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あえて屋 とき忘れ店  作者:


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第十一話 スクロールする指先

 雨上がり特有の、湿ったアスファルトが放つ重苦しい匂いが、まだ路地裏の隅々に澱んでいた。

 『あえて屋』の入り口。看板もなく、ただ古びた木戸があるだけのその場所に、一人の女が立っていた。彼女の足元には、細いピンヒールが、不揃いな石畳の隙間に溜まった泥水を避けるように、鋭い点として打たれている。


 彼女――河野沙希は、しかし、自分の足元など一分いちぶも見てはいなかった。

 彼女の視線は、胸元に掲げた最新型のスマートフォンの画面に、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように固着していた。

 指先が、流麗に、かつ無機質に動く。

 シュッ、シュッ。

 厚さ〇・五ミリの強化ガラスの上を、彼女の親指が乾いた摩擦音を立てて滑る。

 画面の中では、色鮮やかな男性たちの顔写真とスペックが、まるでベルトコンベアに乗せられた製品のように次から次へと流れては、左右へと振り分けられていく。


「――なし。低身長、コスパ悪そう」

 シュッ。左へ。

「――なし。年収八百万……この年齢でこれは停滞。リスク高い」

 シュッ。左へ。

「――なし。趣味がキャンプ? 時間の無駄。準備と後片付けに何時間かけるつもり?」

 シュッ。左へ。


 彼女の瞳には、路地裏の情緒ある黄昏色など微塵も映っていない。代わりに、高精細な有機ELディスプレイが放つ強烈なブルーライトが、その虹彩の中に青白いネオンのように焼き付いていた。

 彼女にとって、目の前の現実世界は「背景」に過ぎず、画面の中にある数字と記号の羅列こそが、唯一攻略すべき「戦場」だった。


 沙希は、空いている方の左手で、無造作に木戸を押し開けた。

 ガラガラという、乾燥しきった木材が擦れ合う音が静寂を割ったが、彼女はその音に眉一つ動かさない。視線は固定されたまま、吸い込まれるように店の中へと足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ」


 静子の、低く落ち着いた声が迎え入れる。

 だが、沙希は返事もしなかった。返事をするための〇・五秒を惜しんでいるのか、あるいは単に、その声が彼女の「最適化された聴覚領域」からノイズとして除去されているのか。

 彼女は三台あるスマホのうちの一台を、コートのポケットから震えながら取り出した。ブブッ、ブブッという短い振動が、彼女の太腿を絶え間なく叩き続けている。通知の濁流。DM、ライク、コメント、リマインド。彼女はそれらを、まるで外科手術を執刀する医師のような手つきで、淀みなく処理していく。


 店の奥にある、小さな座敷。

 そこには、一足先に『白湯』を終えた木崎晴人が座っていた。

 晴人は、扉が開いた瞬間に流れ込んできた「都会の毒」とも呼ぶべき焦燥の気配に、思わず身を固くした。

 入ってきた女が放つ空気。それは、つい数週間前までの彼が、全身に纏っていたものと寸分違わぬ匂いだった。

 効率。速度。最適化。

 彼女の指先の動きは、かつての晴人がエクセルのショートカットキーを叩き、情報の波を捌いていた時のリズムそのものだ。それは、周囲の時間の流れを無理やりねじ曲げ、自分だけが超高速のクロック数で駆動しているかのような、一種の狂気を孕んでいた。


 沙希は、店内の空気感――古い紙の匂いや、微かに漂う炭の香りを完全に無視し、最も光の入りやすい、しかし最もスマホの電波が入りそうな位置にある座布団に、すとんと腰を下ろした。

 座った瞬間も、彼女の親指は止まらない。

 マッチングアプリの画面。右、左、右、右、左。

 一人の人間の人生、学歴、年収、趣味、容姿が、わずか零点五秒のフリックで判別される。それは「出会い」ではなく「選別」であり、さらに言えば「査定」だった。


「お嬢さん。そんなに急いで、どこへ行かれるんですか」


 カウンターの向こう側で、静子が穏やかに問いかけた。

 沙希は初めて顔を上げた。だが、その顔は、カメラのレンズに向けるための「加工済みの笑顔」の筋肉だけが完璧に配置された、血の通わない仮面のようだった。

 彼女の肌は、高価な化粧品と最新の美容医療で陶器のように滑らかに整えられていたが、その奥にある毛細血管が熱を失っているように見えた。


「どこへって……決まってるじゃないですか。正解ベストな人生の、最短ルートですよ」


 沙希は早口で答える。言葉の端々に、沈黙を嫌う現代人特有の焦りがある。


「二十代のうちに、最も資産価値の高い個体を確保して、最もフォロワーが羨むライフスタイルを構築して、それを効率よくマネタイズする。

 一秒でも遅れたら、市場価値は暴落するんですよ? おばあちゃんこそ、こんな電波も入りにくい路地裏で、時間をドブに捨ててて怖くないんですか?」


 彼女はそう言い捨てると、再び視線を画面に落とした。

 その瞬間、彼女の背後にある『奥座敷』の静寂が、まるで異物を排除しようとする免疫反応のように、彼女の周囲の空気を重く押しつぶした。


 あえて屋の奥座敷は、初めて晴人が過ごしたカウンターとはまた違う趣がある。

 壁際には、背表紙の文字も消えかかった古い和綴じの本が並び、部屋の隅には、長い年月をかけて呼吸してきたであろう文机ふづくえが据えられている。

 そこには、現代社会が最も恐れるもの――「沈黙」と「意味のなさ」が、インクの染みのように染み付いていた。


 ブブブブッ!

