五話
「はい?」
声が思わず裏返る。
え? それって……。つまり……。
「私、子どもが二人いるの。今回は夫がお休みを取れたから来たのよ」
嘘だろぉ~。
血の気と力が一気に引いて行く。
一方、にこやかに近況を話す間宮さんは、春の突風よりも迷いがない顔をしていた。
「今は名前も間宮じゃなくて安達なのよ。安達茉莉。でも、また会えて嬉しかったわ。本当に懐かしかった。覚えていてくれてありがとう」
「あ、え、うん……」
頭が真っ白で言葉も出せない僕は、そのまま事務的にチャイルドシートの貸出書類を作り、彼女の乗ってきた代車にそれを取り付けた。
彼女が結婚。そ、そうだよね。三十路過ぎてるもんね。ありえるっていうか、彼女なら当然だよね。
なんだ、なんだ……。
脱力しきってしまいそうな体になんとか鞭を打って、彼女に取り付け完了を伝える。
礼を言って微笑む顔は、悔しいくらいやっぱり綺麗で……。
「覚えていてくれてありがとう」
気がつくと僕は、そう言っていた。
車に乗り込んだ彼女は僕の言葉に一瞬軽く目を見開いたけど、すぐに微笑むと車のキーに手をかける。
「こちらこそ。正直、私、小学校の時に仲良しのお友達がいなかったから、地元が苦手だったの。でも、初恋の人に覚えていてもらって、本当に嬉しかった。鈴木君、ありがとう」
キーが回る。エンジン音が響く。
そして彼女の車は遠くへと、振り返ることなく行ってしまった。
僕はその車が見えなくなるまで見送り、思わず小さくため息をつく。
なんだかものすごく肩すかしだった。残念と言えば残念。でも、仕方ないよな、あたりまえだよな、という諦めもしっくりくる。
ポケットからサイン帳を取り出した。
結局渡せなかったけど、でも、彼女がこの街を少し好きになってくれたんなら、もう、お役御免だよな。
そう思い、縦に切り裂こうとした。時だった。
「ダメっすよ!」
スガちゃんだ。
彼女が素早くそれを僕の手から奪い取ると、さっき以上の怖い顔、そして泣きそうな目で僕を睨みつけた。
「だから言ったじゃないっすか。やめとけって。マジ、先輩、ありえないっす」
「スガちゃん」
そうか……。
僕は今朝のスガちゃんの言動を思い出す。
たぶんスガちゃんは受付の時に彼女の名字が変わっているのを知ったんだ。だから、あんな事……。
「せっかくの大切な思い出を壊す事、無いっす。だから、これは……」
「スガちゃん」
サイン帳を握りしめ、懸命に何かを言おうとする後輩に、僕は思わず笑みを零した。
確かに、思い出は大切だし、あの頃の僕の初恋も大切だ。でも、今の僕に何もないわけじゃない。少なくとも、今の僕には、こうやって自分のことのように心配し、泣いて怒ってくれる人がいる。
「それ、返して」
「あ、すみません」
スガちゃんは慌てて手の中の紙きれを差し出した。もう、ぐちゃぐちゃの皺だらけだ。
「すみません」
スガちゃんが小さくなる。僕はその金髪頭をかきまわすと、カウンターからボールペンを取り出し『好きな食べ物』のうまいぼうの横に、こう付け足した。
好きな食べ物
うまいぼう(サラダ味)
スガちゃんありがとう
スガちゃんの顔がみるみる真っ赤になっていく。
「食べ物って何すか! 自分はうまいぼうと一緒っすか? ありえないんすけど!」
いつものようにちょっとズレた所で起こって怒鳴るけど、もう、そんなスガちゃんが怖くない。
僕は再び金髪をかき回した。スガちゃんが涙に縁を真っ赤に下目をくすぐったそうに細めた。
裏の中学から聴こえるホタルノヒカリが揺らした桜の蕾に、可愛らしい色がほころび始めているのが見えた。
=終=
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。