CHAIN:02-3
――少し前。
住宅街E-7区画・臨時作戦本部。
仮設トレーラー内、端末群が一斉に警告を発し、空気が引き締まる。
分析官が即座に画面を確認し、振り返って声を上げた。
「上級個体の反応を確認。識別コード〈刹隠〉──確定です!」
「交戦中か?」
神樂坂が、モニターを睨みながら問い返す。
「はい。味方側の武器起動を確認。刹隠との距離30m以下、動きも戦闘パターンに移行。現地では既に交戦が始まっています」
その報告を受けて、後方の職員がわずかに眉をひそめた。
「……相手は刹隠、ですよね。今回は一体でしたが、三年前に通常部隊を全滅寸前まで追い込んだ個体です」
声がわずかに震える。
「本当に、あの三人だけで対応させてよかったんでしょうか?」
神樂坂は言葉に反応せず、静かに席を立つ。
戦況ログに一瞥を送り、端末を操作してデータを呼び出す。
画面には3名の契約者の名と依存タイプ、過去の実績が並ぶ。
「…無論。あの三人なら、勝つ」
「どうして、そこまで断言できるんですか?」
神樂坂はゆっくりと顔を上げ、冷静な口調のまま問い返す。
「お前は何を心配している。敵が刹隠だから?それとも、出ているのが子供だから?」
職員は言葉を失い、沈黙する。
「だったら尚更、彼らにやらせるべきだな」
刹隠は、速さと殺傷効率に特化した個体。
広く散らせば各個撃破され、数を掛ければ被害が増える。
なら、密な連携で一瞬を捉える、最小構成の精鋭が最適解。
ホログラフを操作し、神樂坂は御堂の情報を指で示す。
双子の連携精度は言うまでもない。
そして御堂――今回の役割はサポートだけれど、彼は単独で敵を制圧できる側の契約者。
彼が入ることで、双子の安定感はさらに高まる。
三人で一つの機能を成す、合理的な布陣。
「…年齢も、過去も関係ない。最も適しているのが彼らだった。それが全てだ」
その言葉とほぼ同時に、仮設トレーラーの扉がわずかに軋んだ。
冷たい風が一筋、隙間から滑り込む。
誰かが入ってくる気配に、室内の空気がわずかに動いた。
振り返った職員の視線が、その先に立つ二つの影を捉える。
名乗りも発せられないまま、ただ正確な足取りで歩みを進めてきた。
神樂坂は、振り返りもせずにその気配だけを感じ取ると、ゆっくりと肩越しに問いかけた。
「なあ、お前たちもそう思うだろう?」
視線が捉えるよりも早く、黒い影は弾けるように動き出す。
楓馬が反応する前に、刹隠はすでに彼の背後へと回り込んでいた。
「…来る」
刹那、地面を抉るような踏み込み。
黒い肢体が横風のように走る。
「――!」
振動爪が空気を裂き、背中めがけて振り下ろされる。
楓馬はとっさに体をひねり、短剣で受け止めた。
刃が弾け、火花が散る。
反動で、体ごと後方へ弾き飛ばされる。
だが、刹隠は止まらない。
角度を変えて、今度は斜め下から跳び込んできた。
牙を剥き、振動爪を突き刺すように襲いかかる。
「――またか……!」
楓馬の鎖が絡みつくが、力で弾かれる。
(…速いな、反応が追いつかない)
その時――
「……右」
朧の声。
斜めから回り込み、刹隠の死角を切るように踏み込んでいた。
横腹を狙い、迷いなく刀を振るう。
刹隠は攻撃を中断し、即座に飛び退く。
その瞬間、澪の矢が背後から放たれた。
矢は前脚の付け根をかすめ、黒い液体が再び飛び散る。
「…足、削ってる」
楓馬が息を整えながら呟く。
刹隠の脚運びが、わずかに鈍っていた。
振動爪はまだ機能しているが、連続移動の鋭さは確実に落ちている。
それでも刹隠は止まらない。
今度は真正面から、一直線に楓馬へと突っ込んでくる。
「来い……止める!」
鎖が左右に展開され、三重の防壁を構築する。
そのまま飛び込んできた刹隠の体が、空中で一際大きく震えた。
