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あえて屋 とき忘れ店  作者:


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第一話 最適化された地獄

 午前四時三十分。

 まだ夜の帳が降りたままの寝室に、無機質な振動が響いた。それは空気の震えというよりも、直接骨を叩くような、執拗で正確な律動だった。


 木崎晴人は、左手首に巻かれた『Apple Watch Ultra 3』の振動に、条件反射的に指を動かした。網膜に飛び込んできたのは、漆黒の背景に浮かび上がる鮮烈な有機ELの光だ。眩しさに目を細めながら、彼はまずアラームを停止させ、流れるような動作で「ヘルスケア」のアプリケーションをタップした。

 心拍数、血中酸素ウェルネス、そして昨夜の睡眠スコア。

 画面上に円グラフが表示される。


『睡眠スコア:82点』


 晴人は薄暗い部屋の中で、小さく、しかし重い溜息を吐いた。


「……また、18点失った」


 彼にとって、睡眠は急速充電と同じだった。理想は95点以上。82点という数字は、脳の疲労が完全に除去しきれていないことを意味し、今日一日のパフォーマンスに「コンマ数パーセントの瑕疵かし」が生じることを示唆していた。昨夜、寝る直前にチェックした米国のテックニュースの通知が、自律神経の切り替えを0.4秒遅らせたのかもしれない。

 彼はその「18点分の損失」を、今日どこでリカバーすべきかを脳内のスプレッドシートに書き込み始めた。


 ベッドから這い出す動作に無駄はない。掛け布団を撥ね退け、足が床に触れると同時に、スマート照明の『Hue』が起床モードの光を放つ。段階的に増していく色温度は、メラトニンの分泌を抑制し、セロトニンを強制的に呼び覚ますための最適解だ。


 キッチンへ向かう足取りは、計算された歩幅で刻まれる。

 彼はコンロに火を点けることも、パンを焼くこともしない。そんな「調理」という名の非効率なプロセスは、三年前の昇進と同時に切り捨てた。


 彼の手が伸びたのは、機能性を極めたシェーカーと、アルミのパウチだった。

 パウチの中身は、一日に必要な栄養素が完璧に配合された『完全栄養食ベースフード』の粉末だ。バニラやチョコレートといった「余計なフレーバー」すら排除した、無味乾燥なプレーンタイプ。それを200ミリリットルの冷水に溶かす。


「……一五八キロカロリー、タンパク質一二グラム。ビタミン、ミネラル、オメガ三脂肪酸」


 シェーカーを振る音だけが、静まり返ったリビングに響く。

 味覚を楽しむという行為は、晴人にとって「コスト」でしかなかった。咀嚼にかかる時間、消化に要するエネルギー、そして「美味しい」と感じることで分泌されるドーパミンによる判断力の鈍化。それらすべてを排除したこの灰色の液体こそが、彼という精密機械を動かすための純粋な燃料だった。


 一口、一気に飲み干す。


 喉を通り抜けるざらついた粉っぽさが、食道を通り胃に落ちる。満足感はない。あるのは「栄養を摂取した」というタスクの完了報告だけだ。

 空になったシェーカーを数秒で洗浄し、乾燥機へ放り込む。ここまでで起床からわずか十二分。予定通りの進捗だ。


 洗面台に立ち、鏡を見る。そこには、二十八歳という年齢相応の若さと、それに見合わないほど色の抜けた瞳を持つ男が立っていた。


 電動歯ブラシの二分間のタイマーが動いている間も、彼の視線は鏡の横に固定されたタブレット端末に釘付けになっていた。

 画面上では、ニュースサイトのテキストが超高速でスクロールされている。


『RSSフィード:未読三四八件』


 晴人は、秒間五行という常人には判読不能なスピードで流れる情報を、網膜に焼き付けていく。市場の動向、競合他社のプレスリリース、生成AIの新モデルのベンチマークスコア。

 情報は「読む」ものではなく、脳というハードディスクに「同期シンクロ」させるものだった。


 二分後、口をゆすいだ晴人は、すでに今日一日の戦略の骨子を組み終えていた。

 クローゼットを開ける。そこには全く同じ仕立てのネイビーのスーツが五着、同じ白のワイシャツが十枚、同じチャコールグレーのネクタイが五本。


「スティーブ・ジョブズと同じ合理的選択」


 朝の「何を着るか」という決断コストをゼロにするための制服化だ。彼は迷うことなく一式を手に取り、体に纏った。


 玄関を出る。

 スマートロックが背後でカチリと音を立てて施錠される。その音を確認することなく、彼はエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターが降りてくるまでの「三十五秒」。

