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あえて屋 とき忘れ店  作者:


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第十話 一倍速の帰り道

 引き戸が閉まる「ガラガラ」という音を背中で聞きながら、木崎晴人は再び「迷宮」へと足を踏み出した。

 そこは、つい数十分前に彼が絶望とともに彷徨ったあの路地裏だった。しかし、網膜に映る景色は、まるで別のレンズを通したかのように塗り替えられていた。

 雨はすでに小降りになり、空の端には、夜の帳が降りる直前の、深く重たい群青色が滲んでいる。


 晴人は立ち止まった。

 足元には、くぼみに溜まった雨水。そこには、一軒の民家の軒先に灯った、古びた門灯のオレンジ色の光が反射していた。


 以前の彼なら、これを「水溜り=歩行速度の低下要因=靴の汚損リスク」と瞬時にタグ付けし、忌々しく避けて通っただろう。だが今の彼は、その水面に映る光の揺らぎを、ただじっと見つめていた。

 アスファルトが濡れている。

 その黒い表面は、街灯の光を乱反射させ、まるで誰かが銀砂を撒いたかのように光り輝いている。

 それは、デジタルデバイスの4Kディスプレイがどれだけ高精細になっても再現できない、物理的な「深み」を持っていた。光の粒子が水の膜を通り、粗い石の粒に当たり、複雑な角度で折れ曲がって、彼の瞳孔に飛び込んでくる。その一連の物理現象の連鎖が、理由もなく「美しい」と彼の胸を打った。


(……一円の得にもならない景色だ)


 彼は心の中で自嘲気味に呟いたが、その口角は微かに上がっていた。

 一円の得にもならない。だが、この景色を見落として走り抜けていたこれまでの人生は、一体どれほどの損失だったのだろうか。時給を計算し、タイパを競い、情報を食い潰すことに執筆設計図を捧げてきた自分の手が、ひどく白く、無力なものに見えた。


 ポケットの中で、スマートフォンが微かに震えた。

 それは、彼が木箱から取り出した際に電源を入れた端末が、ようやく圏外を脱し、溜まっていた情報の濁流を受信し始めた合図だった。

 以前の彼なら、その振動を感じた瞬間に、条件反射で端末を引っ張り出し、親指を狂ったように滑らせていただろう。未読の通知数を確認し、緊急性の高い順にソートし、歩きながら返信を打つ。それが彼の「日常」だった。

 だが、晴人は、その振動を「ただの物理的な揺れ」として放置した。

 ポケットの中の重み。約221グラムのチタンとガラスの塊。

 それはもはや彼の一部ではなく、ただの便利な、しかし騒々しい「道具」に過ぎなかった。

 彼は画面を見ることなく、アスファルトの匂いを嗅ぎながら歩いた。湿った土と、どこかの家から流れてくる石鹸の匂い、そして雨上がりの空気が持つ、あの独特の静謐な香りを。


 駅舎に戻ると、ホームには相変わらず人影はなかった。

 木造のベンチは湿り、時刻表は色褪せ、次の電車が来るのは十五分後だった。


「十五分……」


 晴人は、独り言を漏らした。

 数時間前、産業医に「何もしないでください」と言われた時、彼はその十五分を耐えられず、エクセルで管理しようとした。あるいは「あえて屋」で白湯を待たされた時、彼は一秒ごとに自分の命が削られているかのような錯覚に陥り、爪を噛んでいた。

 だが、彼は、ただベンチに座った。

 冷たい木の感触が、スラックス越しに太腿に伝わってくる。

 彼はスマホを取り出さないという「挑戦」を自分に課した。

 両手を膝の上に置き、ただ前を見る。

 視界にあるのは、錆びたレール。その脇に力強く生え揃った雑草。雨に打たれて頭を垂れる名前も知らない黄色い花。


(ただ、待つ。それだけのことが、なぜこれほど難しかったんだろう)


