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サイン帳  作者: ゆいまる
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一話

 桜の枝先に、弾けそびれたポップコーンの種のような膨らみが目立ち始めている。あと、ほんの少しの陽気と光があれば、それらはきっと花開くのだろうにな。

 もどかしさと期待を同時に抱かせるその姿は、二十年前の自分の姿によく似ていて、僕は少しはにかんだ。

 作業着に油のしみこんだ手のひらをこすりつけ、さっき買ってきた缶コーヒーを片手に作業台に腰掛ける。

 車の整備士になってもう十二年。仕事にも慣れてきたが、腰痛や肩の痛みも油と一緒に体に染み付いてきた。

 軽く腰を逸らして息を吐いてからプルトップを上げる。甘ったるく芳ばしい香りにほっとする。手のひらの中の温かさがじんわりと広がって行き、つかの間の休息に癒しを与えてくれた。

 遠くからホタルノヒカリの歌声が聞こえてきた。三月にはいると、頻繁に聞こえてくる終わりと言うものを想起させるメロディーは、この整備工場の裏手にある中学校から流れてくるものだ。

「卒業か」

 大人になると全く縁のなくなるそのセレモニー。それを思うとき、僕はいつも渡せなかったサイン帳のことを思い出してしまう。

 そう、僕がまだ短パンを平気で履くような小学生の頃の話だ。僕には好きな子がいた。今思えば、アレが初恋だったのかもしれないし、当時僕がそれを意識していたかはわからない。でも、すごく、好きだった。

 彼女は街で一件しかない弁護士事務所のお嬢様だった。といっても、別段高価なものを身につけているわけでもないし、お高くとまっていたわけでもない。ただ、クラスの女子からは浮いていた。中学受験をする人間なんてほぼ存在しない僕らの小学校にいて、彼女だけ低学年の頃から遠い街の進学塾に通っていたのが、大きな原因だったように思う。

 どこか大人びていた。

 女子達特有のグループから弾かれても、陰口を叩かれても、彼女は学校を休まないどころか、涙一つ見せなかった。凛としたその態度が、余計に女子の反感を買ってしまっていた様だ。

 僕は、と言えば、彼女のことが気になって、彼女の陰口を聞く度に胸を痛めていたくせに、実際は見てみぬフリをしていた。

 コーヒーを一口の見下す。甘い香りが喉をゆっくり撫でるように落ちて行く。胃の中が温かくなり、口元を少しゆがめて、僕は手元の缶コーヒーに視線を落とした。

 卒業間近のことだ。自然発生的に流行りだしたのがサイン帳だった。名前や住所、電話番号のほかにも、好きなものや嫌いなもの、星座や、将来の夢なんかを書く欄があって、ルーズリーフのように切り離したりつけたり出来る様になっている。その紙をお互い交換しあうのだ。

 殆どの人が自分のサイン帳にクラスメート分をコンプリートする事に努めていた。

 彼女にもちゃんとその紙が回っているのを見たときは、僕は自分の事以上にほっとして嬉しかったのを覚えている。

 彼女も意外なことにサイン帳を回していた。とてもシンプルで、小花が舞った様なデザインのものだった。

 彼女が僕にその一枚を渡してくれた時、最強になった気持ちと、最弱になった気持ちが同時に押し寄せた。何でもできるようなのに、もう、一歩もそこから動けないような感覚だ。

 僕は慎重に書いた。

 春からは中学受験が実った彼女は他の中学に行ってしまう。もしかしたら、一生彼女とは会えないかも知れない。でも、でも、これがきっかけで、すぐにでなくても、大人になって手紙が来たりするかもしれない。少なくとも、覚えていてもらえるかも知れない。そう思うとただの紙切れが自分の人生を左右する大きな鍵のように思えた。

 字が汚い僕は下書きまでして、細心の注意を払い、一文字一文字記入した。好きな本という欄には、漫画しか読まないくせに格好をつけて「だざいおさむ」とひらがなで書いた。正直、三十過ぎた今でも、太宰治は一冊も読んだことはない。

