オリハルコンのメンタルは揺るがない ~婚約破棄された勘違い令嬢は魔王に連れ去られても『優雅』な快適生活を貫きます~
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王宮の大広間に響き渡ったのは、優雅なワルツの旋律を無惨に切り裂くような、王太子殿下のヒステリックな絶叫でした。
「リリアナ! 貴様との婚約は、いま、この時をもって破棄する!」
音楽がぴたりと止まり、煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちが一斉にこちらを振り返ります。何百という視線が私、リリアナ・ベルンシュタイン公爵令嬢へと突き刺さりました。
普通のご令嬢であれば、顔を蒼白にしてその場に崩れ落ちるか、あるいは涙ながらに縋り付く場面でしょう。
しかし、私は扇子で口元を隠し、ほっと息を吐きました。
――やっと、解放されますのね。
つつっ、と両目から涙の筋が伝います。
正直に申し上げまして、この瞬間をどれほど待ちわびたことか。
王太子殿下は顔だけは良いものの、中身は驚くほど空っぽな方です。私の高貴な美しさや、完璧な立ち居振る舞いに対して、「君がいると息が詰まる」などと文句を垂れるような器の小ささ。挙句の果てに、最近では男爵家の愛らしいだけが取り柄のご令嬢と仲睦まじくしていらっしゃるのを、存じ上げておりましたから。
私の隣に立つということは、私の輝きに負けないだけの品格と強さが求められるということ。
その重圧に耐えきれず、自ら去ってくださるなら、これほど手間が省けることはございません。
「承知いたしました、殿下」
私は背筋を伸ばし、あくまで優雅に、鈴が転がるような声で答えました。
「殿下のような凡庸な方が、私の隣という『特等席』に座り続けるのは、さぞかし重荷だったことでしょう。その荷を下ろす許可を差し上げますわ」
「なっ、なんだその態度は! 少しは悲しむとか、反省するとかないのか!」
「反省? なぜ私が? 美しい花が、水をやらない庭師に見切りをつけられたとして、花が反省する必要などありまして?」
会場がざわめきました。
「さすがリリアナ嬢だ……」「メンタルがオリハルコン級だぞ」
称賛の声がさざ波のように広がります。
ええ、称賛。完璧な私に、侮辱や同情の余地などあり得ません。
殿下は顔を真っ赤にして、隣に侍らせていた男爵令嬢の肩を抱き寄せました。
「君のような可愛げのない女より、このアルルのように守ってあげたくなる女性こそが、未来の国母にふさわしいのだ!」
「ええ、お似合いですわ。小石には小石でないと釣り合いがとれませんもの」
「き、貴様ぁ……!」
さて、これにて一件落着。あとは慰謝料の請求ですわね。
私の貴重な青春時間を無駄にさせたのですから、王家の予算が傾くほどの額を請求させていただきませんと。殿下の顔を毎日見る精神的苦痛に対する賠償も含めて、頭の中で算盤を弾き始めた――その時でした。
バリィィィィィンッ!!
耳障りな破砕音が、大広間の天井から降り注ぎました。
それはガラスが割れるような軽やかな音ではありません。もっと根源的な、空間そのものが悲鳴を上げたような、不快な轟音。
見上げれば、豪華なシャンデリアが吊るされた天井が、まるで卵の殻のようにひび割れ、そこからどす黒い闇が溢れ出しているではありませんか。
「な、なんだ!?」
「空が……割れた!?」
悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たち。殿下などは、愛するアルル様を盾にするようにして腰を抜かしています。あらあら、守って差し上げるのではなかったのかしら。
渦巻く闇の中から、一人の男がゆっくりと降りてきました。
夜の闇を凝縮したような漆黒のマント。額から伸びる禍々しい二本の角。そして、見る者すべてを畏怖させる、血のように赤い瞳。
その男が足を踏み入れた瞬間、大理石の床がミシミシと音を立てて凍り付きました。
「……見つけたぞ」
男の声は、地底の底から響くような、重厚で威圧的なものでした。
「数千年の封印を破り、我が名はヴェルト。全てを滅ぼす魔王なり」
魔王。
おとぎ話に出てくる、あのデーモンロードですの?
