三話
昼飯から帰ると意外なことにオーナーが奇跡を起してくれていた。なんと、あのベンツの車検予約をとっていたのだ。
今日の午後に預けに来て、明後日に納車になる。おかげで、僕の昼からの作業はまったくと行って良いほど手がつかなかった。ガソリンスタンドのほうに車が入ってくる度に彼女じゃないかとそわそわし、気が気でなかったのだ。
結局、その日早番だった僕は彼女の車を見る前に帰宅した。
家に帰って、母親のなにか言っている声も無視し(たぶんすぐに風呂に入れとか、夕飯もうすぐだとかいう類だ)自室に一直線に向った。
急いで引き出しを開ける。
使いかけの鉛筆や壊れたシャープペンシル、なんに使うかわからない螺子に、よくわからないプリント。色んなものが詰め込まれたその引き出しの中身を一気にぶちまける。
ここに入れた筈だ。ずっと手にしてはいなかったけど、ここに確かに……。
後生大事にしまわれていた不用品の山を必死で書き分ける。
小花模様の小さな紙……小花模様の……。
「あった!」
一番下に、それは奇跡的に折れ曲がりもせずに出てきた。
真っ先にみえた「だざいおさむ」の汚い字に飛びつくように僕はそれを拾い上げる。
「うわぁ」
懐かしさとはこういうものなのか。
僕は何度も苦しい思いと一緒に思い出していたこの紙切れを見つめ、小さく息を吐いた。
これで一生懸命だったんだよなぁ。
下書きの後が見えるその文字は、曲がりくねっていてところどころ変に角ばっている。好きな食べ物の欄には『うまいぼう(サラダ味)』と正直に書いてあるのに、嫌いな食べ物には『なし』とキュウリが食べられない僕は書いていた。
色々苦笑を誘う中、ふと裏を返す。
たしか、裏はフリーページだったはずだ。
「何書いたっけ」
思い出せずに裏を見た僕は、目を疑った。なぜなら、そこに書いてあったのは。
『間宮さんへ
僕は間宮さんのことが、好きです。
たくさん話したかったです。
だから中学になっても友達でいてください。』
耳まで顔が熱くなった。
何てことだ。僕は、僕は本当にラブレターを渡そうとしていたんじゃないか。長い時間の中で、記憶がいつの間にか自分のいいように改ざんされ、あんな風になっていたけど……なんてことはない。僕はあの時、大窪に本当の事を指摘され、それでムキになってたんじゃないか。
「ははっ。マセガキだったんだなぁ」
そういう声が弱々しい。
一世一代の告白が綴られたその文面とにらみ合いながら、隣にすえられているベッドに腰掛ける。
こんなの、渡すべきじゃないよなぁ。もしくは、ここは消して渡すか?
悩む。
今更だし、子どもの頃の話しだし、二十年近くも時間は経ってるし、俺だってその間彼女はいた事もあるし、彼女だってそうだろうし……。別にいいじゃないか。そんな気持ちの一方、この文を書いたときの自分を思うと、むげにしてはいけないような気もしていた。
机に目を向ける。
実家暮らしの僕は、今もこの勉強机をパソコンデスクとして使っている。
ふと、在りし日の、サイン帳を必死の思い出書いている自分の姿を想像した。
まだ何も知らない無知な横顔。緊張のせいで、必要以上に強く鉛筆を握り締める手。彼女のことを思い、本当の自分の小ささを恨み、僅かな希望にすがろうと一生懸命な少年。
あの想いは、ここに封じたままでいいのだろうか?
あの想いは蕾のまま落としてしまっていいのだろうか?
風に散るとも、花びらを広げ、空に向ってその声を張り上げる方が、よほどいいんじゃないだろうか?
