声で繰り返した。


「五分だけ、やってみる。それで何も得られなかったら、私はスマホを返してもらうし、この店を『最悪のタイパ店』として拡散してやる」


「ええ、構いませんよ。拡散するフォロワーが、まだあなたの中に残っていればですが」


 晴人の皮肉めいた、しかしどこか慈しむような言葉に、沙希は鼻を鳴らし、おずおずと万年筆に手を伸ばした。

 その指先が、古い金属の冷たさに触れた瞬間。

 奥座敷の空気が、かすかに揺れた。

 それは、二人の迷子が、地図のない旅路の最初の一歩を、あえて「歩いて」踏み出した瞬間だった。

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