会場中が恐怖で凍り付く中、魔王ヴェルトと名乗ったその男は、真っ直ぐに私を見据えました。
いいえ、正確には、私しか見ていませんでした。
「我が愛しきリリアナよ。鏡越しにお前を見初めたその日から、我はこの時を待ち焦がれていた」
魔王は長い指をこちらに向けました。すると、黒い霧が触手のように伸び、私の身体を拘束しようと迫ってきます。それはまるで粘液を滴らせる大蛇のようで、生理的な嫌悪感を催すものでした。
「さあ、共に参ろう。この世界など、お前への結納代わりに滅ぼしてくれようぞ。人間どもを根絶やしにし、その血で赤く染めたバージンロードを歩こうではないか!」
周囲の貴族たちが「ひっ、殺される!」と絶望の悲鳴を上げます。
しかし。
私は扇子をパチリと閉じて、目の前に迫った黒い霧をピシャリと叩き落としました。
「お待ちなさい」
私の声が凛と響くと、魔王は驚いたように目を丸くしました。
「……なんだ? 命乞いか?」
「いいえ。お作法のダメ出しですわ」
私は腰に手を当て、宙に浮く魔王を見上げました。
顔立ちは整っています。彫像のような美貌に、危険な香りのする赤い瞳。素材は悪くありません。
ですが、アプローチが最悪です。
「いきなり現れて、世界を滅ぼす? 血のバージンロード? 野蛮すぎますわ。美しくありません」
「な……や、野蛮であると……?」
「ええ。それに、私を連れ去ろうとするその手。レディをエスコートするのに、触手を使う殿方がいまして? 私のドレスに皺が寄ったらどう責任を取ってくださるの」
私は呆れたようにため息をつきました。
どうやらこの魔王様、私の熱烈なファンであることは間違いなさそうですが、ファンとしてのマナーがなっていません。
推しを応援するのに、推しの住む世界を壊してどうするのですか。劇場がなくなれば、私の演技が見られないではありませんか。
「き、貴様のためなら、我は神をも殺す覚悟であるのだが……」
「神だろうが人だろうが、殺されては困ります。私の観客が減りますので」
私はきっぱりと言い放ち、魔王を指差しました。
「私を手に入れたいのであれば、それ相応の手順というものがありましてよ。まずはそこに降りて、膝をつき、手の甲に口づけをして、『どうかご一緒願えますか』と乞うのが礼儀です」
「は……?」
「聞こえなくて? やり直し!」
シン、と静まり返る大広間。
王太子殿下も、衛兵たちも、口をあんぐりと開けて私と魔王を見ています。
魔王は困惑したように宙を彷徨っていましたが、やがて私の瞳の中に宿る、一点の曇りもない『優雅』さに気圧されたのでしょう。
おずおずと地面に降り立ちました。
そして、数千年ぶりの屈辱――あるいは初めてのときめきに頬を染めながら、私の前に跪いたのです。
「……こ、こうか?」
「言葉遣い」
「……こ、こうであろうか、リリアナ嬢」
「よろしい。それで?」
魔王は震える手で私の手を取り、うやうやしく口づけました。その手は冷たいけれど、微かに震えているのが伝わってきます。あら、案外純情なのかしら。
「リリアナ……どうか、我が花嫁になってくれぬだろうか。世界中の宝石も、星々も、すべて貴様に捧げよう」
「宝石も星も、私の輝きを引き立てる装飾品に過ぎませんが、まあ、悪くない心がけですわ」
私はふふんと鼻を鳴らしました。
婚約破棄された直後に、世界最強の魔王からの求婚。
元婚約者への当てつけとしては、これ以上の物件はありません。それに、この魔王、少し教育すればなかなか見所のある従者になりそうです。
「いいでしょう。ですが、即採用というわけにはいきませんわ」
「な、何故だ!?」
「貴方はまだ、私の高貴さを理解しきれていません。野蛮な破壊衝動を抑え、私を満足させる最高の下僕……もとい、パートナーになれるかどうか試用期間が必要です」
私は魔王の手を取り、優雅に立ち上がらせました。
そして、呆然としている元婚約者の方をちらりと一瞥し、勝利の笑みを浮かべます。