「せっかくの、チャンスだもんな」
やり直せるなんて思ってなかった。そこにこうやってチャンスはやってきたのだ。
渡そう。
僕はサイン帳を手に立ち上がると、そっと机の上に置いた。
翌日僕は遅番だった。昼過ぎからの出勤で閉店の二十一時までの勤務だ。
そわそわしながら自転車を走らせ、作業所の脇の駐輪所に滑り込む。チラリと中を覗くと、すぐにあのベンツのワインレッドが飛び込んできて、胃の辺りがきゅっと引き締まった。
彼女が来た。ここに、もう一度やってきたのだ。
「ちわ~す」
僕は動揺を悟られまいと気を配りながらロッカーの扉を開ける。中には先輩数人がいるが、いつもと変わらない様子だ。スガちゃんに特別口止めしたわけじゃないけど、秘密にしてくれていた事にほっとした。
そそくさと作業着に着替え、素早くサイン帳を作業着のポケットにしまう。僕は何だか少年の頃の自分を連れてきたような気分になって、ポケットの上からそいつを二回、軽く叩く。「大丈夫、僕がついてるからね」と。
僕はそのまま小走りで作業所に回り、すでにジャッキで上げられているベンツの傍に駆け寄った。
本当は作業予定表の確認はおろか、タイムカードだって押さないといけないんだけど、僕は一刻もはやく間宮さんを、いや、間宮さんの車を近くで見てみたかった。
「取りに来るのは明日っすよ」
車の向こうから声がして、僕はかがんで見る。ベンツの下からむくれた顔のスガちゃんの顔が見えた。
「なんか、ありえないくらい幸せそうな顔っすね」
「そう?」
「これ、ただの車っすよ」
「彼女の、車だよ」
「すっかり小学生に逆もどりっすね」
スガちゃんはそういうと上体を起す。呆れ顔が隠れて行く。僕もそれに合わせるように顔を挙げ、車を挟んだスガちゃんを見た。今日は分かりやすい。めちゃくちゃ不機嫌なスガちゃんだ。
「どうかした?」
「何にもないっす」
嘘だ。聞いて欲しそうにこちらを見るくせに、口は頑固にへの字口に曲がっている。困ったぞ、こういう時のスガちゃんは難しいのだ。
さっき、先輩達が狭いロッカーで固まっていたのを思い出し、避難していたんだと思い至る。だったら僕にも一言教えてくれてもよかったのに、とも思った。
僕は話題をできるだけ仕事の方向へ向けることにした。
ベンツの車体に手を添える。滑らかなフォルムに思わず昨日の間宮さんの立ち姿を思い出す。
そうだ……
「間宮さん。受付したのは誰?」
「自分す」
「どんな感じだった?」
仕事の話のつもりが、思わず口を滑らせてしまった。でも、まぁ何か話題になれば良いか、と思いなおしスガちゃんを見る。が、全くもって良くはなかったらしい。スガちゃんはさらに険しい顔をして口を今度は尖らせていた。
「やめたほうがいいっす。ってか先輩。あの人の名前、フルで言ってください」
「へ?」
「フルで!」
「あ、間宮茉莉だけど?」
「やっぱり、本人か……」
スガちゃんはそういうと腕を組んで「あの女、ありえねぇ」と小さく零した。その顔は本気で恐ろしく、獲物を狙う蛇、牙を向く猛犬、爪を振りかざす熊ほどの迫力があった。
なんだ? 彼女とスガちゃんは知り合いなのか?
「やめたほうがいいっスよ。あんな女」
「え? 何で?」
場面にそぐわず、僕は動揺のあまり、いや恐怖のあまり、帰って妙に軽々しい口調になる。
しかし、スガちゃんは気にする様子もなく
「とにかく、サイン帳の事も、あの女の事も、忘れた方がいいっス。自分も昨日は気づきませんでしたけど、あの女は絶対ダメっすよ!」
と声を荒げた。
僕は少しむっとする。
スガちゃんはもしかしたら何かの知り合いなのかもしれない。彼女の何かを知るのかも知れない。でも、でも……。
僕はサイン帳をいれたポケットに手をあてた。
僕の想いは僕のものだ。僕の思い出も僕のものだ。誰にも、スガちゃんにも、どうこう言われたくはない!
「先輩! このベンツにも触らないでください! 他の人に任せればいいじゃないっスか」
スガちゃんはそういうとすねるように背を向けた。僕は苛立ちを静めようと鼻から息をゆっくりと吐く。
大窪のことを思い出す。
そうだ、あの時も人に流されて、僕は失敗した。僕は僕の想いも、彼女の事も、何一つ守れなかった。でも、もう、同じことは繰り返したくない、いや、繰り返しちゃいけないんだ!
「ほっといてくれ」
「え?」
僕は一言それだけを言うと、車輪のついた作業台に背を乗せて、ベンツの下にもぐりこんだ。
スガちゃんの足が戸惑うように行ったり来たりしているのが見える。でも、それもしばらくして止まると「タイムカード、先輩の分、押しておくっすね」とうわごとのように言ってから遠のいていった。