 晴人は迷わずポケットから『iPhone 15 Pro Max』を取り出した。親指が、液晶画面の上で神業のような速さで舞う。

 Slackの通知:四二件。

 メール:八六件。

 X(旧Twitter)のトレンド:一五件。

 それらすべてを、エレベーターが一階に到着するまでに「仕分け」しなければならない。


「了解」

「至急確認」

「後ほど」


 テンプレート化された返信を機械的に飛ばしていく。脳のCPU温度が上がっていく感覚がある。こめかみの奥が、微かに、だが確実に熱を持っている。


 駅への道。歩行速度は時速六キロメートル。

 彼の耳には、最新のノイズキャンセリング機能を備えた『AirPods Pro』が装着されていた。

 再生されているのは、マーケティングの権威による最新のポッドキャストだ。

 倍速設定は「二・五倍」。

 もはや言語として聞き取るのは困難な速さだが、晴人の脳はそれを「データ」として直接処理することに慣れきっていた。


 すれ違う人々は、彼にとって「回避すべき障害物」以上の意味を持たなかった。歩きスマホをしながら、最短ルートを計算し、人混みの隙間を縫うように歩く。一秒のロスも許されない。


 自動改札を通り抜け、ホームに滑り込んできた通勤快速に乗り込む。

 車内は、彼と同じような、あるいは彼よりも絶望した表情の「リソース」たちで埋め尽くされていた。


 晴人はドア脇のわずかなスペースを確保すると、即座に次の情報レイヤーへと潜り込んだ。

 左手でiPhoneを操作し、ビジネスニュースの動画をチェックする。

 右手では『iPad mini』を広げ、今日提出するプレゼン資料の最終確認を行う。

 耳からは二・五倍速の音声。

 網膜には、二つの画面から溢れ出すテキストと図表。

 脳内には、同時進行で走る三つの思考スレッド。


(……Q3のリード獲得単価は一二パーセント改善可能。……競合のキャンペーンは三日以内に飽和する。……午後のミーティングは一五分短縮できるはずだ……)


 車内の蒸せ返るような湿気、誰かの安っぽい香水の匂い、遠くで響く緊急停止信号の音。それらすべての「現実のノイズ」を、彼はデジタルの壁で遮断していた。

 彼が生きているのは、一分が一時間のような密度を持ち、一秒が永遠に分割される、高度に最適化された時間軸だ。



 だが、その時だった。



 二・五倍速の音声が、不意に途切れた。

 いや、途切れたのではない。耳元で「キィィィィィン」という、鼓膜を針で突き刺すような高周波の音が、音声をかき消したのだ。


 晴人は眉をひそめた。接続不良か。あるいは、バッテリーの不具合か。

 画面を見ようとして、彼は自分の指が激しく震えていることに気づいた。

 iPhoneの画面が、ぐにゃりと歪んで見える。

 三四八件あった未読の数字が、血のような赤色に染まり、画面から溢れ出して自分の指を汚していくような錯覚。


「あ……」


 声を出そうとしたが、喉が固着したように動かない。

 心拍数が急上昇する。手首のApple Watchが、異常な数値を検知して警告の振動を送り始めた。


『心拍数が一四〇を超えました。安静にしていても上昇が続いています』


「うるさい……」


 晴人は心の中で毒づいた。うるさい。通知を消せ。警告を消せ。俺のパフォーマンスを邪魔するな。

 しかし、警告は止まらない。

 それどころか、車内の照明が異常に明るくなり、周囲の乗客の「呼吸音」が、巨大なふいごが空気を送るような音となって耳の奥に流れ込んできた。


 シュ、コン。シュ、コン。シュ、コン。


 情報の洪水に耐えてきた彼の脳が、初めて「熱暴走」を起こしていた。

 視界が急激に狭窄していく。

 足元の床が、まるで底の抜けた沼のように柔らかく感じられた。

 彼は崩れ落ちそうになる体を、辛うじてドアの取っ手に預けた。

 冷たい金属の感触。それは彼が今日、初めて触れた「デジタルの加工を経ていない現実」だった。


 電車が駅に停まる。

 プシュー、というドアが開く音が、まるで自分の頭蓋骨が割れる音のように聞こえた。

 晴人は這い出すようにしてホームへ降りた。そこは、彼が降りるべきオフィス街の駅ではなかった。名前も知らない、古い住宅街の入り口にある、小さな駅。


「最適化……しなきゃ、いけないのに……」


 口の中で呟いた言葉は、誰に届くこともなく、都会の喧騒にかき消された。

 彼のポケットの中では、主人の危機を知らせるiPhoneが、狂ったように振動を続けていた。

 一秒間に数回。正確で、冷酷で、決して慈悲のない、情報の鼓動。

 それが今の彼には、自分を処刑台へと誘うカウントダウンの音にしか聞こえなかった。


 彼は、膝をついた。

 ホームの硬いアスファルトに、一滴の汗が落ちた。

 それが、木崎晴人の「効率化された人生」が、最初に音を立てて崩れた瞬間だった。


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