「連れてお行きなさい、ヴェルト。貴方の城へ。私がそこで、貴方を一流の『リリアナ信者』に育て上げて差し上げますわ」
魔王ヴェルトは、その言葉に感極まったように瞳を潤ませました。
そして、嬉々として私を横抱きに抱え上げたのです。
「ああ、我が愛しのリリアナ! 謹んで、魔王城へ招待しようぞ!」
「きゃっ! ……まあ、今回は許してあげますわ。さあ、皆様ごきげんよう。この退屈な舞踏会より、もっと刺激的なステージが私を待っていますので」
こうして私は、国中を震撼させた大事件の中心にいながら、まるで新しい別荘へ向かうような気軽さで、魔王に連れ去られていったのです。
◇ ◇ ◇
魔王城に到着して三日が経ちました。
この城、外観は禍々しいトゲやらドクロやらで装飾されていますが、内装は意外と広々としており、私の美しさを展示する空間としては悪くありません。
ただし、圧倒的に足りないものがあります。それは「清潔感」と、私という主役を立てるための「奉仕精神」です。
「リリアナ! 見るが良い、貴様への愛の証である!」
ドォン!! と扉が乱暴に開かれ、ヴェルトが部屋に飛び込んできました。
彼は満面の笑みを浮かべ、その手には禍々しい魔力を帯びた巨大な鎌が握られています。背後には、薄汚い獣の皮を被った数百匹もの下級魔族たちが整列し、何やら物騒な進軍ラッパを吹き鳴らしていました。
鉄錆のような強烈な異臭と殺気が、私の優雅なティータイムを直撃しました。東方諸島の霧深い山頂でしか採れない、最高級茶葉の繊細な香りが台無しです。
「……ヴェルト。この騒ぎは何ですの?」
私はティーカップをソーサーに乱暴に置き、眉間にしわを寄せました。カチャリと音が鳴りましたわ、不本意ながら。
「これから隣国を一つ、地図から消して参るのだ! 貴様が昨日、『あの国の絹は肌触りが悪い』と申しておったであろう? 故に、国ごと焼き払うことに決めた。これで貴様の肌を害するものは何一つなくなる!」
ヴェルトは誇らしげに胸を張り、窓の外を指差しました。
そこには、今にも極大魔法を放たんとする暗黒の魔法陣が、空を覆い尽くすほど巨大に展開されています。
彼の瞳は、愛する者のために障害を取り除く喜びと、破壊の愉悦に輝いていました。普通のご令嬢なら恐怖で失神する場面でしょう。
ですが、私の怒りの基点はそこではありません。
「お待ちなさい!!」
私は扇子を勢いよく開き、彼の鼻先数センチでピシャリと制止しました。
「ぬ……? リリアナ? 何故止める? 貴様のための破壊であるぞ?」
「考えが浅すぎますわ! そんな大規模な魔法を使って、国一つを燃やしたらどうなると思っていまして?」
私はハンカチで鼻と口を覆い、心底呆れた眼差しを彼に向けました。
「国が消えれば、そこで働く職人たちも死に絶えることになりますでしょう? 肌触りが悪いのなら、技術を改善させれば済む話。作り手ごと消してしまっては、私が着るドレスの選択肢そのものが減るではありませんか。貴方は私に、同じドレスを二度着ろとおっしゃるの?」
「な……い、いや、それは……」
「それに、私の威光を示すべき民がいなくなっては、支配者としての品格に関わります。民を生かし、働かせ、より良い品を献上させてこそ、真の『王』たる者の務め。短絡的な破壊は、己の利益を損なう愚行ですわ」
私が理路整然と説くと、ヴェルトは雷に打たれたように硬直しました。
そして、ハッとした表情で自身の魔鎌を見つめ、わなわなと震え出したのです。
「そ、そうか……我はなんてことを……」
「お分かりになりまして?」
「うむ、理解した! 理解したぞリリアナ! 貴様は、愚かな人間どもを根絶やしにするのではなく、彼らに『更生』と『奉仕』の機会を与え、永遠に搾取しようというのだな! 罪深き者たちすら利用し、己の輝きに変える……なんと慈悲深く、合理的で冷徹かつ美しい支配者であることか!」
……はて?