 最初は、やはり手持ち無沙汰だった。

 脳が「入力」を求めて疼く。何かを検索したい、誰かの近況を知りたい、世界がどう動いているかを確認したいという、禁断症状のような衝動が波のように押し寄せる。

 彼はその波をやり過ごした。

 自分の呼吸に意識を向ける。吸う、吐く。冷たい空気が肺を満たし、温まって外へ出る。


 すると、不思議なことが起きた。

 十五分という時間が、一つの「空間」のように感じられ始めたのだ。

 それは削り取るべき負債ではなく、自分を包み込んでくれる豊かな余白だった。


 遠くから、ガタン、ガタンという音が聞こえてきた。

 各駅停車の電車が、暗闇を切り裂いて近づいてくる。

 二両編成の古い車両。

 晴人は立ち上がり、濡れたホームを一歩ずつ踏みしめて、電車のドアの前に立った。

 プシュー、という無骨な排気音とともにドアが開く。

 彼は、都会に戻るための「一倍速の旅」を開始した。


 車内は空いていた。

 オレンジ色の暖色灯が、くたびれた緑色のシートを照らしている。

 晴人は窓側に座り、流れる景色に目を向けた。

 始めにここを通り過ぎたとき、彼の目に映っていたのは「整理されていない情報のゴミ」だった。手入れのされていない雑木林、汚れたコンクリートの壁、価値のない廃屋。

 しかし、今、それらは全く違う意味を持って彼の網膜に焼き付いていた。


 雑木林の木々が、夜風に揺れている。

 その一本一本が異なる形状を持ち、異なる影を落とし、それぞれに固有の「時間」を生きている。

 ある木は折れ、ある木は絡まり合い、それでも生命としての力強さを放っている。

 「効率的ではない」成長。だが、そこには計算で導き出せない圧倒的な調和があった。


 電車が駅に停まるたびに、ホームの灯りが車内を横切る。

 そこに立つ人々。大きな袋を持った老人。制服を着た学生。彼らの顔を、晴人は初めて「観察」した。

 以前の彼にとって、他人はただの「障害物」か「利用可能なリソース」でしかなかったが今は、彼ら一人ひとりが、自分と同じように複雑な内面を持ち、誰にも見せない孤独や喜びを抱えて生きている一人の「人間」であるという、あまりに当たり前の事実に打ち震えた。

 老人の手の甲に刻まれた深いシワ。それは、彼が過ごしてきた膨大な時間の「執筆設計図」そのものだ。

 学生がぼんやりと眺めている窓の外。そこには何が映っているのだろうか。

 晴人は想像した。彼らの人生もまた、この一倍速の電車のように、ゆっくりと、しかし確かな重みを持って流れているのだということを。


 電車が山間部を抜け、徐々に住宅街へと入っていく。

 窓の外には、家々の窓から漏れる明かりが増えてきた。

 一つひとつの窓の下に、生活がある。

夕食の匂い、テレビの音、家族の会話、あるいは静かな読書。

 それらはすべて、彼が「最適化」の名の下に切り捨ててきた、本質的な「生」の断片だった。


(俺は、何を追い求めていたんだっけな)


 時給を上げ、キャリアを積み、誰よりも速く情報を処理し、完璧な効率を達成した先に、何があると思っていたのだろう。

 その答えは、今となっては霧のように霞んでいた。

 ただ一つ確かなのは、今、揺れる電車の中で「ただ揺られている」この感覚の方が、かつてのどの成功報酬よりも彼を満たしているという事実だった。


 やがて、遠くに巨大な光の群れが見えてきた。

 新宿。あるいは、東京。

 彼を窒息させた「最適化された地獄」の本丸だ。

 ビル群が放つ光は、夜空を白く濁らせ、星を消し去っている。

 無数の巨大な看板が、欲望を煽るメッセージを高速で点滅させている。

 ドアが開いた瞬間、彼を襲ったのは、あの懐かしくも忌まわしい「情報の熱風」だった。

 駅のホームは、人で溢れかえっていた。

 誰もが、かつての晴人のように、うつむいてスマートフォンの画面を凝視し、憑りつかれたような速度で歩いている。

 肩がぶつかっても謝らず、階段を一秒でも速く駆け上がろうとする群衆。

 彼らは皆、自分自身の「時給」という名の首輪に繋がれ、目に見えない鞭に追われている。


 晴人は、その奔流の中に降り立った。

 彼は、流れに逆らうわけでもなく、かといって同化するわけでもなく、自分の歩幅で歩いた。

 中央口の改札を抜ける。

 巨大なデジタルサイネージが、最新の株価と、世界の紛争と、トレンドのスイーツを、数秒おきに切り替えながら映し出している。


 晴人は、その前でふと足を止めた。

 まばゆい光の中に、自分の顔が微かに映り込んでいる。

 そこには、目の下に濃い隈を作り、髪を振り乱しながら、それでもどこか憑き物が落ちたような目をした男がいた。

彼は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 未読通知、124件。

 不在着信、12件。

 チャットの未読バッジが、血のように赤い数字で彼を催促している。

 晴人は、その数字を眺めた。

 そして、電源ボタンを長押しした。

 画面に現れた「スライドして電源オフ」という指示に従い、ゆっくりと指を滑らせる。

 光が消え、液晶はただの黒い、静かな板に戻った。


(まずは、風呂を沸かそう)


 彼は思った。

 入浴剤を入れず、ただのお湯を。

 沸騰するまでの時間を、ただ待つために。

 サプリメントではなく、味のする、温かいスープを。

 成分を摂取するのではなく、その匂いと温度を味わうために。

 都会のノイズは、相変わらず激しかった。

 だが、晴人の耳の奥には、今もあのお茶屋の鉄瓶が奏でる「シュンシュン」という音が、聖域のように響き続けていた。


 彼の「一倍速の人生」は、ここから始まるのだ。

 夜のビル風が、彼の頬を撫でていく。

それは冷たかったが、確かに「生きている」感触を伴っていた。

 木崎晴人は、不機嫌なほど明るい都会の空を見上げ、ゆっくりと、誰よりもゆっくりと、自分の家へと歩き始めた。

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