 沙希のスマホが、机の上で激しく暴れた。


「あ、またライクが来た。この人、外資コンサルで年収三千万……あ、でも居住地が横浜。都内じゃない。移動時間が片道三十分増えるのはマイナスだな。時給換算すると……」


 彼女の指先が、画面上の計算機アプリへと飛ぶ。

 晴人は、その様子を息を潜めて見守っていた。

 彼の目には、彼女の指先から、目に見えない青白い糸が何千本も伸び、それが彼女の首や腕をがんじがらめに縛り上げているように見えた。その糸の先には、実体のない数千万人のフォロワーや、アルゴリズムという名の冷酷な神が鎮座している。

 彼女は自由を謳歌しているようでいて、その実、一倍速の現実から逃れるために、加速し続けるランニングマシンの上を走らされているだけの囚人だった。


 静子が、ゆっくりと沙希の前に歩み寄った。

 彼女の手には、メニュー表すら載っていない。


「お嬢さん。今日の『あえて』は、そこの奥座敷でやっていただきます」

「奥座敷? あれか。あそこ、暗くて映えないから嫌なんですけど。もっとライティングのいい場所、ないんですか?」

「映える必要はありません。今日、あなたに削っていただくのは、時間ではなく……その、指先のたこです」


 沙希は怪訝そうに自分の右手の親指を見た。

 そこには、長年のスマホ操作で固くなった、平らで感覚の鈍い皮膚があった。

 それは、彼女が「最適化された世界」と接続し続けるために作り上げた、一種の防具であり、武器だった。


「その部屋には、文机があります。万年筆と、一本のインク瓶。そして、真っ白な便箋を置いてあります」


 静子の言葉に、沙希は鼻で笑った。


「手書き? まさか。フリック入力なら一分間に二百文字打てるんですよ。わざわざ手を汚して、時間をかけて字を書くなんて、それこそ究極の非効率。何のバリューがあるんですか?」


「バリューはありません」

 静子は断言した。

「ただ、その指先が、ガラスの感触以外のものを思い出すまで、そこにいていただきます。もちろん、スマートフォンは……お預かりしますよ」


 その言葉が出た瞬間、沙希の顔から余裕が消え失せた。

 彼女の両手が、無意識に三台のスマホを抱え込む。


「……正気? これがないと、私は死ぬんです。返信が五分遅れたら、案件の契約が飛ぶかもしれない。マッチングした男にブロックされるかもしれない。私の価値は、この端末の中にある情報の鮮度で決まるんです!」


 沙希の叫びは、あえて屋の分厚い木材の壁に吸い込まれ、響くこともなく消えた。


 晴人は、自分の胸の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えた。

 かつて、自分も同じことを言った。

 端末がなければ、自分は空っぽの器に過ぎないと信じ込んでいた。

 だが、今の彼にはわかる。彼女が守ろうとしているのは、自分の価値ではなく、自分を消費し続ける「アルゴリズムの都合」なのだ。


 静子は、ただ手を差し出したまま、動かない。

 その手は、急ぐことも、強いることもなく、ただそこにある。

 まるで、激流の中で溺れている者が、ようやく見つけた流木のように。


 沙希の呼吸が、次第に荒くなっていく。

 彼女の指先は、今も無意識にスマホの画面をタップしようとして、空を切っている。

 脳が、ドーパミンを求めて、情報の入力を求めて、悲鳴を上げている。

 彼女の瞳に、初めて「恐怖」の色が浮かんだ。

 ブルーライトの光を失った瞳は、驚くほど深く、そして虚無の色を湛えていた。


「……五分だけ」


 沙希の声が、震えていた。


「五分だけ、あっちに座ればいいんですよね。そのあと、返してくれますよね?」


 静子は答えず、ただ微笑んだ。

 沙希は、断腸の思いで、三台のスマホを静子の手に渡した。

 その瞬間、彼女の全身から力が抜け、まるで魂を抜き取られた操り人形のように、肩が力なく落ちた。


 彼女はフラフラとした足取りで、奥座敷へと向かった。

 襖が閉まる音が、この世との境界線を閉ざす音のように聞こえた。


 晴人は、その襖を見つめたまま、自分の指先をそっとさすった。

 彼の指も、かつてはあのように固くなっていた。

 だが、今は少しだけ、血が通っている。

 爪の間に残った、昨日の夜に自分で剥いたリンゴの匂いが、微かに鼻をくすぐる。


「晴人さん」

 静子が、スマホを籠に収めながら言った。

「あの子の『お手伝い』、お願いしてもよろしいですか?」


「……僕が? 僕に何ができるんですか」


「あなたには、わかっているはずです。情報の濁流から引き上げられた直後の、あの、耳の奥で鳴り止まない不快な静寂ノイズの消し方を」


 晴人は、重い腰を上げた。

 それは、一人で白湯を飲んでいた時よりもずっと残酷で、ずっと泥臭い、他人という名の「ノイズ」との対峙だった。


 奥座敷に入ると、そこには、暗がりの中で、一台の文机の前にうずくまる沙希の後姿があった。

 彼女の前には、一本の万年筆と、深く澱んだ夜の海のようなインク瓶。

 そして、まだ誰も汚していない、あまりに白すぎる紙が置かれていた。

 沙希の指先は、今もなお、そこに存在しないスマホを探して、机の上を虚しくスクロールし続けていた。


「スクロールしても、そこには誰もいませんよ」


 晴人の声に、沙希がびくりと肩を跳ねさせた。

 彼女の瞳から、加工という名のフィルターが剥がれ落ち、そこには剥き出しの、震える人間がいた。

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