私は単に「ドレスの選択肢が減るのは困る」と言いたかっただけなのですが。
まあ、結果として彼が破壊活動を自粛し、私の利益になるのなら、どちらでも構いませんわ。解釈はファンの自由ですもの。
「うおおおん! すまぬ、リリアナ! 二度と貴様の許可なく焦土作戦は行わぬ!」
ヴェルトは涙を呑みながら、空を覆う破滅の魔法陣を解除しました。
やれやれ、と一息ついた私ですが、視界の端に映るものがまだ気になります。
「それからヴェルト。後ろのそれらはどうにかなりませんの?」
「ん? 我が軍団のことか?」
「ええ。薄汚くて見ていられませんわ。私の視界に入るものは、すべて美しくあるべきです」
私は扇子で下級魔族たちを指しました。
「まずは彼らを洗いなさい。そして、そのボロボロの毛皮を捨てさせ、私の城の使用人に相応しい制服を着せるのです。カッティングの美しい燕尾服を人数分、今すぐ発注なさい」
「えっ、燕尾服……? 魔物に?」
「取り巻きの質を見れば、その主人の程度も知れるというもの。彼らが薄汚いままでは、貴方の品格も疑われますわよ」
「な、なるほど……! 我の顔に泥を塗らぬための配慮か!」
ヴェルトは感心したように頷き、配下の悪魔たちを振り返りました。
「聞いたか貴様ら! 侵攻は中止だ! 直ちに水浴びを済ませ、隣国へ行って最高級の燕尾服を仕立ててこい! リリアナ嬢の目に適う身なりを整えるのだ!」
『ギ、ギョイーッ!』
悪魔たちが蜘蛛の子を散らすように去っていきました。これで少しは城内の景観もマシになるでしょう。
さて、残る汚れは――
「ヴェルト。そこ」
私は足元の床を指差しました。一応の掃除はしたのでしょうが、数千年の封印で溜まった埃が、うっすらと積もっています。
「まだ埃が残っていますわ。掃除なさい」
「うむ。おい、誰か掃除を……」
「いいえ。貴方がやるのです」
「は……? わ、我が……?」
ヴェルトはきょとんとして自分自身を指差しました。
「我は魔王であるぞ? そのような雑用、下僕にやらせれば……」
「お黙りなさい」
私はピシャリと言い放ちました。
「先ほど申し上げたでしょう? 上に立つ者は、模範を示さねばなりません。私のために最も美しく、最も完璧な環境を整えられるのは、この城の主である貴方しかいないはずです」
「む……言われてみれば、そんな気も……」
「それとも、貴方の『愛』はその程度ですの? 私の靴を汚さないための労力を惜しむ程度の?」
「ち、違う! 断じて違う!!」
ヴェルトは慌てて否定し、猛然と近くにあったモップを掴みました。
「見ておれリリアナ! 貴様の歩く床に、塵一つ残しはせぬ! 貴様の呼吸する空気に、淀みがあってはならぬのだ!」
シュババババ!
残像が見えるほどのモップさばき。
かつて勇者パーティーを壊滅させたという伝説の魔技が、今は廊下の床磨きに遺憾なく発揮されています。
ピカピカに磨き上げられた床には、私の美しい顔が映り込んでいます。
「素晴らしいですわ、ヴェルト。その調子で、私の輝きを曇らせない環境作りを徹底なさい」
「うむっ! 仰せのままに、マイ・レディ!」
どうやら彼は、『野蛮な破壊神』から『万能の執事』へとジョブチェンジしたようです。
私の教育の成果が早くも出てきましたわね。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
ヴェルトは掃除洗濯のみならず、パリッとした制服に身を包んだ魔族たちを指揮し、私の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼くようになっていました。
しかし、魔王特有の「重さ」は相変わらずで、方向性が明後日の方へ暴走することがあります。
その夜、ヴェルトは恭しくひざまずき、黒いビロードの小箱を差し出しました。
「リリアナ。貴様に贈りたいものがある」
「あら。宝石かしら? それとも新しいドレス?」
期待して箱を開けた私は、中に入っていたものを見て首をかしげました。
そこにあったのは、禍々しい気配を放つドス黒い液体が入った小瓶でした。
「それは『不死の秘薬』である。古代の禁呪を使って精製した」
ヴェルトはうっとりとした瞳で私を見つめ、熱っぽく語り始めました。
「人間の一生はあまりに短い。貴様のような至高の存在が、老いて朽ちていくなど、我には耐えられぬのだ。だから、これを飲んでくれ。そうすれば貴様は不老不死のアンデッドとなり、我と共に永遠の時を生きることができる!」
「アンデッド……?」
私は眉をひそめました。
アンデッドといえば、墓場から這い出てくるアレですわよね?
