四話
僕はその後、改めてその日の予定を確かめに事務所に足を向けた。
スガちゃんがいたら気まずいと思ったけど、スガちゃんはちょうど洗車に出ていていなかった。
ほっとして予定表をめくる。彼女の車の納車期限が短いため、最優先になっていた。係りは僕を含め先輩二人と計三人。自分がメンバーに入っていることを確認し、ほっとする。
来客を知らせるチャイムが鳴った。
僕は条件反射的に「いらっしゃいませ」と声を張り上げ、予定表を手にしたまま振り返った。
そして、僕は硬直し、目を瞠った。
だってそこにいたのは
「ま、間宮……さん」
まさに彼女、間宮茉莉その人だったのだから。
大きな瞳に聡明そうな額、優しげな口元に小さく白い耳。あのころも十分綺麗だったけど、今はそれの何十倍も綺麗でいて、上品になっていた。
彼女は長い睫毛を何度か瞬かせ、僕が誰だかを記憶の糸を手繰りながら探ろうとしているようだった。
鼓動が高鳴る。
無意識にポケットに手をやり、抑える。
「あの、覚えてないですか? 小学校の時に同じクラスだった……」
ヒントを一度に与えるのはどうなのか? 彼女に思い出してもらったほうが、名乗るよりずっと幸せじゃないのか? そんな計算はあるが、気持が早って抑えることができない。
僕は彼女に引き寄せられるようにカウンターにより、顔を合わせた。
彼女の目が一瞬大きく開かれる。
「もしかして、鈴木君?」
「そう! 鈴木です!」
覚えてくれてた! 思い出してくれた! 僕は嬉しくて、思わず声を上げそうになる。
僕のことを最悪の思い出として記憶しているんじゃないかっていう懸念なんかどこ吹く風で、僕は再会の喜びに飛び上がりそうだった。
彼女も、いやな顔はみじんも見せず、百合の花がその花弁を気高く慎ましやかに、しかし可憐に開くように僕に微笑みかけてくれていた。
「昨日、ここに来た時にお店の方に私の同級生がいるって伺ったんだけど、まさか鈴木君だったなんて。驚いたわ。お久しぶり」
口調のそこここに優しさと品が漂っている。僕は油まみれの自分の作業着が急に恥ずかしくなって、カウンターについていた手を引っ込める。
「うん。あの……元気だった? 東京に行ったって聞いてたけど」
「ええ、そうなの。今回はたまたま長期の休暇がとれて。鈴木君は元気だった? ずっとこの街にいるの?」
「あ、うん。僕はここから結局でなかったよ。でも、皆が地元に戻るときにこうやって会えるから」
そう、地元に残ったおかげで、君にも再会できたから、それだけで後悔なんかない気がする。
間宮さんと僕はしばらく昔話に花を咲かせた。彼女は東京で同級生を見かけたとか、僕は意外な同級生がくっついたとか、そんな、たわいもなくて、でも元クラスメイトでしかできないような会話だ。
ひとしきり話したところで、僕はポケットの中の存在を思い出した。やっぱり渡そう。渡して、謝ってしまおう。もしかしたら、これがきっかけで、20年以上途切れていた何かがまた、息を吹き返すかも知れない。
「あの、間宮さん」
「なに?」
僕は一瞬躊躇した。卒業式のこと。今、こんなにたくさん話をしたけど、その話だけは出てこなかった。でも、忘れてるはずない気がした。こんなに小学校の頃の仲間の話ができるんだ。だから、やっぱり……。
僕は一呼吸置くと、頭を下げた。驚く間宮さんの短い声が聞こえる。
「ごめんなさい。僕、卒業の日……」
「あ、あの事」
間宮さんの声が明らかにトーンダウンした。
僕はまたいやな思いをさせてしまったんじゃないかと、あわてて顔を上げる。間宮さんの顔には少し影がさしていた。凛々しく咲く百合が俯いている。
そんな間宮さんの向こうで、スガちゃんがこちらを見ているのが視界に入ったけど、僕はもう、気になんかしていられなかった。
これは、僕の気持ち。僕の問題なんだ。
「あの時、本当は……」
「初めての失恋だったなぁ」
「え?」
今度は僕の声を遮って聞こえた彼女の言葉に、僕が驚く番だった。
間宮さんは少し恥ずかしそうに頬を染め、落ち着きなく髪を耳にかけた。
「私ね、鈴木君の事、好きだったの」
「あの……」
ポケットごしにあのサイン帳を握りしめる。
僕もそうだったんだよと、サイン帳のへたくそな文字が叫んでいる。
「あの」
僕の舌が空回りする。
間宮さんが困ったように眉を寄せ、恥じらいに瞳を伏せた。
スガちゃんが向こうで泣きそうな顔をしている。
全部見えている、見えているけど……僕はっ!
「でももう、昔の話だよね」
僕が口を開きかけたとき、二人の間に落ちたのは間宮さんの固い言葉だった。
「そんな……」
そんなのってないよ。確かに、昔の話かもしれない。遠く離れてお互い知らない時間の方がずっとながいかもしれない。でも、ここで、今、また会えたのは奇跡でも偶然でもなくて、運命って事だってあってもいいんじゃないか?
さみしげに首をかしげる間宮さんに、僕は一歩距離を縮めた。
また、新しく始めたらいいじゃないか。伝えられなかった言葉を、はめられなかったパズルのピースのように繋げて、もう一度……。
間宮さんの唇がゆっくりと開く。
僕は息を飲む。
そして、彼女の桜色の唇はそっと、僕に決定的な一言を差し出した。
「今日はね、代車につけるチャイルドシートを借りに来たのよ」
と。