振動が鎖を押し返すように激しく拡がり、
刹隠の爪が、楓馬の目前に迫る。
朧の刃が、地面を跳ねるように突き上がった。
狙いは下腹部。
その直前、澪の矢が刹隠の爪の角度をわずかに逸らしていた。
連携の一瞬が噛み合い、斬撃が深く抉る。
三度目の黒液が、地面に滴った。
刹隠が体勢を崩し、片膝をつく。
鋭く息を吐き、爪を振り払って後方へ跳び退る。
「……崩し切った」
楓馬が鎖を直す。
朧は無言のまま、刀を構え続けていた。
澪が矢をつがえ、楓馬が鎖を張り直す。
朧は静かに一歩を踏み出す。
――視えている。
決めるなら、次。
「……あと、一撃」
朧が進み出る。
静かな足取りで、まっすぐに刹隠との距離を詰めていく。
刹隠もまた、低く身構える。
その動きは、もはや獣ではない。
刃そのものだった。
反射で跳び、喉笛を断つ。
それだけの構え。
一瞬、空気が沈む。
次の瞬間、刹隠が跳んだ。
低く、速く、空気を割るように。
「……楓馬」
朧の短い声に、鎖が一斉に走る。
三方向から伸びる鎖が、刹隠の軌道を囲む。
その進路に、澪の矢が滑り込んだ。
動きがわずかに乱れ、刹隠の勢いが鈍った。
そこへ、朧が踏み込む。
地を蹴る。
風を切る。
視界が、朧の刃に一点へと集束する。
「……断つ」
その一言と共に、月霞が振り抜かれた。
音もなく、空気を裂いた斬撃が、刹隠の頸部を真横に貫く。
動きが止まる。
黒い体が、そのまま重力に引かれて崩れた。
朧は間を置かず、刀を構え直す。
狙うのは胸部中央。
一歩踏み込み、倒れた体の中心を斜めに斬り裂く。
刃が黒い装甲の隙間を割り、内部を貫いた。
肉が裂け、甲殻が割れる。
その奥に、脈動する“核”が現れる。
朧は一切の迷いなく、刃を振り上げた。
静かな一閃が、その中心を正確に断ち割る。
破裂音が空気を突き破り、濃密な黒液が四散する。
核の光が一瞬だけ揺れ、すぐに濁って崩壊した。
「…撃破、確認。上級個体〈刹隠〉、核…破壊完了」
楓馬の言葉と同時に、張り詰めていた空気が音もなくほどける。
鼓膜を圧迫していたような圧力が消え、世界がようやく静かさを取り戻した。
朧は刀を下ろし、澪は弓を抱えたまま息を吐く。
震える指先と、乾いた唇が静かに揺れていた。
楓馬が一歩、崩れた刹隠の体へと歩み寄る。
砕かれた核の欠片が、胸部から散るように転がっている。
その表面には、すでに揮発し始めた黒い液体がかすかに残っているだけだった。
楓馬はしゃがみ込み、淡々と核の欠片を拾い集める。
全ての欠片を掌に集め終えると、ポーチから瓶を取り出し欠片を静かに中へ収める。
最後の一片が沈んだところで、蓋をしっかりと閉じた。
「回収完了。次は中級の――」
同じ頃、少し離れた別の路地。
黒い指揮刀〈王策〉を腰に下げた青年が、遠くの一点を射抜くように視線を据えていた。
わずかな間を置き、隣に立つ青年へ低く命じる。
「──緋門、まっすぐ投げろ」
短い響きが、狭い路地を鋭く駆け抜けた。
名を呼ばれた青年は、足元のアスファルトを踏みしめ一歩前に出る。
瞬間、両腕の皮膚に黒鉄色の鎖模様が浮かび上がり、体表を這うように肩口へ広がっていく。
それに呼応するように、周囲の空気がじわりと熱を帯びた。
腕の先に巨大戦斧〈殉円〉が、空間を歪ませて顕現する。
黒鋼の双刃は縁だけが深紅に焼き入れられ、揺らめく紋が刃全体を走る。
鎖状装飾が鈍い金属音を立てて震えた。
「はい。兄さん――」
振りかぶった途端、路地沿いのシャッターや電柱が低く唸り、空気が波打つ。
全身の力を込めて放たれた殉円は、住宅街の中央を一直線に突き抜けた。
赤黒い光の尾が狭い通りを裂き、通過した空気が爆ぜるような衝撃音を響かせる。
その爆ぜる音が、住宅街の静けさを切り裂いた。
耳に届くより先に、肌が空気の圧を察知する。