「肌は青白く変色し、痛みも感じなくなる。心臓が止まっても動き続ける、永遠の肉体だ! さあ、これを飲んで、我だけの永遠の人形になってくれ!」
「……却下です」
私は小瓶を箱に戻し、パタンと蓋を閉じました。
「な、何故だ!? 永遠の命であるぞ!?」
「ヴェルト、その目を良く開いてご覧なさい。今の私の肌の色は?」
「ぬ? あ、あぁ……透き通るような桜色だ」
「その通りです。血が通い、温かみがあり、触れれば弾むようなこの肌。これこそが『美』ですわ」
私は立ち上がり、ヴェルトを見下ろしました。
「それを、青白く? 変色? 冗談じゃありませんわ。ゾンビのような顔色で舞踏会に出ろとおっしゃるの? 私の美意識に反します。論外です」
「だ、だが、貴様が死んでしまったら……我が貴様を愛でられなくなる……」
「私が死ぬ? いいえ、死にません」
私は断言しました。根拠はありませんが、確信はあります。
「私が死ぬときは、世界中の誰もが私の美しさを語り継ぎ、歴史にその名を刻んだ時だけです。それに、アンデッドになって永遠に生きるなんて、退屈で死んでしまいますわ」
私はヴェルトの頬を両手で挟み、無理やり上を向かせました。
「いいこと、ヴェルト。美しさとは、固定された剥製の中にあるのではありません。私に『老い』などありません。それは『円熟』です。一瞬一瞬、刻々と変化し続ける生命の輝きの中にこそ『美』があるのです。貴方のその目は何のためについていますの?」
「……き、貴様を見るため……」
「その通り。ならば、まばたきすら惜しんで焼き付けなさい。私が時と共に、より高貴な美しさへと進化していく様を、特等席で見せてあげるのですから……命の尽きるその瞬間すら、死神をも見惚れるほどの『美』へと昇華して差し上げましょう」
ヴェルトの瞳孔が開きました。
彼は私の言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けたようです。
「……そ、そうか。我は間違っていた。固定化された永遠など、人間には相応しくない……いまにして思えば、かつて我を封印した勇者どももそうであった! 『今』を生きることで成長し、進化し続けるその一瞬一瞬こそが、人間の本質……!」
「やっと理解できたようですわね」
「我が勇者に敗れた理由すら気付かせてくれるとは……ああ、リリアナ! 貴様はやはり女神だ! いや、女神を超えた何かだ!」
ヴェルトは私の足元にすがりつき、靴のつま先に額をこすりつけました。
「もう二度と、貴様をアンデッドにしようなんて思わぬ! 我は、貴様の『今』を全力で支える礎になろう!」
「よろしい。では手始めに、肩をお揉みなさい。凝っていて美肌によくありませんの」
「イエス、マイ・クイーン! 今すぐ極上のマッサージを!」
こうして、世界を滅ぼそうとした魔王は、私の専属マッサージ師としての才能も開花させたのでした。
順調、順調。
このままいけば、ここは世界で一番快適なリゾートホテルになりそうですわ。
――まさかこの時、私の元婚約者が「正義の味方」気取りで、この城に向かっているとは露知らず。
◇ ◇ ◇
魔王城での生活は、思いのほか快適なものでした。
ヴェルトは私の指示通り、城内の環境を完璧に整えました。その魔力により、温度も湿度も常に肌に最適な塩梅に維持されています。。
食事は、北の大地で一年に一度しか収穫できない『氷晶イチゴ』や、深海の秘境に住む『宝石ガニ』など、世界中の珍味を取り寄せたフルコース。
給仕をするのは、かつては薄汚かったものの、今ではパリッとした燕尾服を着こなした魔族たち。彼らは私の優雅な所作を真似ることで、洗練された使用人へと進化を遂げていました。
これほど優秀な従者たちが、かつて存在したでしょうか? いいえ、おりません。
私は今、人生で最も輝いています。肌の艶も髪のハリも最高潮。まさに美の絶頂にあります。
そんな至福のティータイムを、無粋な爆音が切り裂きました。
ズドォォォォン!!