 とにかく、完璧だと思える仕上がりのサイン帳を、僕は卒業式のその日に持っていった。

 最後のページに自分のページを挟んでほしかったからだ。真ん中では埋もれてしまう。最初は気恥ずかしい。だから、最後の……。

 ホタルノヒカリが止んだ。

 僕は顔を上げる。

 蕾は開かない。

 そして僕のページは、彼女のサイン帳には挟まれる事はなかった。


 僕はその日、貧乏ながらも精一杯下駄を履かせてくれた母親のおかげで、クラスメイトと見劣りしないくらいの格好で卒業式に臨んだ。僕にしたら、精一杯のおしゃれ。これ以上ない背伸びだ。

 式に出る、その前の教室。寂しさと興奮とが入り混じる中、僕は教室の一番後ろの窓から一人で外を眺めている彼女に声をかけようと、サイン帳を握り締めていた。

 声をかける練習はその前の夜に散々したはずなのに、いざ、長い髪のその後姿を前にすると、頭が真っ白になって立ちすくんでしまったのだ。

 でも、渡さなきゃ。これが、唯一、僕と彼女を繋ぐ細い糸になるのだから。

 意を決し、息を飲み、一歩踏み出そうとした、時だった。

 僕の肩を誰かが掴んだ。振り返るとクラスで一番背が高く、学年で一番足の速い大窪だった。大窪は僕の顔をじっと見てから、わざとクラス中に響くような大きな声でこう言った。

「鈴木~。もしかして卒業だからって、間宮にラブレターでも渡すつもりなんじゃね~?」

 一瞬にしてクラスの視線は僕に集まった。

 顔が熱くなる。喉が干上がり、動機がし、眩暈すら感じる。僕はただただ何もいえず、とっさに手に持っていたサイン帳の僕のページを背中に隠し、首を横に振った。

 大窪が笑う。

「な~んてな。ガリ勉ガリ子にだれが告白なんかするかってーの」

 くすくすと嫌な笑い声が立ち始める。

 僕は僕の横顔に刺さる彼女の視線を十分感じていた。憎しみとも、哀しみとも、諦めとも、救いを求めているとも取れる、必死な眼差しに、僕は確かに気がついていたんだ。

 でも、僕は、顔を上げられなかった。

 周囲の女子達は意地の悪い笑みを浮かべ、男子達は面白ければそれで言いと言わんばかりに「ガリ勉ガリ子」と彼女への悪意のこもったあだ名を大合唱する。

 大窪はクラスのリーダーだ。これくらいの盛り上げは、きっと卒業への余興くらいにしか思っていないのだろう。彼女にどれだけの傷を負わすのなんかわからず、ただただ騒ぎたいだけなんだ。だから、もし、ここで僕がむきになって皆を止めても、それは火に油を注ぐだけで……。

 小学生の僕はそんな風に自分で自分の小ズルイ逃げ道をひねり出していた。

 そして、クラスが盛り上がったところで、大窪が僕に耳打ちしたんだ。

「お前、好きなのか?」

 短く、嘲りを含んだ声だった。そんな悪魔の囁きに僕は、身を強張らせ、とっさに、こう叫んでしまった。

「あんなガリ勉、大っ嫌いだ」

 と。

 僕の初恋は、そこであっけなく終わりを告げてしまったのだった。

 それからは確か先生がすぐに来て、騒ぎは収まり、その後皆は何もなかったかのように卒業式に出て、白々しいまでの純粋な涙を流していたはずだ。

 ただ、僕はもはや卒業どころじゃなくて……ずっととげとげした泥のようなものを胃の中に感じるような気持ちで、ホタルノヒカリも何もかもが頭には入ってこなかった。目も合わせてくれない彼女の後ろ姿をじっと見るしかなかったんだ。

 あの時、彼女は泣いただろうか。あの日のことが心に傷をつけたのではないか。この季節になると、いつもあの時の痛みと共に思い出してしまう。

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