楓馬は反射的に顔を上げ、視界の端を横切る影を捉えた。
──速い。
腰から庇綴を抜き放ち、身をひねる。
赤黒い両刃の巨斧が肩先をかすめ、火花と熱を撒き散らしながら背後へ抜けた。
直後、物陰から裂肢が跳び出す。
その胴を、放たれた殉円が真正面から叩き割った。
鋼を割るような粉砕音と共に甲殻が砕け、巨体はアスファルトへと深々と突き刺さる。
飛び散った黒い液体が地面を濡らし、じわりと蒸気を上げながら消えていった。
刃の先では、まだ脈動と熱が揺れている。
その向こうから、アスファルトを踏みしめる二人の足音が近づいてきた。
振り向けば、殉円の主である青年──弟・楯川緋門と、その少し後ろに、冷ややかな視線を向ける兄・楯川刃雅の姿があった。
「……危なかった?」
緋門が控えめに問いかける。
楓馬は突き刺さった殉円から視線を外し、わずかに首を横に振った。
「大丈夫。ちゃんと避けられた」
その返事に、緋門はふっと安堵の息を吐く。
殉円の刃の脇まで歩み寄り、刃先に残る黒い液体を避けて足を止め、視線を落とした。
「ごめん、僕が──」
その謝罪を遮るように、背後から低く落ち着いた声が割り込む。
刃雅が一歩前に出て、緋門の横に並び、楓馬をまっすぐ見据えた。
「…俺の判断だ。悪かった」
その口調に揺らぎはなく、わずかに顎を上げたままの視線は強気を崩さない。
眉一つ動かさず、どう見ても反省の色はなかった。
楓馬は二人を交互に見やり、口を開く。
「気にしないで、こっちは無傷だから。それより、どうしてここに?」
刃雅は短く息を吸い、わずかに視線を逸らしてから答えた。
「教官から、中級の処理を任された」
刃雅は視線を路地の奥へ向け、黒く煤けた壁面と、瓦礫に半ば埋もれた中級の残骸を一瞥する。
「この区画の中級は、四割ほど片づけた」
靴底に瓦礫を軽く踏み鳴らしながら淡々と告げる。
砕けた外壁の隙間から、まだ熱を帯びた風がかすかに吹き抜けていた。
言い終えるや否や、刃雅の耳元で小さな電子音が鳴る。
耳に装着された無線機のランプが瞬き、かすかに神樂坂の声が漏れた。
刃雅は顎を引き、わずかに息を整えてから、視線だけ前方に固定する。
「…はい。双子と御堂と合流しました」
短く報告を終えると、耳から無線機を外しながら楓馬へ視線を向ける。
戦闘の熱をまだ帯びた眼差しが、そのまま次の指示を告げた。
「中級の残りは双子と俺たちで片付ける。御堂、お前には別の指示がある」
そう言って、無線機を差し出す。
楓馬は一瞬だけ刃雅の顔を見てから、無言でそれを受け取った。
『御堂、聞こえるか?』
耳にかけた無線から、今度ははっきりと神樂坂の声が届く。
涼やかで落ち着いた声色に、戦場特有の張り詰めた響きが混ざっていた。
『区画の南西で、一般戦闘科が下級の群れと交戦中だ。数が多く、押し切られそうだ。君は現地へ急行し、討伐を支援してほしい』
「了解」
楓馬は短く応じたが、その声音には迷いがなかった。
返答と同時に視線が鋭く南西の空へと流れ、わずかに瞳孔が収束する。
無線機を刃雅へ返し、一歩踏み出した瞬間──
『いい顔だ』
耳の奥、脳の内側に直接触れるような声が響く。
燐哭だ。
戦場のざわめきとは無縁の、落ち着き払った声音で続ける。
『やっぱり君は異形を斬る時より、誰かを助けに行く時の方が生き生きしてる』
楓馬はわずかに目を細め、前を見据えたまま答える。
「……それが、僕のやりたいことだから」
『いいね。迷わない救済は美しい』
燐哭の声音は、微笑むようにわずかに甘くなる。
けれど、その奥底には温度のない硬質な響きが潜んでいた。
飴の中に仕込まれた刃のように、楓馬の胸を静かに押し込む。
『だからこそ君は――』
楓馬は眉をわずかに寄せたが、足は止まらなかった。