城門が吹き飛び、土煙と共に数人の影がホールになだれ込んできました。
勇ましい鎧に身を包んだ男たち。その先頭に立つのは、見飽きた金髪の男――元婚約者の王太子殿下でした。隣には、法衣に身を包んだ聖女……のコスプレをしたようにしか見えない男爵令嬢アルル様の姿もあります。
「リリアナ! 待たせたな! 今すぐ助け出してやる!」
「魔王ヴェルト! リリアナ様を返しなさい! この卑劣な誘拐犯め!」
殿下とアルル様が、それぞれ剣と杖を構えて叫びました。
……はぁ。
私は深いため息をつき、ソーサーをテーブルに戻しました。せっかくの最高級茶葉の薔薇のような香りが、土煙で台無しですわ。
「……何の用ですの? 不法侵入者の方々」
「なっ!? ふ、不法侵入だと!?」
殿下は目を白黒させました。
「何を言っているんだリリアナ! 君は洗脳されているんだ! 魔王の邪悪な術にかかって、正常な判断力を失っているに違いない!」
「そうですわリリアナ様! あんな恐ろしい魔王に捕まって、きっと毎日ひどい目に……!」
ひどい目?
私は自分の姿を見下ろしました。
身につけているのは、ヴェルトが「貴様の瞳の色に合う」と東の国から取り寄せた、幻の『虹色蚕』のドレス。首元には、星の欠片を加工したダイヤモンドよりも眩いネックレス。
そして何より、私の肌はかつてないほど潤っています。
「洗脳? ひどい目? ……貴方たち、目がお悪いのではなくて?」
私は優雅に足を組み替え、冷ややかな視線で彼らを見下ろしました。
「ご覧なさい、この艶やかな肌を。王宮にいた頃より遥かに健康的で美しくありましてよ? ここでは毎朝、朝露を集めた水で洗顔し、錬金術師に特注した美容クリームでパックをし、専属のマッサージ師が身体のメンテナンスを施してくれるのです」
「は……?」
「食事も最高ですわ。王宮のシェフは火加減が雑でしたが、ヴェルトは私の好みを完璧に把握し、野菜の切り方一つにもこだわってくれますの。味のみならず、栄養管理も完璧。おかげでウエストが三センチも細くなりましたわ」
私はふふんと鼻を鳴らしました。
「殿下。貴方にこれだけの待遇が用意できまして? 私の美しさを維持するために、国庫を空にする覚悟がおありになって?」
「そ、それは……予算というものが……」
「でしょうね。貴方の愛など、所詮はその程度。予算会議で否決される程度の愛なのですわ」
殿下はぐぬぬと言葉を詰まらせました。
アルル様が震える声で反論します。
「で、でも! ここは魔王の城ですよ!? 人間の住む場所じゃありません!」
「住めば都、と言いますでしょう? それに、城主が私に平伏している以上、ここは私の城も同然ですわ」
「へ、平伏……?」
その時、奥の扉が静かに開きました。
フリル付きのエプロン姿の魔王ヴェルトが、お盆に焼き立てのクッキーを乗せて現れました。
「リリアナ、茶菓子を持ってきたぞ。今日は貴様の好きな……ん? 誰だ、この薄汚い連中は」
ヴェルトの視線が殿下たちに向けられた瞬間、空気が凍りつきました。
先ほどまでの『万能執事』の顔は消え失せ、そこには絶対的な捕食者の瞳がありました。
「あ、悪魔め! リリアナを返せ!」
殿下は恐怖を振り払うように叫び、あろうことか私に向かって剣を向けました。
「リリアナ! こっちへ来い! 来ないなら……貴様も魔王の手先として斬り捨てねばならん!」
……は?
今、私に剣を向けましたの?
私という至高の芸術品に、切っ先を?
カチャン。
私が何か言う前に、ヴェルトが持っていたお盆を取り落としました。
床に散らばるクッキー。
しかし、誰もそれを気に留める余裕はありませんでした。
「……貴様」
地獄の底から響くような、低く、重い声。
次の瞬間、バヂバヂバヂッ!! と大気が悲鳴を上げました。
ヴェルトの全身から、どす黒い闇が噴き出し、空間そのものが歪み始めます。城の強固な石壁が、見えない巨大な手に握りつぶされるようにミシミシとひび割れていきます。
肌に突き刺さるような、強烈な殺気と魔力の奔流。
「我が愛しきリリアナに……その薄汚い鉄屑を向けたか?」
ゴゴゴゴゴ……!
