二話
結局、渡せなかったサイン帳は今も引き出しの奥にしまってある。
彼女の実家の弁護士事務所は、その後大きなビルになり今も街で屈指のお金持ちだ。彼女はその後、私学のお嬢様学校を出て東京の大学に行ったと、二年前の同窓会の時に聞いた。
教えてくれたのは大窪で、大窪はその時にこうも言った「俺。実は彼女の事、好きだったんだよなぁ。でも、彼女がお前の事好きなんじゃないかって噂があってさ、実際、すっげーお前の事ライバル視してたんだぜ」と。そういう大窪は十代の時にバイト先の子と結婚し、もう三人の子持ちだった。
僕はと言うと、今は彼女もいない寂しい独り身で、高校も地元の工業だったから、結局この街から一歩も外へは出ていない事になる。
「間宮さん、何してるのかなぁ」
呟いてみる。実家がまだここにあるのだから、戻ってくることはないのだろうか?
もし、戻ってくるのなら……。
「なに? 初恋でも思い出してるんすか?」
いきなり後ろから声をかけられ、僕は驚き、思わず缶コーヒーを取り落とす。まだ残りがたくさんあったそれは、茶色いしみを広げながら盛大に転がっていった。
「げ~っ。何してるんすか! もう! マジありえない!」
マジありえない……が口癖の、今年二十歳になるという後輩は、そういいながらもどこからか取り出したタオルを僕に投げてよこし、缶コーヒーを拾ってくれた。
欧米人もびっくりの金髪で、耳にはいくつもピアスが光っている。正直、入ってきたときはどこのレディースが乗り込んできたのかと身構えたが、働き出すと実に器用で素直な女の子だった。職場では歳が一番近いせいか、よく話す。
「ごめん。スガちゃん」
「いいっすよ。こっちも急に声掛けたんが悪いんすから」
そういいながらスガちゃんは手早くモップで床を拭き取り、僕がおろおろと自分の服を拭いている間にすっかり片付けてしまった。
「缶コーヒー、弁償しますから、その……」
スガちゃんが口ごもる。ふと、作業所の隣で同じオーナーが所有するセルフのガソリンスタンドのほうに目を向けた。
オーナーが『昼休みだ、二人で食って来い』というジェスチャーをしているのが見えた。
「あぁ、昼飯ね。いいよ、行こうか」
「はい! うわ、ラッキー。 マジありえなくない?」
あるのかないのかわからない独り言とその喜びように、僕は一瞬おごらされるのではないか不安になるが、言ってしまった手前後には引けず、腰を上げた。
一台のベンツが入ってきたのはその時だった。ワインレッドの、この町では見かけない車だった。珍しいので思わす見つめてしまう。そのベンツはセルフの給油所に止まる。
「どこの金持ちっすかね。 マジ、ベンツとかありえない。ウケるんですけど~」
と、スガちゃんの全然ウケてなさそうな、正確に言えばやっかみの半分不快そうな声を耳に、僕はなぜかそのベンツから目が離せないでいた。
左ハンドルだ。しかも、降りてきたのは……。
「女!? マジありえない」
すらりとしたモデルのような体系の女性だった。ワインレッドの車体に良く似合うシンプルなオフホワイトのワンピースに、背中で揺れる長い髪。こちらからは顔は見えなかったが、オーナーがそのお客を見るや否やすっ飛んでいったのを見ると、かなりの美人らしいことは想像できた。オーナーは女性に、特に美人には弱いのだ。
「水商売か、ヤクザの女っすかね」
あからさまなスガちゃんのやっかみに、僕は苦笑で返事した。
天敵をにらみつけるようなスガちゃんをこれ以上煽りたくなくて、肯定も否定もしなかったけど、僕にはそんな風には思えなかった。第一、髪は真っ黒だし、佇まいがどことなく品がある。そう、ちょうど彼女みたいだ。もし、彼女が大人になっていたら、あんな風に……。
「あ、オーナー、手なんか触ってる~。ありえね~」
セルフの給油がわからなかったのか、そのお客さんは今や顔面が溶けきったデレデレのオーナーにその方法を教わっていた。
お客さんが給油ノズルを手に、こちらを振り返った。