背中から漆黒の翼が爆発的に広がり、天井を突き破らんばかりに巨大化した角が、稲妻を帯びて発光します。その瞳は、もはや人のものではなく、燃え盛る業火そのものでした。
「万死に値する!! その魂、未来永劫の苦痛を味わわせたのちに消滅させてくれるわ!!」
ブォン!!
ヴェルトが指先を動かすだけで、衝撃波が巻き起こり、城の柱が一本へし折れました。
このままでは、殿下たちどころか、城ごと崩壊しかねません。
何より――
ガタガタガタ。
テーブルの上のティーカップが激しく揺れ、紅茶がソーサーにこぼれてしまいました。
「……あら」
私の眉がピクリと動きました。
私の優雅なティータイムが。
私の安らぎのひとときが。
騒音と振動で、台無しですわ。
「死ねぇぇぇぇ虫ケラどもぉぉぉ!!」
完全に暴走状態に入ったヴェルトの掌に、世界を終わらせるほどの質量を持った魔力球──『暗黒の太陽』が生成されていきます。
王太子殿下とアルル様は、あまりの恐怖に悲鳴を上げることすら忘れ、白目を剥いて腰を抜かしています。
「塵と消えよぉぉぉ! 我が愛しのリリアナを侮辱する不届き者ぉぉぉ!!」
ヴェルトが腕を振り上げ、大陸の地図を書き換えようとした――その時です。
パァンッ!!
乾いた音が、崩壊寸前のホールに響き渡りました。
魔法の炸裂音ではありません。
それは、私の掌が、ヴェルトの頬を全力で叩いた音でした。
「……ぬ?」
ヴェルトの動きが止まりました。
手元の暗黒球がシュゥゥ……と尻すぼみな音を立てて霧散していきます。
禍々しい角も翼も引っ込み、真っ赤に発光していた瞳が、パチクリと瞬きと共に元の色に戻りました。
彼は呆然と頬を押さえ、目の前に仁王立ちする私を見下ろしました。
「リ、リリアナ……?」
「騒がしいですわ」
私は冷ややかに言い放ちました。
「私の声が聞こえなくて? 貴方が暴れたせいで、最高級の紅茶がソーサーにこぼれてしまいましたの。この責任、どう取ってくださるのかしら」
「ぬう……」
「私の優雅なティータイムを邪魔する権利は、誰にもありません。たとえそれが、魔王であろうとも」
私は彼を鋭く睨みつけ、人差し指を床に向けました。
「お座り」
その一言は、絶対的な命令として響きました。
ヴェルトは条件反射のようにその場に正座し、シュンと項垂れました。まるで叱られた大型犬です。
見えもしない耳と尻尾が垂れ下がっているのが幻視できます。
「も、申し訳ない……ついカッとなって……」
「言い訳は聞きません。あとで反省文を提出なさい。原稿用紙百枚で」
「うむ……」
静まり返ったホールに、王太子殿下の引きつった声が響きました。
「な、なんだこれは……」
「あ、あの魔王が……正座してる……?」
アルル様も口をあんぐりと開けています。
私はゆっくりと彼らの方へ向き直りました。
ヴェルトが大人しくなった今、次は「不法侵入者」の処分です。
「さて、殿下。まだ何か用がおありで?」
私は扇子をパチリと鳴らしました。
ただそれだけの動作に、殿下たちがビクリと肩を震わせます。
「見ての通り、いま、魔王の手綱を握っているのは私です。世界を滅ぼす魔王を『お座り』ひとつで従える私に、剣を向けた意味……まさかお分かりにならないほど愚かではありませんわよね?」
私はにっこりと微笑みました。
それは慈愛の微笑みではなく、捕食者が獲物を見る時の、極上の笑みだったはずです。
私は、微笑みには千種類あること熟知して、状況に最適なものを使い分けているのです。
「ひっ……!」
「わ、分かった! 帰る! 帰らせてもらう!」
殿下は剣を投げ捨て、アルル様の手を引いて後ずさりしました。
「き、君はもう人間じゃない! 魔王以上の化物だ!」
「失礼な。女神とお呼びなさい」
「ひいいぃぃっ!!」
殿下たちは転がるようにして逃げ出していきました。二度とこの城には近づかないでしょう。
彼らは魔王を恐れて逃げたのではありません。「魔王を飼い慣らす女」の底知れぬ恐ろしさを悟ったのです。
凡夫にしては賢明な判断ですわ。
「……ふぅ。やっと静かになりましたわね」
私はため息をつき、ソファに座り直しました。
足元では、ヴェルトがまだ正座をしたまま、上目遣いで私を見ています。
「あの、リリアナ……怒っておるか?」
「ええ、怒っていますとも」
私はツンと顔を背けました。
しかし、彼が私を守ろうとして暴走したこと自体は、まあ、評価してあげなくもありません。
私のために世界を敵に回すその狂気は、ある意味で究極の奉仕精神と言えますから。
「ですが、今回は特別に許して差し上げます。私のドレスに血がつかなかったのは、貴方が身を盾にしてくれたおかげでもありますから」
「リリアナ……!」
私はスカートを整え、自分の膝をポンと叩きました。
「膝枕をして差し上げます。ここに来なさい」
「なっ!? よ、よいのか!? そのような、神聖な場所に我が頭を!?」
「ご褒美です。ありがたく思いなさい」
ヴェルトは感涙にむせびながら、恐る恐る私の膝に頭を乗せました。
私はその柔らかい黒髪を、指で梳いてあげました。
魔王の髪は意外にもサラサラで、触り心地が悪くありません。
「……リリアナ。我は決めたぞ」
膝の上で、ヴェルトがうっとりと呟きました。
「貴様はアンデッドになることを拒んだ。ならば、貴様のその美しさを、高潔さを、我が後世に語り継ごう」
「あら? どうやって?」
「伝記を作るのだ。世界中の著名な学者や詩人を誘拐……いや、招聘して、貴様の素晴らしさを記した一大叙事詩を編纂させる! 全百巻にも及ぶ歴史書として、未来永劫残してみせる!」
ヴェルトは目を輝かせて提案しました。
しかし、私はその言葉に眉をひそめました。
「学者? 詩人? ……却下です」
「な、何故だ!? 最高の人員を集めるのだぞ!!」
「他人の手垢がついた言葉など、私の美しさを表現するのに相応しくありませんわ。金で雇われた詩人が書く賛美なんて、薄っぺらくて興ざめです」
私はヴェルトの鼻先を指でつんと突きました。
「貴方がお書きなさい」
「えっ」
「貴方の言葉で、貴方の手で、一文字一文字、魂を込めて書きなさい。それが『ファン』としての誠意というものでしょう?」
「え、ええっ!? わ、我が!? 全百巻を!?」
ヴェルトは青ざめました。
「し、しかしリリアナ、我は剣を振るうのは得意だが、筆は……それに、百巻ともなると何十年かかるか……」
「あら」
私は冷ややかに目を細めました。
「貴方の愛は、その程度でしたの? 面倒くさいから部下に丸投げしようだなんて……ガッカリですわ」
「ち、違う! 断じて違う!!」
ヴェルトは慌てて私の手を取りました。
「書く! 書かせてくれ! 貴様への愛を証明するためなら、ペンだこが潰れても書き続ける!」
「よろしい。では、まず第一巻『リリアナとの出会い・天空からの降臨編』から書き始めること。今日のノルマは原稿用紙五十枚です。反省文とは別カウントですよ?」
「イエス、マイ・ヴィーナス……!!」
私は窓の外を見上げました。
嵐は去り、美しい満月が輝いています。
ですが、あの月も私の輝きには及びません。
なぜなら、私の隣には、世界最強の魔王が机にかじりつき、脂汗を流しながら私の美しさを綴り続けているのですから。
「字が汚くてよ、ヴェルト。書き直し」
「は、はいぃっ!」
狂気と自己愛が複雑に絡み合い、しかし奇妙なほど完璧に噛み合った夜。
魔王城には、今日も私の優雅な高笑いと、魔王が必死に筆を走らせる音が響き渡るのでした。