僕は息を飲む。
世界がぐらりと揺れて、そのまま固定する。
全ての音も、全ての光も、風も、油の臭いも、全てが固化し、僕は目を瞠る。
困ったような笑みで給油ノズルを給油口に差し込むその横顔は……
「ま、みやさん」
確かに彼女のものだった。
スガちゃんが訝しげに僕の顔を覗き込む。
「マジありえね~」
スガちゃんが定食のご飯粒を飛ばしながら絶叫した。
作業所のすぐ近く、ほぼ毎日お世話になっている定食屋で、僕はスガちゃんと向かい合って昼飯を食べていた。
「あのベンツの女が先輩の初恋で、それでもって、サイン帳はまだ渡せてなくてぇ」
「スガちゃん。間違ってないけど、めちゃくちゃ」
「すんません。馬鹿なもんで」
スガちゃんは悪びれもせずそう答えると、自分の中で僕の話を反芻するかのように「へ~。そうそう、そうなんだ~」とぶつぶつ独り言を言いながら定食を再びつつき始めた。
ちなみに僕はコロッケ定食で、スガちゃんは焼肉定食。なんだか勢いの差を感じる。
まだ食べ終わらないスガちゃんをよそに、僕はすっかりからにした自分の盆を端に寄せ、灰皿を引き寄せた。
しけもくが山になっていて、動かすと灰が舞う。文句を言おうかと思ったけど、一人で切り盛りしているオバちゃんが忙しそうにフライパンを振っているのがカウンターの向こうに見えて、やめた。
黄ばんだ壁に貼り付けられた、水気を失いところどころ破けやっぱり黄ばんでいる手書きのメニューをなんとはなしに読んで行く。
一度、タダでいいからパソコンで作り直してやろうかといったら、オバちゃんは「主人が書いたものだから」と申し訳なさそうに言った。オバさんの主人は借金と女を作って逃げたと聞いていた僕は、そんなオバちゃんの言葉に驚き、同時にそんなオバちゃんが好きになった。
ただの紙切れにだって、色んな思い出があるんだ。
「で、先輩はどうするんすか?」
「え?」
「ベンツ女っすよ」
スガちゃんが何故か責めるような目をしながら、焼肉を細かく箸で裂く。
「サイン帳、渡さないんすか?」
「や、今更だし」
と、言いながら、言葉にするまでどこかでそれを考えていた自分を見つけどぎまぎする。
馬鹿な考えだ。
そんな、20年近く前のもの。しかも、彼女が僕を覚えている保証なんかどこにもない。仮に覚えていたとして、きっとあの卒業式の最悪な出来事とセットになっていて、最悪な人間として覚えられているのだろう。渡せるわけ、ない。
「渡せばいいじゃないっすか。案外これがきっかけで、いい感じになるかもですよ」
言葉の内容のワリには、スガちゃんは怒っているようだった。スガちゃんの気持ちがイマイチわからないが、その案はとてもいいような気もした。
少なくとも、謝るチャンスじゃないだろうか。ここに給油に来たと言うことは、この街にいるってことだ。これからずっといるのか、それとも一時的に実家に帰ってきたのかはわからない。正直、もうこの街を出たかも知れないけれど、もし、もし、もう一度彼女がガソリンスタンドに現れたら……。
「マジで考えちゃったりしてます?」
スガちゃんの声に、僕は少し照れながら
「まぁね。やっぱりちゃんと謝りたいしさ」
と正直に答えた。そんな僕をみて呆れたかのようにため息をつくとスガちゃんはじっと黙り込み、焼肉を口いっぱいにほおばりながら眉をしかめた。
なんだなんだ? 今日のスガちゃんは変だぞ? 僕が身構えようとした時、スガちゃんは肉の塊の飲み下し、コップの水を一気に飲み干すと、盛大な音を立ててコップをテーブルに叩きつけるように置いた。
「わかりました。ここは後輩に任せて欲しいっす」
「はぁ?」
「先輩の初恋、実るように応援しますよ」
どこをどう解釈したのか、スガちゃんはそういうと「やるぞ~」と気合を入れて飛び出ていってしまった。わからない。全然スガちゃんがわからない。でも、確かなのは……。
「あの、おあいそですか?」
オバちゃんの声がする。僕は財布を手に立ち上がる。
僕は結局お昼をおごらされたと言うことだ。